歌で思い出をつなぐ力──認知症と向き合う新しい希望
- Seo Seungchul

- 7月8日
- 読了時間: 9分

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事:Mercedes Kane "They sing to remember: The power of memory choirs" (National Geographic, 2025年6月17日)
概要:認知症患者とその家族・介護者が参加するメモリーコーラスの取り組みと、音楽療法が認知機能に与える影響に関する科学的研究について
認知症という診断を受けたとき、多くの人は絶望感に襲われるかもしれません。記憶が薄れ、言葉を失い、自分らしさが奪われていく——そんな不安が頭をよぎるでしょう。しかし、世界各地で静かに広がっているある取り組みが、そうした固定観念に挑戦しています。それは「メモリーコーラス」と呼ばれる認知症の方々のための合唱団です。舞台に立つ彼らの歌声は、病気の進行を前にしても失われない人間の尊厳と、音楽が持つ驚くべき力を私たちに教えてくれます。
この記事では、認知症ケアの最前線で注目を集めるメモリーコーラスの取り組みと、そこから見えてくる音楽療法の可能性について、富良野とPhronaの対話を通じて考えていきます。科学的な研究成果から個人の体験談まで、多角的な視点で「歌うこと」が認知症の方々とその家族にもたらす希望の光を探ります。
音楽が呼び覚ます記憶の不思議
富良野: 認知症の人が歌うときだけは症状が軽くなるっていう話、すごく興味深いですよね。医学的に見ると、音楽を処理する脳の部位って、記憶を司る部位とは別のところにあるらしいんです。
Phrona: それって不思議ですよね。言葉を忘れても、メロディーは覚えている。まるで音楽が、記憶の奥深くに別の回路を作っているみたいで。私の祖母も認知症でしたけど、童謡だけは最後まで歌えていました。あの時の祖母の表情は、本当に生き生きしてた。
富良野: ああ、そういう体験をされた方、多いと思います。記事によると、音楽的記憶が形成される脳の領域——尾状前帯状回とか腹側運動前野って部位らしいんですが——ここがアルツハイマー病の影響を受けにくいんだそうです。
Phrona: 専門用語は置いといても(笑)、要するに音楽って、脳の中でも特別に保護された場所に住んでるってことですよね。それがなんだか、人間にとって音楽がどれほど根本的なものかを物語ってる気がします。
富良野: そうそう。しかも単に思い出せるだけじゃなくて、合唱に参加することで社会的なつながりも生まれる。孤立しがちな認知症の方にとって、これって相当大きな意味があると思うんです。
Phrona: 記事に出てきたマイク・ガイアさんの話も印象的でした。建築家として42年間働いて、退職後に認知症の診断を受けて。今は時間と競争しながら自分の過去の仕事を整理してるって。
富良野: ああ、あの方は週に5〜6日、1日7時間も地下室で過去の資料を整理してるんでしたね。でも火曜日だけは娘さんとコーラスに参加する。その日は「ハイになって帰ってくる」って。
歌うことの複雑さと脳への影響
Phrona: 歌うって行為自体が、実はすごく複雑なんですよね。音楽を聞いて、歌詞を思い出して、それを声に出す。話すよりもずっと脳の広い範囲を使うって書いてありました。
富良野: そこがポイントなんでしょうね。単なる記憶の訓練じゃなくて、認知機能全体にアプローチできる。執行機能、エピソード記憶、言語流暢性——これ全部が改善するって研究結果も出てる。
Phrona: ガブリエル・ギフォーズ元下院議員の例も興味深かったです。銃撃事件で言語能力を失ったけど、歌を通じて再び話せるようになった。音楽が言葉への橋渡しになったって。
富良野: メロディック・イントネーション・セラピーっていう治療法ですね。失語症の人が、まず歌うことから始めて、徐々に話すことを取り戻していく。音楽が脳の可塑性を引き出してるんでしょう。
Phrona: でも私が一番感動したのは、コンサートの場面なんです。認知症の人と介護者が一緒に歌ってて、もうどちらがどちらか分からなくなる。そこには病気とか健康とかを超えた、何か別の次元があるような。
富良野: ああ、それは僕も感じました。記事の最後の方で、「人は診断名以上の存在だ」って書いてありましたよね。認知症という病気が、その人のすべてを定義するわけじゃない。
科学と実践の狭間で
Phrona: でも一方で、科学者たちはこの現象をもっと厳密に証明しようとしてるんですよね。ボナクダルプール先生とかは、脳波を測定しながら合唱の効果を調べてる。
富良野: そうですね。モバイル脳体イメージング、MoBIっていう技術を使って、リアルタイムで脳活動を測定してる。15週間のコーラス参加前後で、脳にどんな変化が起きるかを追跡する予定だとか。
Phrona: でも面白いのは、そもそもこの研究が始まったきっかけが、参加者の「体験談」だったってことです。「1年間コーラスに参加したら、認知的に回復した感じがする」って声を聞いて、それを科学的に検証しようと思ったって。
富良野: ああ、理論が先にあって実践が後から付いてきたんじゃなくて、現場の実感が先にあった。これって結構重要なポイントかもしれません。
Phrona: そうそう。「体験談から厳密な研究へ」って、研究者が言ってましたもんね。個人的な実感の積み重ねがあって、初めて科学的な検証が始まる。なんか順番として、とても人間らしいなって思います。
富良野: 薬だけで何とかしようとする発想から、もっと包括的なアプローチへって流れも興味深いです。ソーシャル・プリスクライビングって概念、つまり医療以外の地域活動を「処方」するっていう考え方。
家族と介護者の新しい関係
Phrona: 記事を読んでて、特に心に残ったのがジェイン・リンデスミスさんの話でした。お母さんのカレンさんが認知症の後期段階なんだけど、日常生活で歌を使うようになったって。
富良野: 「どこかに行く時は、手順を歌にして伝える」って話ですね。「片足を前に出して、次の足も前に出して、そうすれば床を歩けるよ」って高い声で歌うって(笑)。
Phrona: その発想がすごいなって思うんです。介護って、どうしても「できないこと」に注目しがちじゃないですか。でも歌を通じて関わることで、「まだできること」に焦点が当たる。
富良野: しかもそれが、介護する側とされる側の関係性も変えてるんでしょうね。一方的な世話から、一緒に何かを創り上げる関係へ。合唱って本質的に協働作業ですから。
Phrona: そう考えると、メモリーコーラスって認知症の人だけのためのものじゃないのかもしれません。家族や介護者も含めた、コミュニティ全体の癒しになってる。
富良野: 記事にも書いてありましたが、介護者の不安を和らげる効果もあるって研究結果が出てますもんね。同じ経験をしている人たちと出会える場でもあるし。
Phrona: それにしても、世界中で70以上のメモリーコーラスが生まれてるって、すごい広がりですよね。ギビング・ボイスっていう最初の団体から始まって、今やムーブメントになってる。
老いと記憶との新しい向き合い方
富良野: 記事の最後の方で、ボナクダルプール先生が言ってた言葉が印象的でした。「これは2年で死ぬがんとは違う。人生のひとつの段階なんだ」って。
Phrona: ああ、その視点の転換って大切ですよね。認知症を「終わりの始まり」として捉えるんじゃなくて、人生の一部として受け入れる。そうすると、その段階なりの豊かさも見えてくるのかも。
富良野: しかも「僕らは長生きするようになったから、ほとんどの人が記憶の問題を抱えることになる」って現実的な認識も示してる。つまり、これは特別な病気じゃなくて、多くの人が直面する可能性のある状況だと。
Phrona: そういえば、コンサートの観客席に小さい子どもたちもいたって書いてありましたね。おじいちゃんやおばあちゃんの歌声を聞きに来てる。そこにも何か、世代を超えたつながりがある。
富良野: 認知症の人を社会から隔離するんじゃなくて、むしろ地域コミュニティの中心に置く。考えてみれば、昔はそれが当たり前だったのかもしれませんね。
Phrona: 記事の中で、コンサート中は「誰が認知症で誰が介護者か分からなくなる」って表現がありました。それってすごく象徴的だと思うんです。病気が、その人のアイデンティティを完全に規定するわけじゃない。
富良野: ギビング・ボイスの理事長が言ってた「喜び、創造性、つながり、コミュニティ」。これらは認知症になっても失われないし、むしろ音楽を通じてより鮮やかに現れる場合もある。
Phrona: 最初は単なる音楽療法と社交の機会だと思ってたのが、「最も周縁化されたグループにウェルビーイングを創出する最も強力な方法のひとつ」になったって話も印象的でした。予想を超えた効果が現れてる。
ポイント整理
音楽的記憶の特別な性質
音楽を処理する脳領域(尾状前帯状回、腹側運動前野)は、アルツハイマー病の影響を受けにくく、言語記憶が失われても音楽的記憶は長期間保持される
歌唱の複合的効果
歌うことは話すことよりも脳の広範囲を活用し、聴覚処理、記憶、発声を統合的に行うため、執行機能、エピソード記憶、言語流暢性の改善につながる
社会的処方という新概念
薬物療法に頼らず、地域コミュニティの活動(合唱など)を「処方」することで、孤立感の軽減と認知機能の維持を図るアプローチが注目されている
介護者への波及効果
メモリーコーラスは認知症患者だけでなく、家族や介護者の不安軽減、関係性の改善、支援ネットワークの構築にも寄与している
体験から科学への発展
参加者の主観的改善報告が研究の出発点となり、現在は脳波測定などの客観的指標による効果検証が進められている
認知症観の転換
認知症を「人生の終わり」ではなく「人生の一段階」として捉え直し、その段階なりの尊厳と可能性を重視する視点の重要性
キーワード解説
【メモリーコーラス】
認知症患者とその家族・介護者が共に参加する合唱団。Giving Voiceモデルをベースに世界各地で展開
【モバイル脳体イメージング(MoBI)】
電極付きキャップを使用してリアルタイムで脳活動を測定する技術
【メロディック・イントネーション・セラピー】
失語症患者が歌を通じて言語能力を回復する治療法
【ソーシャル・プリスクライビング】
医療以外の地域活動やサービスを健康改善のために「処方」する概念
【神経可塑性】
脳が新しい神経経路を形成し、既存の回路を強化する能力
【白質の構造的完全性】
脳内で情報を効率的に伝達する神経線維の健全性
【尾状前帯状回・腹側運動前野】
音楽的記憶を処理する脳領域で、認知症の影響を受けにくい