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敵対者と敵の間は、紙一重でしかない──MAGAが浮き彫りにする闘技民主主義の課題



シリーズ: 行雲流水


理論と現実が似た形をしていると、人はそれを証明だと受け取りたくなる。


前回記述したMAGAの姿は、シャンタル・ムフが左派のために構想してきたものと、いくつもの点で重なる。異なる要求を一つの人民としてまとめ、共通の敵対線を引き、情念を政治の構成要素として扱い、既存のエリート支配に対抗する主体を作る。設計図と実物が並んでいるように見える。


しかし、似ていることと、証明されたことは違う。そして、似た形が期待どおりの結果に至らなかったからといって、それが反証になるわけでもない。MAGAはムフの構想の何を裏づけ、何を裏づけなかったのか。この問いを丁寧に扱うことは、単なる学説上の作業ではない。ここを曖昧にしたまま「ポピュリズムは有効だ」あるいは「ポピュリズムは危険だ」と結論すると、そこから導かれる制度的な処方まで大きく狂うからである。


本記事では、評価の作業を三段階に分けて進める。何が実証で何が例証かを分け、理論の内部で誰の主張がどこに属するかを分け、そのうえで、批判が本当に当たる場所を特定する。




実証と例証を分ける


MAGAとシャンタル・ムフの左派ポピュリズム構想のあいだには、無視できない重なりがある。異なる要求を一つの人民としてまとめ、既存のエリート支配に対抗する政治的主体を作る。ムフが左派のために描いた設計図を、右派が先に実演したようにも見える。


ここから「MAGAはムフの理論を実証した」と言いたくなる。しかし実証という語は強すぎる。実証と呼ぶには、競合する説明を排除できていなければならないが、MAGAの成立は他の理論からもかなりの部分が説明できてしまう。社会的アイデンティティ理論、地位が脅かされることへの反応、感情的な分極化、共和党の長期的な右傾化、予備選の制度、保守メディア圏の拡大、SNSにおける注意の経済、党組織のエリートによる利用。いずれも単独でそれなりの説明力を持つ。


現段階で言えるのは、MAGAがラクラウとムフの理論の説明力を強く例証した、という水準である。例証と実証の距離を詰めるには、命題を検証可能な仮説へ分解する必要がある。共通の敵対線が強いほど、政策的な利害が異なる集団は同じ政治的主体へ統合されやすいのか。意味の柔軟な象徴ほど、連合の裾野は広がるのか。政策的な一貫性が低い連合ほど、指導者が象徴的な統合機能を担うのか。情念と運動文化による帰属が強いほど、個別政策への不満は離反につながりにくいのか。この形にして初めて、事例による読み込みではなく検証の対象になる。



ラクラウの領分とムフの領分


評価を精密にするには、この構想に含まれる二つの層を分ける必要がある。


一方には、より直接的にはエルネスト・ラクラウのポピュリズム理論に属する論点がある。異質な要求を結ぶ等価性の連鎖、多様な意味を引き受ける意味の確定しない象徴、社会の内部に引かれる敵対線、人民という集合的主体の言説的な構築、個別の要求がより普遍的な人民の要求として表象される過程である。


他方には、ムフ自身の規範的な構想に属する論点がある。政治から対立を除去できないという認識、合理的な討議だけでは集合的な意思を形成できないという批判、帰属や希望や怒りや誇りといった情念の重要性、抹消すべき敵を正統性の認められる敵対者へ転換する構想、自由と平等の解釈をめぐって争う闘技民主主義である。


MAGAが強く例証したのは、ラクラウ的な人民構築のメカニズムと、ムフが指摘した情念政治の不可欠性である。逆にMAGAが例証していないのは、敵が民主的な敵対者へ転換されること、対立が相互承認の範囲にとどまること、構築された人民が多元性を維持すること、強い集合的主体が民主的な自己制約を受け入れることである。



ムフの側からの応答


では、MAGAはムフの構想を反証したのかと言うと、これも成り立たない。


ムフの言う敵対者は、自由と平等という民主主義の基本原則を共有していることを前提としている。したがってムフの立場からすれば、その原則を共有しない勢力は、そもそも敵対者としての条件を満たしていない。MAGAが敵対者どうしの闘技にとどまらなかったことは、闘技民主主義の理論的な誤りを示すものではない、という応答が可能である。


ただし、この応答は理論を安全な位置に置きすぎる。原則の共有という状態は、自然に保たれるものではない。誰かが形成し、維持し、失われたときには回復しなければならない。ムフはその原則を示してはいるが、共有を形成し維持し回復する制度的な過程については、十分な説明を与えていない。


したがって、最も正確な批判の形は次のようになる。ムフの不足は、共通原則を示していないことではない。その原則への共有をどのように形成し、維持し、回復するのか、そして誰がどの手続きで違反を判定するのかという制度過程が、空白のまま残されていることにある。


ここに、MAGAという事例が理論へ突きつけた問いがある。人民とエリートの境界を強く構築すること自体が、敵を敵対者へ変換するどころか、敵対者を排除すべき敵へ変えてしまう可能性はないか。ポピュリスト運動は、一部の市民を政治的主体として組織化した後、われわれが人民を構築した、ゆえにわれわれこそ真正な人民である、したがって反対者は人民に属さない、という論理へ移行しやすい。政策上の対立が相手の道徳的正統性の否定へ進み、市民的所属の疑問視、制度的権利の制限、公権力による排除へと連なる。この議論に抗う仕組みがなければ、闘技という理念は理念のまま残る。



境界事例という難所


この時、境界をどこに引くかは自明ではない。最も難しいのは境界事例である。


選挙結果を繰り返し否定する勢力。政治的な暴力を示唆したり容認したりする勢力。野党の政権獲得資格を否定する勢力。公権力を用いて競争相手を排除する勢力。一部の市民について政治的な所属そのものを否定する勢力。これらを正統な敵対者として扱い続けるべきか。

無条件に包摂すれば、民主主義を内部から破壊する行為を民主主義の名で保護することになる。反対に排除すれば、反民主的という判定が党派的な弾圧の道具として使われる危険が生じる。さらに、判定を単独の機関に委ねれば、その機関が党派化した瞬間に区別そのものが機能を失う。


したがって必要なのは、闘技民主主義と、いわゆる戦う民主主義の接合である。敵対者として認められる最低条件、違反を判定する複数の独立した機関、判定理由の公開、異議申し立ての手続き、違反の程度に応じた比例的な制裁、是正後の再参加の可能性、与野党の双方へ同一の基準を適用する仕組み、非常措置の期限と再審査。これらは現在の制度論において、最も未決の部分である。



自己制約に動機はあるか


制度が必要だという議論には、もう一段の困難が控えている。誰がその制度を作り、維持するのかという問題である。


権力を獲得する前の運動に自己制約を求めることは、規範としては妥当である。しかし勝利が視野に入っている陣営にとって、自己制約は短期的に合理的でない。行政権限を広く保持したい、独立機関の拒否権を弱めたい、野党の制度アクセスを狭めたい、指導者の交代を困難にしたい、選挙制度を自陣営に有利に変えたいという誘因は、勝利に近づくほど強くなる。指導者の良識、運動の民主的な宣言、自制を求める倫理的な批判、権力獲得後の自主的な改革。いずれも、これらの誘因を上回る保証にはならない。


本記事の見立てでは、自己制約は特定陣営の善意に依存しない相互保障として設計するほかない。選挙結果の陣営横断的な検証、野党が議会や行政の情報へ継続的にアクセスできること、司法と報道と研究機関の多元性、行政権限への期限と範囲の設定、党内の指導者交代ルール、地方と中央への権力分散、制度変更に複数勢力の同意を求める規則、違反時に自動的に作動する手続き、監視機関の独立した人事と資金の基盤。これらを、権力を得た後の改革としてではなく、運動の構成原理としてあらかじめ組み込む必要がある。


ただし制約は多いほどよいわけではない。拒否権の乱立は統治を不能にし、独立機関は既得権の保護装置になりうる。司法や監視機関も党派化しうるし、硬直した制度は新しい多数派の意思を不当に阻害する。したがって論点は制約の量ではなく、権力集中を防ぎながら、統治不能と既得権の固定化も防ぐ組み合わせをどう設計するかへ移る。



敵を三つの水準に分ける


自己制約と並んで、敵対線の引き方そのものにも設計が要る。


人ではなく構造を敵にすべきだ、という主張がある。方向としては正しいが、それだけでは抽象的に過ぎて、責任を負う主体が消えてしまう。構造が悪いという説明は、誰も何も変えなくてよいという結論と両立してしまうからである。


したがって、対立の対象を三つの水準に分ける必要がある。第一の水準は、集中した所有、政治資金への依存、説明責任を欠いた専門家統治といった、変更可能な権力関係である。第二の水準は、それを維持したり変更したりする企業、政党、行政機関などの組織である。第三の水準は、具体的な決定に責任を負う、交代可能な公職者や経営者である。


この区別によって、人間の市民的な所属は否定しないが、制度上の責任は曖昧にしない、という線引きが可能になる。人そのものを敵に固定すれば排除へ向かう。関係だけを争点にすれば責任が霧散する。三つを分けたまま扱うことが、闘技を維持しながら改革の余地を残す条件になる。



対称性はどこまで成り立つか


ここまでの議論は、左右のどちらにも同じ危険があるという前提で進めてきた。人民とエリートという形式、単一の原因ですべてを説明する誘惑、敵を道徳的な悪として固定する傾向。これらは左右いずれにも起こりうる。


ただし、形式上の危険が共通することと、歴史や制度に照らした危険度が等しいことは別である。民主主義にとっての帰結を左右するのは、誰を人民に含めるか、排除の対象が変更可能な権力関係なのか固定的な属性の集団なのか、反対者の政治的権利を認めるか、選挙で敗れたときに政権を引き渡すか、運動内部の多元性を認めるか、指導者への批判を許容するか、憲法上の権利との両立を図るか、排除された人々の包摂を目指すのか新たな排除を制度化するのか、といった要素である。


つまり、形式上の危険は左右に共通しうるが、宿主となるイデオロギー、標的、権利観、組織構造によって実際の危険度は異なる。この区別を省略すると、機械的な両論併記に落ちる。共通するメカニズムと、異なる帰結は、分けて分析されなければならない。




ポイント整理


  • 実証ではなく例証

    • MAGAの成立は、地位脅威論や制度論など競合する説明でもかなりの部分が説明できる

    • 例証を実証へ近づけるには、命題を検証可能な仮説へ分解する必要がある

  • ラクラウとムフの分離

    • 等価性の連鎖や意味の確定しない象徴はラクラウ、敵対者への転換と闘技民主主義はムフに属する

    • MAGAが例証したのは前者であり、後者の規範的期待は裏づけていない

  • 反証ではなく制度過程の空白

    • 原則を共有しない勢力は、ムフの定義上そもそも敵対者の条件を満たさない

    • 正確な批判は、原則の共有を形成し維持し回復する制度過程が示されていない点にある

  • 境界事例と自己制約

    • 無条件の包摂は民主主義の自壊を保護し、無条件の排除は判定を党派的な武器にする

    • 自己制約は善意ではなく、陣営横断的な相互保障として設計するほかない

  • 敵の三水準と、対称性の限界

    • 変更可能な権力関係、それを担う組織、交代可能な公職者を分けて扱う

    • 形式上の危険は左右に共通しうるが、実際の危険度まで対称とは限らない



キーワード解説


【闘技民主主義】

シャンタル・ムフが提唱する民主主義論。対立を合理的な討議によって解消しようとする合意モデルを批判し、対立を消去するのではなく、相手を抹消すべき敵ではなく正統性を認め合う敵対者として扱う闘技へ転換すべきだと説く。敵対者どうしは、自由と平等という共通原則を共有したうえで、その解釈をめぐって争う。


【戦う民主主義】

民主主義そのものを破壊しようとする勢力に対して、民主主義の枠組みの内部でどこまで制限を課しうるかを扱う概念。無条件の寛容と無条件の排除のあいだで、判定の主体、手続き、比例性、再参加の可能性をどう設計するかが中心的な論点になる。


【意味の確定しない象徴】

ラクラウの言う空虚なシニフィアン。特定の内容に限定されないからこそ、異なる要求を持つ人々が各自の願望を投影でき、同じ記号の下へ集約されうる。曖昧さは思想的な不備であると同時に、連合形成の上では機能を持つ。



本稿を素材として対話形式で再構成した記事も、近日中にnoteに掲載予定です。
ご関心を持っていただけましたら、note上でご感想などお聞かせいただけると幸いです。

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