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数学が示す理想的な格差とは?── 工学から見た社会の設計図

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シリーズ: 知新察来


◆今回のピックアップ記事:Brian Gallagher "Is There an Ideal Amount of Income Inequality?" (Nautilus, 2017年9月25日)


格差問題を考えるとき、つい「格差は悪い」「平等にすべき」と思ってしまいがちです。でも、コロンビア大学の工学者ヴェンカト・ヴェンカタスブラマニアンは面白い問いを投げかけています。「格差をゼロにするのが本当に理想的なのか?」と。


彼が長年の研究の末にたどり着いたのは、数学的に最適な格差というものが実際に存在するという結論でした。化学工学の専門家である彼が、統計力学のエントロピーという概念を使って社会の「理想設計図」を描こうとしたのです。この斬新なアプローチは、工学者らしい発想で格差問題に挑んだ興味深い試みといえるでしょう。


北欧諸国が理想に近く、アメリカは大きく外れている。そんな具体的な分析結果も含めて、工学者と人文学者が社会の設計について語り合います。格差を数式で表すって本当に可能なのでしょうか。そして、それは社会をより良くするヒントになるのでしょうか。




格差には数学的な理想型があるという発想


富良野:この記事を読んで、率直に面白いなと思いました。格差問題を工学的に解こうとする発想そのものが新鮮で。ヴェンカタスブラマニアンさんは化学工学が専門なのに、なぜ社会の格差に興味を持ったんでしょうね。


Phrona:ウォール街占拠運動を見に行ったのがきっかけだったみたいですね。現場の声を聞いて、これは工学的に解決できる問題なんじゃないかって思ったのかしら。でも、人間社会を化学プラントと同じように扱えるものなのか、ちょっと気になります。


富良野:まさにそこですよね。彼が言ってる「統計的テレオダイナミクス」っていう理論、面白いけど危うさも感じる。分子の動きと人間の行動を同じ枠組みで考えるって、相当大胆な仮定が必要でしょう。


Phrona:でも、この人の言う「公正な格差」っていう概念は興味深いです。ジェーンが2時間働いてジョンの2倍稼ぐのは公正だけど、それ以外の要因で格差が生まれるのは問題だって。働いた分だけ報われるっていう、ある意味では当たり前の話を数学で表現しようとしてるんですね。


富良野:そうですね。彼の理論では、理想的な所得分布は対数正規分布になるって言ってます。つまり、低所得者が多くて高所得者が少ない、でも完全に平等ではない分布が数学的に導き出される。これって直感的にも納得できる形ですよね。


エントロピーと公正さの関係


Phrona:エントロピーを公正さの指標として使うっていうアイデアが面白いですね。ガス分子が箱の中で均等に散らばる状態を、社会の公正さに例えてる。でも、人間って分子と違って意思を持ってるから、そんなに単純にはいかないんじゃないかな。


富良野:確かに。でも、この比喩には一理あると思うんです。完全に一方に偏った状態って、明らかに不安定ですよね。エントロピー最大の状態が最も安定してるっていう物理法則は、社会にもある程度当てはまるかもしれない。


Phrona:なるほど。でも気になるのは、彼の理論だと「理想的な格差」っていうゴールが数学的に決まっちゃうことです。社会って、もっと多様な価値観があるものじゃないですか。数学で一つの答えに収束させてしまうのって、ちょっと窮屈な感じがします。


富良野:そこは僕も同感です。ただ、彼は完璧な答えを出そうとしてるわけじゃなくて、「目標設定」のためのツールを提供しようとしてるんじゃないでしょうか。今までは感覚的に「格差は良くない」って言ってたのを、数値目標として可視化しようとしてる。


Phrona:確かに、測れないものは改善できないっていいますもんね。でも、人間の幸福を数式で表現するって、本当に可能なんでしょうか。


北欧が理想に近い理由


富良野:興味深いのは、実際の計算結果です。ノルウェーとスウェーデンが理想に最も近くて、アメリカが大きく外れてる。これって、僕たちの直感とも合いますよね。


Phrona:ノルウェーの非理想格差係数がマイナス6.5%で、アメリカがマイナス24.3%。数字で見ると、思ってた以上に差が大きいですね。でも、なぜ北欧がこんなに理想に近いんでしょう。


富良野:北欧は昔から社会民主主義的な政策を取ってきましたからね。高い税率で再分配を行って、労働組合も強い。ヴェンカタスブラマニアンさんも言ってますが、1950年代のアメリカは最高税率90%だったのに、それでも経済は成長してた。


Phrona:そう考えると、今のアメリカの格差って、政策的に作られた面が大きいのかもしれませんね。労働組合の弱体化とか、規制緩和とか。CEOが自分の友達を取締役に選んで、お互いの給料を決めてるっていう構造は、確かに「自由市場」とは言えない。


富良野:まさに「カントリークラブ環境」って彼が呼んでる状況ですね。自由競争の結果じゃなくて、権力構造の結果として格差が生まれてる。これは工学的に見ても明らかに非効率でしょう。


解決策は再分配だけじゃない


Phrona:面白いのは、彼が事後的な再分配だけじゃなくて、事前分配の重要性も強調してることです。最初から公正な賃金が支払われれば、後で税金で調整する必要もないっていう。


富良野:そうですね。労働組合の強化とか、CEOの報酬決定プロセスの透明化とか。根本的な仕組みを変えないと、本当の解決にはならないってことでしょう。でも、これって政治的には相当難しい話ですよね。


Phrona:そこが、この理論の限界かもしれません。数学的に理想を示すことはできても、そこに到達するための政治的なプロセスまでは解決してくれない。結局、人間の意思決定の問題になっちゃう。


富良野:でも、少なくとも目標設定には使えるんじゃないでしょうか。今まで「格差は悪い」っていう漠然とした議論しかできなかったのが、具体的な数値目標を持てるようになる。それだけでも意味があると思います。


Phrona:確かに。あと、格差がある程度は必要だっていう議論も、この理論なら説得力を持って展開できそうですね。完全平等が理想じゃないっていうのは、直感的にも納得できる話だから。


工学的思考が社会に与える示唆


富良野:最後に気になるのは、こういう工学的なアプローチが社会科学にどんな影響を与えるかですね。経済学はもともと物理学から多くのアイデアを借りてきたけど、今度は統計力学の時代になるのかもしれない。


Phrona:でも、人間社会って、物理システムよりもずっと複雑で予測不可能ですよね。文化とか歴史とか、数式では表現しきれない要素がたくさんある。工学的なアプローチが万能だとは思えないんです。


富良野:それはそうですが、一つのツールとしては有効かもしれません。特に政策立案の場面では、数値化された目標があった方が議論しやすいでしょう。感情論だけじゃなくて、データに基づいた議論ができるようになる。


Phrona:なるほど。でも、数字が一人歩きしちゃう危険性もありますよね。ヴェンカタスブラマニアンさんの係数が正解だって思い込んじゃって、他の価値観を排除しちゃうかもしれない。


富良野:確かにそのリスクはありますね。でも、彼自身も完璧な理論だとは言ってないし、継続的な改善が必要だって認めてる。重要なのは、この理論を絶対視するんじゃなくて、議論の出発点として使うことなんじゃないでしょうか。


Phrona:そうですね。格差問題について、もう少し建設的な議論ができるようになるかもしれません。感情的な対立じゃなくて、具体的な数値目標を持った政策論議が可能になる。それだけでも、この研究の価値はあるのかもしれませんね。




ポイント整理


  • 格差ゼロが理想ではない

    • 人々の能力や貢献度が異なる以上、ある程度の格差は公正であり必要である。重要なのは「どの程度の格差が適切か」という問い

  • 数学的な理想分布の存在

    • 統計力学のエントロピー概念を応用し、理想的な所得分布は対数正規分布として数学的に導出できる

  • 北欧諸国が理想に近い

    • ノルウェー、スウェーデン、デンマークの格差係数は理想値に近く、アメリカ、日本、カナダは大きく乖離している

  • 現在の格差は政策の結果

    • アメリカの極端な格差は自由市場の結果ではなく、労組弱体化、規制緩和、CEO報酬システムなど人為的要因による

  • 解決策は多面的

    • 事後的な累進課税による再分配だけでなく、事前分配の改善(労組強化、透明な報酬決定)が重要

  • 工学的アプローチの可能性

    • 社会システムを工学的に分析することで、感覚的な議論から数値目標に基づいた政策論議への転換が可能



キーワード解説


【対数正規分布】

低い値に集中し右側に長い裾を持つ分布。所得分布の理想形として提案


【エントロピー】

無秩序さの度合いを表す物理量。最大化されると最も公正な状態になるとされる


【統計的テレオダイナミクス】

著者の造語。統計力学の手法を目的志向的な人間行動に適用した理論


【非理想格差係数(ψ)】

実際の格差と理想的格差の乖離を測る新しい指標


【事前分配】

税による再分配の前段階で、より公正な賃金配分を実現する取り組み


【レントシーキング】

生産性向上ではなく既存の富の奪い合いによって利益を得ようとする行為



本稿は近日中にnoteにも掲載予定です。
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