歴史を動かすのは思想か、それとも経済か?──ヘーゲルとマルクスの終わらない議論
- Seo Seungchul

- 7月30日
- 読了時間: 7分

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事:Jacob McNulty "Hegel vs Marx: Ideas change the world not economics" (Institute of Art and Ideas, 2025年7月1日)
概要:マルクスの歴史的唯物論への批判と、国際関係論におけるヘーゲル「リアリスト」思想の復権を論じた哲学論考
歴史の底に流れる駆動力は何でしょうか。マルクスはヘーゲルを「頭で立っている」哲学者だと批判し、物質的な経済基盤こそが人類史を動かす真の力だと主張しました。しかし、この見方は本当に正しいのでしょうか。
今、国際関係論の分野で注目されているのは、意外にもヘーゲル思想の再評価です。イエール大学のジェイコブ・マクナルティは、マルクスが見落とした重要な視点があると指摘します。国家間の争いや戦争、法制度といった政治的現実を理解するには、階級闘争だけでは不十分だというのです。
富良野とPhronaの対話を通じて、この知的な論争の核心に迫ってみましょう。経済と思想、物質と精神、そして現代社会を読み解く鍵となる視点を探っていきます。読み終えた時、あなたの歴史観も少し変わっているかもしれません。
「逆さまの哲学者」という批判
富良野:マルクスがヘーゲルを批判した有名な話があるんです。ヘーゲルは「頭で立っている」から、もう一度「足で立たせる」必要があるって。
Phrona:頭で立つって、なんだか不安定そうですね。でも、マルクスが言いたかったのは、ヘーゲルが理念や精神みたいな抽象的なものを重視しすぎていたということでしょうか?
富良野:そうですね。ヘーゲルは歴史を世界精神の展開として見ていました。つまり、神のような理性的な力が自己認識を求めて歴史を動かしているという考え方です。一方、マルクスは経済的な生産様式こそが社会の土台だと主張した。
Phrona:でも、経済が全てを決めるって考えも、なんだか極端な気がします。人間って、お金だけで動いてるわけじゃないですよね。愛とか名誉とか、もっと複雑な動機があるような。
富良野:そこが興味深いところなんです。マクナルティが指摘するのは、マルクスの歴史的唯物論には盲点があるということです。特に国家、戦争、法といった政治的な現実をうまく説明できない。
Phrona:ああ、なるほど。階級闘争だけじゃ説明しきれない部分があるということですね。でも、マルクスだって政治の重要性は認めていたんじゃないですか?
富良野:確かにそうなんですが、マルクスの理論では政治は結局、経済的土台の上に築かれた「上部構造」なんです。経済が変われば政治も自動的に変わるという考え方。でも現実はもっと複雑ですよね。
思想と現実の微妙な関係
Phrona:思い出したんですが、19世紀のドイツって、イギリスやフランスに比べて政治的にも経済的にも遅れていたんですよね。だから思想の分野でしか自己表現できなかった、とマルクスは皮肉っているみたいですけど。
富良野:そう、「ハンマーしか持たない人には、すべての問題が釘に見える」という例え話ですね。ドイツの知識人は思想しか武器がなかったから、歴史を観念の戦いとして捉えてしまった、と。
Phrona:でも、それって逆に考えると、思想が現実を変える力を持っているということでもありますよね。ドイツの哲学が後の世界に与えた影響を考えると、観念だって馬鹿にできない。
富良野:まさにそこが議論の核心なんです。マクナルティが注目するのは、ヘーゲルの「リアリスト」的な側面です。国際関係論では、国家間のパワーゲームを重視するリアリズム学派があるんですが、実はヘーゲルの思想にも似たような視点があるというんです。
Phrona:リアリストのヘーゲル、ですか。それはちょっと意外な組み合わせですね。ヘーゲルって、もっと理想主義的なイメージがあったので。
富良野:僕もそう思っていました。でも考えてみると、ヘーゲルは国家の重要性をすごく強調していたんです。そして国家間の関係では、結局のところ力がものを言う世界だと考えていた。
経済還元主義の限界
Phrona:マルクスの経済還元主義って、確かに説明力はあるんですけど、何かこう...人間の複雑さを見落としている気がするんです。文化とか宗教とか、そういうものの力って軽視できないと思うんですけど。
富良野:その通りです。マクナルティが指摘するのも、まさにその点なんです。現代の国際関係を見ても、経済的利害だけでは説明できない紛争や協力がたくさんありますよね。民族的なアイデンティティとか、宗教的な価値観とか。
Phrona:グラムシの言うヘゲモニー論なんかも、そういう問題意識から生まれたんでしょうね。経済的支配だけじゃなくて、文化的・思想的な支配の仕組みも重要だって。
富良野:そうそう。グラムシは「ネオ・グラムシ学派」として国際関係論にも影響を与えています。経済的構造と政治制度、そしてイデオロギーを総合的に捉えようとする試みですね。
Phrona:でも、マルクスを完全に否定してしまうのも違う気がします。資本主義の矛盾とか、格差の問題とか、今でも十分説得力がある分析だと思うんです。
富良野:もちろんです。マクナルティもマルクスを全否定しているわけじゃない。ただ、経済だけですべてを説明しようとすると、重要な要素を見落とすリスクがあるということです。特に国際政治の分野では。
現代における意味
Phrona:今の時代を考えると、どちらの視点がより有効なんでしょうね。グローバル化が進んで、経済的な相互依存が深まっている一方で、ナショナリズムや宗教的対立も激しくなっていて。
富良野:複雑ですよね。一見すると経済的合理性に反するような政治的選択が、世界各地で起こっている。ブレグジットしかり、保護主義の台頭しかり。
Phrona:そういう現象を理解するには、ヘーゲル的な視点の方が役に立つかもしれませんね。国家の威信とか、文化的アイデンティティとか、そういう「非合理的」に見える要素も含めて考える必要がある。
富良野:ただ、経済的要因を軽視するのも危険だと思います。格差の拡大とか、雇用の不安定化とか、そういう物質的な条件が政治的な変化の背景にあることも多いですから。
Phrona:結局、どちらか一方だけでは不十分ということでしょうか。経済的な構造分析と、思想や文化の力の両方を考慮に入れる必要があるのかもしれません。
富良野:そうですね。マルクスとヘーゲルの対立を乗り越えて、より統合的な視点を持つことが大切なのかもしれません。現実は複雑で、単純な図式では捉えきれませんから。
ポイント整理
マルクスの批判の核心
ヘーゲルの観念論的歴史観に対し、経済的生産関係こそが歴史の真の駆動力だと主張。「頭で立つ」哲学を「足で立たせる」必要性を説いた
歴史的唯物論の限界
国家、戦争、法制度といった政治的現実を、階級闘争だけでは十分に説明できない。経済還元主義では捉えきれない複雑な要因が存在
ヘーゲル・リアリズムの復権
国際関係論のリアリスト学派とヘーゲルの国家観の親和性。国家間のパワーゲームを重視する視点として再評価
統合的視点の必要性
現代の複雑な国際情勢を理解するには、経済的要因と思想・文化的要因の両方を考慮した多面的なアプローチが不可欠
現代的意義
グローバル化とナショナリズムの並存、経済合理性を超えた政治的選択など、単純な経済決定論では説明困難な現象が増加
キーワード解説
【世界精神(Weltgeist)】
ヘーゲルが提唱した、歴史を通じて自己実現を図る神的な理性的原理
【歴史的唯物論】
マルクスの歴史理論。経済的生産様式の発展が社会変化の根本原因とする考え方
【上部構造と下部構造】
マルクス主義の社会構造論。経済的土台(下部構造)が政治・文化(上部構造)を規定するとする理論
【リアリズム学派】
国際関係論の主要理論の一つ。国家の権力追求と安全保障を中心に国際政治を分析
【ネオ・グラムシ学派】
グラムシのヘゲモニー論を国際関係論に適用し、経済・政治・イデオロギーを統合的に分析する理論潮流
【経済還元主義】
社会現象をすべて経済的要因に還元して説明しようとする立場