文化はどう生き延びるか?──消えゆく芸術機関と新しい「文化インキュベーター」の可能性
- Seo Seungchul

- 7月17日
- 読了時間: 11分

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事:Fisher Derderian "How to Build a Culture" (The Dispatch, 2025年5月24日)
概要: アメリカの文化機関の危機と、NEAによる新しい文化支援モデルの提案
美術館の延期、オーケストラの苦境、劇場の閉鎖......。アメリカの文化機関が直面している危機は、単なる資金不足の問題ではありません。実は、もっと根本的な問いが浮かび上がっているのです。「文化機関は何のために存在するのか?」「誰のためのものなのか?」そして、「公的資金は本当に文化の発展に寄与しているのか?」
これらの問いに向き合うため、一つの興味深い提案が出されています。アメリカ国立芸術基金(NEA)による「文化インキュベーター」の創設です。スタートアップを支援するY Combinatorのように、有望な文化機関の立ち上げを短期集中的にサポートする仕組みです。この提案を手がかりに、文化機関の未来について考えてみたいと思います。今、芸術の世界で何が起きているのか、そして文化を次世代に引き継ぐために何が必要なのか。富良野とPhronaの対話を通じて、一緒に探ってみませんか。
文化機関の危機―なぜこんなことになったのか
富良野: ロサンゼルスのルーカス美術館が2026年まで開館延期、サンフランシスコ近代美術館が29人レイオフ......これ、けっこう深刻な状況ですよね。
Phrona: 単なる資金難じゃないところが気になります。記事を読んでいると、そもそも「何のために存在するのか」がわからなくなっている機関が多いって書いてありますね。
富良野: そう、そこが興味深いんです。アメリカオーケストラ連盟の例が典型的で、過去10年間で国立芸術基金から120万ドル近く受け取っているんですが、そのほとんどがDEI、つまり多様性・公平性・包摂性の取り組みに使われている。
Phrona: DEI自体が悪いわけじゃないと思うんですが......
富良野: 問題は、DEIが「数ある優先事項の一つ」ではなく、「オーケストラの存在意義を決める唯一のレンズ」になってしまったことなんです。つまり、音楽そのものや聴衆との関係よりも、内部の仕組みやプロセスの方に焦点が向いてしまった。
Phrona: ああ、なるほど。外に向かうはずの文化活動が、どんどん内向きになっているということですね。それって、文化機関が自分たちの専門用語や価値観の中に閉じこもって、一般の人々との接点を失っているってことでもありますよね。
富良野: まさにそれです。記事では「機関を正当化する言語や政策的枠組みが、その分野の内部でしか通用しないものになっている」って表現されています。資金提供者と公衆との関係が切れてしまった、と。
Phrona: それって、文化機関が誰のために何をしているのかを見失っているってことですよね。本来なら、芸術を通じて人々の心を動かしたり、新しい視点を提供したりするのが役割のはずなのに......
公的資金は何のために使われるべきか
富良野: 国立芸術基金の使い方も変わってきているんです。近年は「能力構築」「アクセス戦略」「管理における公平性計画」といった言葉が並んでいて、2023年に開始されたArtsHEREというプログラムでは1200万ドル以上が「公平性中心の枠組み」に向けられた。
Phrona: でも、その「公平性中心の枠組み」って、具体的に何を指しているんでしょう?
富良野: それがまさに問題で、内部プロセスに重点が置かれていて、実際に人々が触れる文化的な作品や体験よりも、組織の運営方法の方に注力している感じなんです。
Phrona: うーん、それって本末転倒な気がします。もちろん組織が健全に運営されることは大切だけど、最終的に大事なのは、その組織が生み出す文化的価値ですよね。人々が美しいものに出会ったり、新しいことを考えるきっかけになったり。
富良野: そうなんです。トランプ政権が国立芸術基金を廃止しようとしているかどうかは別として、こうしたプログラムが本当に公共の利益を反映しているのかという疑問が出てきている。
Phrona: でも逆に言えば、これまでの方法が行き詰まっているからこそ、新しいアプローチを考える機会でもありますよね。記事で紹介されている「文化インキュベーター」の提案も、そうした文脈から出てきているんでしょうし。
成功事例に学ぶ―小さくても確実な歩み
富良野: 記事では、うまくいっている事例として二つの組織が紹介されているんです。一つは2020年設立のThe Lamp、カトリック系の芸術・文芸誌で、カトリック大学の支援を受けて全国的な読者層を獲得している。
Phrona: もう一つは?
富良野: 2013年設立のWiseblood Books、南部の小さな出版社で、技巧と道徳的想像力に根ざした小説や詩、論文を出版している。どちらも限られたリソースながら、編集の真剣さと明確な目的意識で注目を集めているんです。
Phrona: なるほど。どちらも「小さいけれど確実」って感じですね。大きな予算や組織に頼らず、自分たちの信念を貫いて良い仕事をしている。
富良野: そうです。そして重要なのは、どちらも外部の評価基準に振り回されることなく、「良い仕事を着実に、信念を持って追求する」ことで成果を上げているということです。
Phrona: それって、先ほど話していた「内向き」になってしまった大きな機関とは対照的ですね。小さくても、外に向かって価値を提供し続けている。
富良野: まさに。規模は小さくても、目的が明確で、それを継続的に実現している。そういう事例があるからこそ、「文化インキュベーター」という発想が出てくるんだと思います。
文化インキュベーターという新しい試み
Phrona: その「文化インキュベーター」って、具体的にはどんな仕組みなんですか?
富良野: Y Combinatorというスタートアップ支援の仕組みを文化分野に応用するアイデアです。Y CombinatorはAirbnbやDropbox、Stripeといった企業を育てたインキュベーターで、初期段階の事業に構造やメンターシップ、公的デビューの機会を提供している。
Phrona: それを文化機関にも、ということですね。
富良野: そうです。毎年、芸術的価値、公共的目的、ビジョンの明確さに基づいて小さなコホートを選ぶ。地域の劇団、音楽アンサンブル、出版社、文芸批評誌などが対象になるでしょう。
Phrona: で、選ばれたらどんな支援を受けられるんですか?
富良野: 法人設立、財政的スポンサーシップ、理事会の構築、戦略立案の直接支援。それに加えて、最初のシーズンや出版サイクル、展示会をデザインするためのささやかな種銭も提供される。
Phrona: でも一番興味深いのは、国立機関とのパートナーシップによる正式な立ち上げがあることですね。室内楽アンサンブルならケネディセンターでデビュー、出版社なら議会図書館と協力して忘れられた作品を再出版、地域アーカイブならアメリカ民俗生活センターと展示を企画する、とか。
富良野: そうなんです。これによって、新しい文化機関が可視性、正統性、そして聴衆を得られる。多くの初期段階の機関は、そうした機会を得ることができないまま消えていってしまうから。
Phrona: これって、文化の「生態系」を意識した支援ですよね。単発のプロジェクトではなく、持続可能な機関の形成を目指している。
美しさと永続性への志向
富良野: 記事の最後で引用されているロジャー・スクルートンの言葉が印象的です。「美は、それ自体のために追求されるべき価値である」と。
Phrona: どういう意味でしょう?
富良野: 美は僕たちを自分自身から引き出し、受け継いだものや作り出すものを大切にすることを教えてくれる。美は記憶、責任、そして保存への願いを呼び起こす、という考え方です。
Phrona: ああ、それって今の時代にすごく大切な視点かもしれませんね。何でも短期的な効果や数値化できる成果ばかり求められる中で、「永続性に向かう」という意識を持つこと。
富良野: そうです。公的な芸術資金は、そうした意図で形作られた作品を支援すべきだ、と。特定の見た目や形式にこだわるのではなく、永続性に向かって届こうとする姿勢を評価するということです。
Phrona: それって、さっき話していた「内向き」になってしまった機関の問題とも関連していますね。一時的な流行や政治的正しさにとらわれるのではなく、もっと長期的な視点で文化の価値を考える。
富良野: 記事では、ロサンゼルスの振付師リンカーン・ジョーンズが公的資金や機関的支援なしに American Contemporary Ballet を一から作り上げた例が紹介されています。音楽的誠実さ、形式的精密さ、そして古典バレエの継続的関連性への信念で定義された会社です。
Phrona: 今では満席の公演を行っているんですよね。こういう成功例があるからこそ、文化インキュベーターのような仕組みで、もっと多くのアーティストに同様のツールを提供できれば、という発想になるのかもしれません。
文化は受け継ぐものか、作るものか
Phrona: でも考えたいのは、文化って何なんだろうということです。記事の最後に「文化は無傷のまま受け継いだり、外部委託したりするものではない。意図的に、注意深く、存続に値するものを創造する勇気を持って、僕たちが築くものなのだ」とありますね。
富良野: これは重要な指摘だと思います。文化を静的なもの、既に完成されたものとして捉えるのではなく、能動的に作り続けていくものとして考える。
Phrona: そうですね。私たちが今いる時代の課題や美しさ、複雑さを反映した新しい表現を生み出していく責任があるということでもありますよね。
富良野: 文化インキュベーターの提案も、そうした意識から出てきているんでしょう。「今ある機関を維持する」のではなく、「時代に応じた新しい文化機関を意図的に育てる」という発想です。
Phrona: でも、それって簡単なことではないですよね。新しいものを作るのは勇気がいるし、失敗するリスクもある。でも、何もしなければ文化は衰退していくだけだし......
富良野: そうですね。記事でも触れられていますが、「グループが批判を受けたらどうするのか?」「リーダーシップの変化で優先事項が変わったらどうするのか?」といった懸念は当然あります。でも、そうしたリスクは既にあらゆる公的芸術プログラムの一部なんです。
Phrona: 要は、そのリスクを恐れて何もしないのか、それとも真剣な判断力を持って、公共の利益についての共通理解に基づいて行動するのか、ということですね。
富良野: その通りです。そして僕が思うのは、文化インキュベーターのような取り組みは、文化が「瞬間のためだけではなく、記憶のためのもの」であることを思い出させてくれるということです。今だけでなく、未来に向けても意味を持つものを作る、という意識を大切にしたいですね。
ポイント整理
「文化インキュベーター」による新しい支援モデルが提案されている
Y Combinatorのようなスタートアップ支援の仕組みを文化分野に応用し、有望な文化機関の立ち上げを短期集中的にサポートする構想が示されている。
文化機関の危機は資金不足だけでなく、存在目的の混乱に根ざしている
アメリカの美術館、オーケストラ、劇場などが直面している問題は、単なる予算削減ではなく、「何のために存在し、誰に向けて活動するのか」という根本的な迷いから生じている。
公的資金が内部プロセスに偏重し、公衆との関係が希薄化している
国立芸術基金の資金が「多様性・公平性・包摂性」の内部的取り組みに集中し、実際の文化的作品や体験よりも組織運営に重点が置かれるようになった。
小規模でも明確な目的を持つ機関が成功例を示している
The Lamp(カトリック系文芸誌)やWiseblood Books(南部の出版社)のように、限られたリソースでも編集の真剣さと明確な目的意識で成果を上げている事例がある。
美と永続性への志向が文化支援の指針となるべきである
哲学者ロジャー・スクルートンの思想を引用し、一時的な流行や政治的正しさではなく、長期的な文化的価値と「永続性に向かう意図」を重視すべきだと論じている。
文化は受け継ぐものではなく、能動的に創造するものである
文化を静的な遺産として捉えるのではなく、各世代が意図的に、注意深く、勇気を持って築き続けていくものとして理解することの重要性が強調されている。
キーワード解説
【Y Combinator】
シリコンバレーの代表的なスタートアップ・インキュベーターで、Airbnb、Dropbox、Stripeなど多数の成功企業を輩出
【文化インキュベーター】
スタートアップ支援の仕組みを文化分野に応用した、新しい文化機関の立ち上げ支援プログラムの構想
【DEI(多様性・公平性・包摂性)】
Diversity, Equity, Inclusionの略で、組織における多様な背景を持つ人々の受け入れと公平な扱いを目指す取り組み
【国立芸術基金(NEA)】
National Endowment for the Artsの略で、アメリカの連邦政府による芸術支援機関
【ロジャー・スクルートン】
イギリスの保守的哲学者・批評家で、美学と文化の価値について論じた思想家
【能力構築(Capacity Building)】
組織や個人のスキル、知識、制度的能力を向上させる取り組み
【財政的スポンサーシップ】
新しい組織が独立した法人格を得るまでの間、既存の非営利組織が財政管理を代行する仕組み