幸福は抵抗になりうるか?──世界が壊れているときの幸せの在り方
- Seo Seungchul

- 7月8日
- 読了時間: 9分

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事:Skye Cleary "Happiness as a form of resistance" (Institute of Art and Ideas, 2022年7月21日)
概要:シモーヌ・ド・ボーヴォワールとアルベール・カミュの対話を通じた、幸福の道徳性と抵抗としての意味
毎日、SNSで悲惨なニュースが流れてきます。パンデミック、政治的混乱、気候変動、差別、そして戦争。そんな世界で自分だけ幸せになることって、何だかうしろめたくありませんか。
実は、この問いで悩んでいたのは私たちだけではありません。20世紀フランスの哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワールも同じことで頭を悩ませ、親友のアルベール・カミュに相談していたのです。彼らが出した答えは意外にも、幸福の肯定でした。ただし、それは無知や無関心に基づく幸福ではなく、現実と向き合った上での真正な幸福でした。
今回は哲学者スカイ・クリアリーの論考を手がかりに、この複雑な問題について考えてみたいと思います。果たして幸福は、不公正で理不尽な世界への抵抗になりうるのでしょうか。そして、私たち一人ひとりが直面している「世界の痛みと個人の幸せ」という二律背反を、どう乗り越えていけばよいのでしょうか。
70年前の問いが、今の現実になってる
富良野:この記事を読んでいて、すごく驚いたのは、ボーヴォワールの「想像力の破傷風」という表現なんです。1961年のアルジェリア戦争の報道を読んでいるうちに、心が麻痺してしまったという話。
Phrona:まさに今のドゥームスクローリングそのものですよね。私たちが毎日SNSで経験していることを、70年も前に彼女が言葉にしていたなんて。
富良野:そう、破傷風って筋肉が固まってしまう病気ですけど、想像力の破傷風は感じる力が固まってしまう状態。最初はショックを受けるんだけど、だんだん慣れてしまう。
Phrona:でも今って、ボーヴォワールの時代とは構造が違いますよね。彼女は新聞を読むという意識的な行為で情報に触れていたけど、私たちはアルゴリズムによって自動的にネガティブな情報を押し付けられている。
富良野:ああ、そこは決定的に違いますね。今のソーシャルメディアって、僕らの脳が持つ「脅威を探知しようとする本能」を商業的に利用している。ボーヴォワールの時代は個人的な選択だったものが、今はシステム的に設計されている。
Phrona:しかも、統計を見ると本当に深刻で。アメリカの若い世代の半分以上が定期的にドゥームスクローリングをしているって。
富良野::僕らが直面しているのは、ボーヴォワールと同じ問いなんだけど、それがもう社会構造の問題になってるということですね。
カミュの洞察は今も有効なのか
Phrona:それで、ボーヴォワールがカミュに相談したという話なんですけど、彼女の罪悪感ってとてもよく分かります。
富良野:「自分の幸福に集中することで、政治的現実から目を逸らしてしまうのではないか」という不安ですね。友達の誕生日を祝ったり、美しい夕日を見て感動したりしているとき、ふと「こんなことしていていいのかな」って思ってしまう。
Phrona:そうそう。世界のどこかで苦しんでいる人がいるのに、自分だけ楽しんでいるなんて。
富良野:でも、カミュの答えが興味深いんです。「あなたが幸福を受け入れても、他の人の不幸が悪化するわけではない。むしろ、その人たちのために戦う力になる」という。
Phrona:これって、自己犠牲の神話を解体してますよね。私が不幸になることで、誰かが救われるわけじゃない。
富良野:航空機の安全説明みたいですね。まず自分に酸素マスクをつけてから、他の人を助けましょうっていう。疲弊してしまった人は、他者を助ける余力も失ってしまいますから。
Phrona:興味深いのは、現代の研究でもカミュの直感が正しかったことが証明されているということです。
富良野:どういうことですか?
Phrona:ソーシャルメディア上で希望や帰属感のメッセージの方が、悲しみや絶望よりも実際には効果的だという研究結果があるんです。つまり、ポジティブな感情を共有することの方が、社会的にも意味がある。
富良野:なるほど。ただ、ここで重要なのは、どんな幸福でもいいというわけではないということですよね。カミュもボーヴォワールも、「真正な幸福」という条件をつけている。
無関心という現代の誘惑
富良野:この「悪しき信念」という概念も、今の時代にとても関係が深いと思うんです。
Phrona:ボーヴォワールの言う「悪しき信念」って、自分の置かれた状況の本当のコンテクストを無視して、自分を欺くことですよね。
富良野:例えば、気候変動の問題を知っているのに「でも自分一人では何も変わらない」と言って何もしないとか。あるいは、社会の不公正を知りながら「政治なんて難しくて分からない」と思考停止してしまうとか。
Phrona:自分の自由や責任から逃げるための、ある種の心理的な防御機制なんでしょうね。でも、それって結局は自分の人生をも貧しくしてしまう。
富良野:記事では「受動性は私たちの人生を腐敗させ、経験を鈍らせる」と書いてありましたね。楽だけれど、生きている実感が薄れてしまう。
Phrona:現代って、この「悪しき信念」に陥りやすい構造があるような気がします。
富良野:どういう意味ですか?
Phrona:情報が溢れすぎていたり、個人に過度な責任が押し付けられる社会構造があったりすると、人は自然と現実逃避したくなる。システムの問題と個人の選択の問題が絡み合っているんです。
富良野:確かに。僕らが直面している情報の量とスピードは、人間の処理能力を明らかに超えている。そんな中で「すべてを把握して適切に行動しろ」と言われても、無力感を感じるのは当然かもしれません。
抵抗としての幸福って、具体的には何なのか
Phrona:それで、この記事のタイトルでもある「抵抗としての幸福」という考え方なんですが、これ、どう理解したらいいんでしょう。
富良野:不公正や理不尽さに対して、自分の幸福を維持すること自体が一種の抵抗になる、ということでしょうね。でも、それって具体的にはどういうことになるんでしょう。
Phrona:ただ楽しく過ごしていれば抵抗になるというわけではないですよね。やっぱり「真正な幸福」という条件がついている。
富良野:つまり、現実を見据えた上で、それでも希望を保ち続けること。絶望させようとする力に対して、「それでも生きることには意味がある」「それでも美しいものは美しい」と言い続けること、かもしれません。
Phrona:権威主義的な体制って、人々から希望や喜びを奪うことで力を維持しようとしますから。幸福を保つことは確かに抵抗の一形態になりえる。
富良野:「君たちは私の内面までは支配できない」という宣言みたいなものですね。でも、これも個人レベルの話だけじゃなくて、もっと社会的な意味もあるんじゃないでしょうか。
Phrona:例えば、社会の周縁に追いやられたコミュニティの人たちが、それでも文化や祭りや音楽を大切にし続けることって、とても強い抵抗の意味を持っていますよね。
富良野:文化的なアイデンティティを保持すること自体が、同化を強要する力への抵抗になる。そう考えると、幸福の追求は確かに政治的な行為でもあるわけですね。
デジタル時代の幸福の技術
Phrona:結局のところ、私たちにできることって何なんでしょう。この「世界の痛みと個人の幸せ」という矛盾の中で。
富良野:記事の最後に「人間であるということは、周囲の世界をコントロールしようとすることと、それに押しつぶされないようにすることの間の、絶え間ない緊張状態にある」って書いてありましたね。
Phrona:つまり、完全な解決策なんてないということでしょうか。常にバランスを取り続けていくしかない。
富良野:でも、それって悲観的な話ではないと思うんです。人間の条件として受け入れた上で、それでもどう生きるかを考える。カミュやボーヴォワールも、答えを見つけたというより、問い続ける姿勢を示してくれている。
Phrona:現代の専門家たちも似たようなことを言ってますよね。情報から完全に断絶するのではなく、「デジタル境界」を設定しようって。
富良野:「建設的で積極的に自分自身を人生に投影する」という表現もありました。現実から逃げるのでもなく、絶望に支配されるのでもなく。
Phrona:私、この話を聞いていて思ったんですけど、幸福って、もしかしたら技術みたいなものなのかもしれません。
富良野:技術ですか?
Phrona:つまり、学んで身につけていくもの。世界の複雑さや矛盾と向き合いながら、それでも生きる喜びを見つけていく技術。
富良野:それは面白い視点ですね。生まれつき幸福な人がいるわけではなく、みんな試行錯誤しながら、自分なりの幸福の見つけ方を学んでいく。
Phrona:そして、その技術を共有していくことで、社会全体の「想像力の破傷風」を防ぐことができるかもしれない。
富良野:個人的な幸福の追求が、実は社会的な意味を持つということですね。それなら、罪悪感を感じる必要はない。むしろ、積極的に幸福を追求することが、ある種の社会的責任でもあるのかもしれません。
ポイント整理
想像力の破傷風の現代化
ボーヴォワールが70年前に経験した心理的麻痺が、現代ではドゥームスクローリングとして社会問題化している
システム的な絶望の設計
現代では個人の選択だった情報摂取が、アルゴリズムによって商業的に操作される構造になっている
幸福への罪悪感の普遍性
世界に苦しみが存在する中で幸せになることへの後ろめたさは、実は自己犠牲の神話に基づく錯覚である
真正な幸福と現実逃避の区別
現実と向き合った上での幸福こそが、個人的にも社会的にも価値を持つ
抵抗としての幸福の政治性
希望と喜びを保ち続けることは、絶望を強要する力に対する一種の抵抗行為となりうる
幸福の技術としての習得
幸福は生得的なものではなく、世界の複雑さと向き合いながら学び、身につけていく技術である
デジタル境界の必要性
情報から完全に断絶するのではなく、意識的な境界設定によってバランスを保つ現代的知恵
キーワード解説
【シモーヌ・ド・ボーヴォワール】
20世紀フランスの哲学者・作家。実存主義の代表的思想家
【アルベール・カミュ】
同じく20世紀フランスの作家・哲学者。不条理の哲学で知られる
【想像力の破傷風】
ボーヴォワールの造語。過度な情報により感受性が麻痺する状態
【ドゥームスクローリング】
SNSで悲惨なニュースを延々と見続ける現代的行動パターン
【悪しき信念】
ボーヴォワールの概念。自分の自由や責任から逃げるための自己欺瞞
【真正な幸福】
現実逃避ではない、現実と向き合った上での本物の幸福
【抵抗としての幸福】
不公正な現実に対して、希望や喜びを保ち続けることの政治的意味
【デジタル境界】
現代におけるメディア摂取の意識的な制限と管理