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気候適応に「7倍のリターン」があるのに、なぜ世界は投資しないのか

更新日:2月10日

シリーズ: 知新察来


◆今回のピックアップ記事:Mekala Krishnan et al., "McKinsey Global Institute Advancing adaptation: Mapping costs from cooling to coastal defenses" (McKinsey Global Institute, 2025年12月11日)

  • 概要:世界の気候適応コストを1平方キロメートル単位の地理空間分析で推計した初の包括的研究。現在の適応支出は年間1900億ドルで、先進国並みの防護水準に引き上げるには5400億ドルが必要。2050年までに気温が産業革命前比2℃上昇した場合、その費用は年間1.2兆ドルに達するが、適応投資のコスト便益比は約7倍と試算。



人類は8000年前のメソポタミア文明から、干ばつに備えて灌漑を整え、2000年前のオランダでは洪水を防ぐ人工の丘を築き、1000年前のイヌイットは極寒を凌ぐイグルーを編み出してきました。気候への「適応」は、文明の歴史そのものだったとも言えます。


しかし現在、世界の約40億人が何らかの気象災害リスクにさらされているにもかかわらず、先進国並みの防護を受けているのは12億人に過ぎません。残る30億人は、猛暑も、干ばつも、洪水も、山火事も、基本的に「自力で耐える」状態に置かれています。


マッキンゼー・グローバル・インスティテュートが2025年12月に公開した最新レポートは、この「レジリエンス・ギャップ」を世界で初めて体系的に数値化し、ある驚くべき結論を導き出しました。気候適応への投資は、コストの約7倍の便益をもたらすというのです。


経済合理性がこれほど明確なのに、なぜ世界は適応投資を進めないのか。富良野とPhronaが、このレポートの射程と死角を探ります。




「30億人の無防備」という現実


富良野:このレポート、ざっと読んだだけでも数字のインパクトがすごいですね。世界で気候ハザードにさらされている41億人のうち、先進国レベルの防護を受けているのは12億人だけ。残りの30億人は……まあ、言葉を選ばずに言えば「剥き出し」の状態にあると。


Phrona:しかも、その30億人の85%が低所得地域に集中しているんですよね。高所得地域で防護が不十分な人は25%程度なのに、低所得地域では85%。この差は、単に「お金がない」だけでは説明できない何かを示唆している気がします。


富良野:うん、レポートも「費用対効果だけで判断されるなら、今日レジリエンス・ギャップは存在しないはずだ」と書いていますね。適応投資の便益はコストの3倍から7倍あるのに、なぜ投資されないのか。これが本質的な問いになっている。


Phrona:「便益」という言葉が曲者だと思うんです。適応投資の便益って、基本的に「回避された損害」ですよね。つまり、災害が起きなければ目に見えない。起きたときに初めて「あのとき投資しておけば」と気づく類のものです。


富良野:そうそう。レポートでも触れられているけど、人々が適応に投資するのは「災害の直後」が多い。2025年のロサンゼルス山火事の後、カリフォルニア州は火災防護への投資を加速させた。でも、記憶が薄れると投資意欲も萎む。


Phrona:人間の時間感覚と、気候変動のタイムスケールが合わないんですよね。来月の支出は痛いけど、20年後の災害は遠い。これって、私たちの認知の限界なのかもしれない。



「エアコン」と「海面上昇」の意外な比率


富良野:面白いのは、適応コストの内訳です。2℃上昇時の年間1.2兆ドルのうち、半分以上が「熱」対策。主にエアコンですね。干ばつ対策の灌漑が20%、洪水対策の堤防や貯水池が残りの大部分。


Phrona:海面上昇による沿岸洪水は、全体のほんの一部なんですよね。ニュースでは「沈む島々」が象徴的に語られるけど、数字で見ると、2050年時点で沿岸洪水にさらされる人は2億人程度。熱ストレスにさらされる人は41億人。


富良野:この非対称性は意外でした。もちろん、海面上昇は2050年以降も続くし、小島嶼国にとっては存亡の問題だけど、グローバルな適応投資という観点では、熱対策が圧倒的に大きな課題になる。


Phrona:でも「エアコン」という解決策には、別の問題がありますよね。エアコンは電力を消費し、冷媒を使う。レポートによれば、エアコンは世界の温室効果ガス排出の約4%を占めている。適応策が緩和を妨げるという、皮肉な構造。


富良野:いわゆる「不適応(maladaptation)」の典型例ですね。灌漑を拡大しすぎて水資源を枯渇させる、堤防を築いたら隣の地域の洪水が悪化する、エアコンを普及させたら排出が増える。適応と緩和は一体で考えないと、問題を別の場所に移すだけになる。


Phrona:レポートは高効率エアコンやヒートポンプ、パッシブクーリング(受動的冷却)との併用を推奨していますが、現実にはコストが高い。低所得地域では、安価な旧式エアコンが普及して、排出が増えるシナリオも十分ありえます。



「年間130ドル」の壁


富良野:先進国並みの防護を得るためのコストは、一人当たり平均130ドル程度だとレポートは試算しています。アメリカだと4時間分の平均賃金、自動車保険の最低料金の6分の1。払えない額ではない。


Phrona:でもバングラデシュでは、130ドルは平均世帯月収の約半分。そのうち4割以上がすでに食費に消えている。防護に回す余裕がそもそもないんですよね。


富良野:これが「レジリエンス・ギャップ」の核心部分でしょう。高所得国ではGDP比0.5%で2050年の適応コストを賄える。でも低所得国ではGDP比1.7%、低所得の農村部に限れば2.5%が必要になる。


Phrona:経済成長が追いつけば、適応投資も増える……というシナリオをレポートは描いていますが、その成長自体が気候変動で阻害される可能性もある。熱ストレスで労働生産性が25%落ちる、干ばつで農業収入が激減する、洪水でインフラが壊れる。悪循環ですよね。


富良野:「成長してから適応する」のではなく、「適応しないと成長できない」という順序の問題がある。でも、その初期投資を誰が負担するのか。


Phrona:国際的な気候資金の話になりますね。アフリカ開発銀行によれば、アフリカ大陸だけで2030年までに緩和・適応に3兆ドル以上が必要。でも実際に流入している適応資金は、必要額の20%にも満たない。



「141カ国の計画」と「14カ国の優先順位」


富良野:レポートで興味深かったのは、適応計画の現状分析です。2025年10月時点で141カ国が正式な適応計画を持っている。5年前の84カ国から大幅に増えた。


Phrona:でも、その中で優先順位を明確に設定しているのは14カ国だけ。コスト見積もりを含んでいるのも同じくらい。計画はあるけど、実行可能な形になっていない。


富良野:これは開発援助の世界でよくある話で、「計画策定」自体が目的化してしまう。ドナーの要請に応じて計画書を作り、承認を得て、そこで終わる。実装フェーズに入る前に担当者が変わる。


Phrona:計画を作ること自体は悪くないと思うんです。でも、計画が「儀式」になってしまうと、本来の目的から離れてしまう。レポートが強調しているのは、まさにその点ですよね。


富良野:「意思決定を支える情報基盤」としての分析が足りていない、と。このレポート自体が、1平方キロメートル単位で130億ピクセルのデータを使って適応コストを推計した、という点で、その空白を埋めようとしている。


Phrona:でも、そのデータがあっても、意思決定に反映されるかは別問題ですよね。「7倍のリターンがある」と言われても、今月の予算には組み込めない。政治的なサイクルと、気候のサイクルが合わない。



「2℃」の先に何があるか


富良野:このレポートは2050年、2℃上昇時点を主なターゲットにしていますが、現在の排出軌道だと、2100年には2.5~3℃に達する可能性が高い。そこまで行くと、適応の「限界」に直面する地域が増える。


Phrona:IPCCが指摘している「ハードリミット」ですよね。2℃を超えると、小島嶼国では淡水確保が不可能になる場所が出てくる。サンゴ礁は広範囲で白化する。適応では対応しきれない変化が起きる。


富良野:レポートもそこには慎重で、「20の適応策がすべてのハザードやすべての場所に適用できるわけではない」と繰り返し注釈をつけている。特に小島嶼国や、生物多様性への影響、サプライチェーンへの波及効果は分析の対象外だと。


Phrona:それは誠実な姿勢だと思います。でも同時に、このレポートが示しているのは「適応で対処できる範囲」の話であって、その範囲を超えたらどうなるかは、また別の議論が必要になる。


富良野:緩和と適応の関係がここで問われる。緩和が進まなければ、適応の必要量は増え続け、やがて限界を超える。適応投資を正当化するには、緩和も同時に進めることが前提になっている。


Phrona:でも現実には、適応投資と緩和投資が競合することもある。限られた予算をどちらに振り向けるか。特に低所得国では、目の前の洪水対策と、将来の排出削減を天秤にかけなければならない。



「誰が払い、誰が守られるか」


富良野:適応投資の性質として、「払う人」と「守られる人」が一致しない場合が多いというのも重要な論点ですね。海岸の堤防を税金で作っても、恩恵を受けるのは沿岸住民だけ。


Phrona:逆に、上流で森林を守ることで下流の洪水リスクが減る場合、上流の住民にはインセンティブがない。生態系サービスの価値を可視化して、受益者が費用を負担する仕組みが必要になる。


富良野:集合行為問題の典型ですね。個人の合理的選択と、集団全体の最適解が一致しない。それを調整するのが政府の役割のはずだけど、政府自体も選挙サイクルに縛られている。


Phrona:インフラの寿命は数十年。堤防を設計するときに、30年後の気候を想定しなければならない。でも政治家の任期は4年か5年。この時間軸の不一致が、適応投資を難しくしている。


富良野:オランダの「川に場所を」プログラムは、10年以上かけて多層的な調整を行ったと紹介されていますが、それができる国は限られている。制度的な能力、つまり長期的なコミットメントを維持できる統治構造が前提になる。


Phrona:気候適応は、結局のところ「社会の能力」を問うているんですよね。技術的な解決策は存在する。コスト便益も明確。でも、それを実装できる社会的・政治的な条件が揃っているかどうか。



残された問い


富良野:このレポートから見えてくるのは、「なぜ合理的な投資が行われないか」という問いの深さかもしれません。単純にお金がないからではない。認知の限界、時間軸の不一致、集合行為問題、制度的能力……いくつもの層が重なっている。


Phrona:「7倍のリターン」という数字は説得力がありますが、それを意思決定に転換するには、別種の作業が必要になる。誰が、いつ、どのような権限で、どのような資金源から、という具体的な設計です。


富良野:その意味で、このレポートは「地図」のようなものかもしれない。どこに何があるかは示してくれる。でも、そこにどう行くかは、また別の話。


Phrona:地図があっても、歩く力がなければ目的地には着けない。その「歩く力」をどう育てるかが、適応の本当の課題なのかもしれませんね。


富良野:うん。データは揃った。技術もある。経済的な正当化もできる。あとは……「決める」ことだけが残っている、とも言える。


Phrona:でも、「決める」ことが一番難しいのかもしれない。特に、その決定の結果が20年後、30年後に現れるような種類の決定は。


富良野:僕たちは、自分が見届けられない未来のために、どこまで今を犠牲にできるのか。適応投資の問いは、最終的にはそこに行き着く気がします。


Phrona:それは、個人の選択でもあり、社会の選択でもある。答えは一つじゃないと思いますが、少なくとも「問い」を共有することはできる。


富良野:そうですね。このレポートがその「問い」を具体的な数字とともに提示してくれたことは、一つの貢献だと思います。


 

 

ポイント整理


  • 世界の気候ハザード露出人口は41億人

    • このうち先進国水準の防護を受けているのは12億人のみ。残る30億人は十分な適応策なく気象リスクにさらされている。特に低所得地域では人口の85%が防護不足の状態にある。

  • 現在の適応支出は年間1900億ドル、先進国水準には5400億ドル必要

    • レジリエンス・ギャップ(防護格差)を埋めるには年間3500億ドルの追加投資が必要。2050年に気温が2℃上昇した場合、先進国水準の適応コストは年間1.2兆ドルに達する。

  • 適応投資のコスト便益比は約7倍

    • 2℃上昇時、適応策の便益(回避される損害)はコストの約7倍に相当。現在でも約3倍のリターンがあるが、投資は進んでいない。

  • 熱対策が適応コストの半分以上を占める

    • 1.2兆ドルのうち50%以上が熱ストレス・熱波対策(主にエアコン)に充てられる見込み。干ばつ対策(灌漑)が約20%、洪水対策が残りの大部分。海面上昇による沿岸洪水は全体の一部に留まる。

  • 低所得国ほどGDP比で高い適応コストを負担

    • 高所得地域はGDP比0.5%で適応可能だが、低所得地域は1.7%、低所得農村部では2.5%が必要。経済成長でカバーできる部分は限定的。

  • 141カ国が適応計画を策定済みだが実効性は低い

    • 2025年10月時点で141カ国が正式な適応計画を持つが、明確な優先順位設定やコスト見積もりを含むのは14カ国程度に過ぎない。

  • 適応の「限界」は2℃を超えると顕在化

    • 小島嶼国の淡水確保、サンゴ礁の保全など、適応では対処できない「ハードリミット」が存在。緩和なき適応は持続不可能。

  • 集合行為問題と時間軸の不一致が投資を阻害

    • 適応投資の便益は「回避された損害」という形で現れるため可視化されにくい。また、受益者と負担者の不一致、政治サイクルとインフラ寿命の乖離が意思決定を困難にしている。



キーワード解説


レジリエンス・ギャップ(Resilience Gap)

現在の防護水準と先進国で一般的な防護水準との差。世界で約30億人がこのギャップの影響下にある。


気候ハザード(Climate Hazard)

熱ストレス、熱波、山火事、干ばつ、沿岸洪水、河川洪水、豪雨洪水、生存不能レベルの高温など、気候に起因する災害リスク。


熱ストレス(Heat Stress)

年間28日以上、湿球黒球温度(WBGT)が29.4℃を超えるか、気温が40℃を超える状態が続くこと。労働生産性を25%以上低下させる。


不適応(Maladaptation)

適応策が意図せず新たな脆弱性や負の影響を生み出すこと。例:エアコン普及による排出増加、灌漑拡大による水資源枯渇。


コスト便益比(Benefit-to-Cost Ratio)

適応投資の便益(回避される年間平均損害額)をコスト(年間資本・運営費)で割った値。7倍は非常に高いリターンを示す。


ハードリミット(Hard Limit)

気候変動の影響が適応可能な範囲を超える限界点。物理的・生態学的に対応不可能な状態。


ソフトリミット(Soft Limit)

財政的・技術的・制度的な制約による適応の限界。理論上は克服可能だが実際には困難な障壁。


集合行為問題(Collective Action Problem)

個人の合理的選択が集団全体の最適解と一致しない状況。公共財の過少供給や共有資源の過剰利用を招く。


1平方キロメートルピクセル分析

地理空間データを1km²単位のグリッドに分割し、ハザード露出と適応コストを推計する手法。本レポートでは全世界で1.3億ピクセルを分析。



本稿は近日中にnoteにも掲載予定です。
ご関心を持っていただけましたら、note上でご感想などお聞かせいただけると幸いです。
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