教皇レオ十四世のAI回勅を読む ──AI統治をめぐる正統性の空白
- Seo Seungchul

- 2 日前
- 読了時間: 11分

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事:
Isabella Piro, “Pope Leo's ‘Magnifica humanitas’: AI must serve humanity not concentrate power” (Vatican News, 2026年5月25日)
David J. Scheffer, “The Pope's Mandate on AI Is a Moral Safeguard for Our Times” (Council on Foreign Relations, 2026年6月4日)
新しい技術には、大きな機会だけでなくリスクもある。AIをめぐる議論の多くは、安全に、公正に、説明可能に、そうやって形容詞を足していけば、いつか「倫理的なAI」になり問題が無くなる、という暗黙の前提の上に立っている。たどり着く。2026年に教皇レオ十四世が発した最初の回勅は、この前提の一段下に手を入れた。より道徳的なAIであっても、その道徳が少数者によって決められているなら十分ではない、と。
問われているのは、もはやAIをどう正しくするかではない。その正しさを、誰が、いかなる権限に基づいて書くのか、である。倫理化という解決策の内側に、解決されないまま残る穴がある。倫理それ自体もまた、独占されうる。本稿が追いたいのは、この穴の形だ。
「新しい事柄」の再来
回勅の署名日は2026年5月15日。1891年にレオ十三世が『レールム・ノヴァールム』を発布した日から、ちょうど135年後にあたる。この日付の選択は装飾ではない。文書が自らをどう位置づけているかの宣言である。
『レールム・ノヴァールム』は、近代カトリック社会教説の出発点とされる。産業革命が労働と資本の関係を根底から組み替えたとき、教会はそれを「新しい事柄(rerum novarum)」として引き受け、労働者の尊厳、公正な賃金、所有権の限界、結社の自由を論じた。新しい教皇は、AIやロボティクス、デジタル化を、同じ資格の「新しい事柄」として置く。つまりAIは、便利な新技術である前に、社会秩序を組み替える文明的変化として扱われている。
この枠の上で、回勅は二つの鋭い命題を据える。第一に、技術は中立ではない。それは作り、出資し、規制し、使う者の性格を帯びる。第二に、第107項の命題、すなわち、より道徳的なAIであっても、その道徳が少数者によって決められているなら足りない。前者は技術決定論への拒否であり、後者は倫理還元論への拒否である。本稿の見立てでは、この回勅の最も切れる動作は、AIの問いを倫理の水準から正統性の水準へと移したことにある。そしてこの移動は、回勅自身を巻き込む一つの緊張を抱えている。
倫理を書く手は誰のものか
AIを安全で公正なものにする努力は、それ自体としては正しい。だが、その安全や公正の中身を、ごく少数の主体が定義し、実装し、更新するなら、技術の権力集中という当初の問題は、倫理の権力集中というかたちで再帰する。誰が価値を書くのかを問わないかぎり、倫理化はしばしば集中の隠れ蓑になる。回勅の第107項は、この再帰を一文で突いている。
ここで論点は、認識論的な水準へ届く。何が善いか、何を最適化すべきかという問いは、一箇所の正解を発見する作業ではなく、多くの立場のあいだで編まれる判断である。誰の経験が勘定に入り、誰の懸念が無視されるのか。価値の決定が少数に閉じるとき、失われるのは公正さだけではない。決定が依拠しうる知の幅そのものが痩せる。回勅が法的枠組み、独立した監督、情報を持った利用者、責任を放棄しない政治を並列するのは、道徳的な配慮の列挙ではない。決定の正統性を、単一の主体から複数の主体へ分散させる制度設計の要求である。
ただし、ここに先述の緊張が立ち上がる。道徳を少数で決めるな、と命じているのは、14億の信徒に向けてひとつの声で語る、きわめて集中した権威である。文書の内容(分散せよ)と文書の形式(単一の宣告)は、一見すると衝突する。しかし本稿の見立てでは、これを矛盾として裁くのは早い。回勅は、自らが最終審級になるとは述べていない。むしろ最終的な決定を、列挙した複数の主体へ手渡そうとしている。声の強さと、決定権の手放し。この二つが同居しているところに、文書のいちばん正直な姿勢がある。権威が、自らの権威の限界を内側から指し示す。逆説は、欠陥ではなく、主題の一部なのだ。
能力から権威への滑落
なぜ、特定の少数が「決める位置」に立つのか。回勅はこの問いに、印象的な語を当てる。AIの「武装解除」である。その定義は、兵器の廃棄ではない。技術的な力を持つことが、そのまま統治する権利を与える、という前提を失効させることだ。
この前提には、論理の飛躍が潜んでいる。ある主体が何かを為しうるという事実(である)から、その主体がそれを律してよいという規範(べきである)は導けない。デイヴィッド・ヒューム以来、事実と当為の断絶として知られるこの溝を、AIをめぐる現実は日常的に素通りする。開発できる者が標準を定め、運用できる者が規則を書き、配備できる者が使用の可否を握る。能力が、議論を経ずに権威へ横滑りする。回勅の「武装解除」とは、この横滑りそのものの停止要求として読める。
そして、この要求には前例がある。1891年に教会が介入したのも、資本や生産力が、そのまま他者の生を律する資格へと横滑りすることの不当性であった。資本主義の初期において、それは資本の問いだった。AI資本主義において、それは技術の問いになった。出どころは資本から技術へ移ったが、飛躍の形は変わっていない。さらに重要なのは、この飛躍が単一の層に閉じないことだ。企業の内部で、できる部署が決める。国家のなかで、力のある側が決める。国家間で、強い者が秩序を書く。回勅が「秩序を失った多極化」と「強い者の論理による法の支配の代替」を並べて記すとき、それは宗教文書に地政学を継ぎ足したのではない。同じ一行の飛躍を、最も高い棚で名指している。
CFRのデイヴィッド・シェファーは、この回勅を国際法の更新文書として読み、回勅が引く一節に注意を促す。不正は、個々人の誤った選択からだけでなく、ほとんど自動的に不平等を生み出す仕組みや制度からも生じる、という認識である。ここに、本稿が見たい論点の核がある。能力から権威への滑落は、悪意ある個人の選択としてではなく、誰も決めていないのに作動する自動装置として現れる。そしてAIは、この自動性を加速する。可視化のアーキテクチャは、見えるものだけを増幅し、人々の意見を方向づける。プロファイリングと予測は、新しい権力の形をとり、最も弱い者を選別する。不正の自動化に、自動化された技術が重なる。回勅の警戒は、ここに照準している。
声と力の断層
回勅は、できるから決めてよいという飛躍を止めようとした。では、止まったのか。
公表からおよそ一か月、受容を追ったフォローアップ調査が示すのは、苦い非対称である。回勅を即座に取り込んだのは、世界教会協議会、人権団体、自律型兵器の規制を求めるネットワークだった。国連のAI対話や、世界保健機関の地域組織、欧州評議会でも参照された。これらはいずれも、規範を語る共同体である。他方で、主要国の政府中枢と、大手AI企業の会社名義の応答は、公開情報の範囲ではほとんど見当たらない。声を上げたのは、規範を持つが力を持たぬ側。沈黙したのは、力を持つが声を持たぬ側であった。
この構図は、回勅自身の診断を反復している。回勅は、声と実効的な力が引き裂かれた世界を描いた。そしてその文書自身が、まさに引き裂かれた地形の、声の側に着地した。診断した当の裂け目に、診断者が落ちている。例外はあった。発表の場には、フロンティアAI企業の共同創業者が招かれ、最前線の企業は商業・競争・地政学の誘因のなかで動き、正しいことと衝突しうるため、外部からの道徳的牽制を要する、と認めた。作り手の側が、自分たちだけでは答えを出せないと述べたことの重みは小さくない。
ただし、これを単発の出来事として読むべきではない。バチカンは2020年の「ローマ・コール(Rome Call for AI Ethics)」、2025年の「アンティクア・エト・ノヴァ(Antiqua et nova)」と、規範形成の場を継続して設えてきた。今回の回勅は、その蓄積の到達点である。調査の言葉を借りれば、回勅はすでに「よく読まれた文書」から「引用され始めた文書」へ移りつつある。だが、参照され始めることと、規則になることのあいだには、なお時間差がある。問題は、場が用意されたことではない。最も力を持つ主体が、その場にまだ着席していないことのほうにある。声は、宙に浮いたままだ。
決めきれない残余
最後に、最初の問いへ戻る。なぜ道徳は、少数で決めてはならないのか。禁止だから、では答えにならない。回勅の別の場所に、答えの手がかりがある。
回勅は、トランスヒューマニズムとポストヒューマニズムへの批判に多くを割く。進歩を人間の限界の克服として描くこれらの思想に対し、回勅は限界を欠陥とは見ない。有限性、弱さ、傷つきやすさは、除去すべき不具合ではなく、関係と他者への開かれが成熟する場所である。人は限界にもかかわらず花開くのではなく、しばしば限界を通して花開く。
この人間観を、第107項に接続すると、命題の意味が反転する。もし人間が有限な存在であり、価値が関係のなかでしか立ち上がらないのなら、その価値を一箇所で一括に決定することは、原理的に取りこぼしを生む。道徳を少数者が決めきれないのは、規範的な禁止である以前に、存在の事実なのかもしれない。決定の網からこぼれ落ちるもの、それこそが人間の人間たるゆえんだとすれば、「少数では足りない」という言葉は、欠如の指摘ではなく、余白の発見になる。足りなさが、欠陥ではなく希望に転じる。
もっとも、この反転に酔うのは危うい。こぼれ落ちるものがあるという事実は、それを掬い取ろう、囲い込もうとする力が消えることを意味しない。可視化のアーキテクチャも、プロファイリングも、まさにこの残余を捕えようとする運動である。決めきれなさと、決めようとする圧力は、おそらく同じ場所に同居し続ける。回勅が開いたのは、解ではなく、手放してはならない一つの問いだ。能力が権威へ滑り落ちる速度が増すこの時代に、誰が、いかなる資格で、誰のために決めるのか。この問いを抱え続けられるかどうかに、回勅の言う人間の偉大さは賭けられている。
ポイント整理
倫理化では届かない一段下の問い
AIを安全・公正にする努力は正しいが、その中身を少数が定義・更新するなら、技術の権力集中は倫理の権力集中として再帰する
回勅第107項は、倫理の追加では足りず、倫理を書く手が誰のものかを問わねばならないと指摘する
正統性への論点移動
問いは「技術をどう正しくするか」から「その正しさを誰がいかなる権限で決めるか」へ移る
価値の決定が少数に閉じると、公正さだけでなく、決定が依拠しうる知の幅そのものが痩せる
能力から権威への横滑り
「為しうる(である)」から「律してよい(べきである)」への飛躍は本来導けない(事実と当為の断絶)
回勅の「武装解除」は、技術力が統治権を自動的に生むという推論の切断要求として読める
同じ飛躍は企業内部から国際秩序まで複数の層で反復し、AIは不正の自動性を加速する
規範の声と実効力の乖離
回勅を受け止めたのは規範共同体(教会・人権団体・軍縮網)で、政府中枢とメガテック本体は沈黙した
声と力の乖離を診断した文書が、自らその乖離の声の側に落ちた
「よく読まれた文書」から「引用され始めた文書」へ移行しつつあるが、規則化には時間差がある
決めきれない残余としての人間
限界は欠陥でなく、関係と開かれが成熟する条件である(反トランスヒューマニズム)
有限な存在のあいだでしか価値が立ち上がらないなら、一括決定は原理的に取りこぼしを生む
「少数では足りない」は禁止である以前に観察かもしれない。ただし残余を囲い込もうとする力も消えない
キーワード解説
【回勅】
教皇がカトリック教会全体に向けて出す、最高度に近い重い教導文書。個別の事案への指示ではなく、教会の社会教説の基礎を示す性格を持つ。『マニフィカ・フマニタス』は新教皇レオ十四世の最初の回勅であり、その主題がAIであった点に異例性がある。
【レールム・ノヴァールム】
1891年にレオ十三世が発した社会回勅。近代カトリック社会教説の出発点とされ、産業革命下の労働者の尊厳、公正な賃金、所有権の限界、結社の自由を論じた。今回の回勅はその135周年に重ねられ、AI時代の社会教説の基礎文書という自己規定を持つ。
【正統性(legitimacy)】
ある主体が力を持つという事実と、その力を行使してよいと認められることを区別する政治理論上の概念。マックス・ヴェーバー以来、近代政治理論が問うてきた中心的論点であり、本稿では「誰が決めてよいのか」という問いの理論的な背骨をなす。
【事実と当為の断絶】
「ある(である)」から「べきである」を論理的に導くことはできない、というデイヴィッド・ヒュームに由来する指摘。本稿では、技術的な能力を持つことが、そのまま統治の資格を与えるという推論の不当性を示すために用いた。
【武装解除】
回勅が用いる比喩。兵器の廃棄ではなく、技術的な力が統治権を自動的にもたらすという前提の失効を指す。能力から権威への横滑りを断ち切る要求として機能する。
【トランスヒューマニズム】
技術によって人間の身体的・認知的限界を克服し、人間を超えていこうとする思想潮流。回勅はこれを強く批判し、限界を欠陥ではなく、関係と他者への開かれが成熟する条件として捉え返す。