物質の記憶──生命の起源を探る新理論
- Seo Seungchul

- 7月7日
- 読了時間: 7分

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事:Lee Cronin "A new theory of matter may help explain life" (Institute of Art and Idea, 2023年11月1日)
どうして私たちは存在しているのでしょうか。これは人類が古くから抱き続けてきた根本的な問いですが、最近、この謎に新しいアプローチで挑戦する研究者たちがいます。
グラスゴー大学のリー・クロニンとアリゾナ州立大学のサラ・ウォーカーが提唱する「Assembly Theory(組み立て理論)」は、物理学と生物学を橋渡しする革新的な枠組みです。この理論は、物質を単なる粒子の集合体ではなく、その「組み立てられた歴史」を持つ実体として捉え直します。私たちの存在も、この宇宙の物質が長い時間をかけて蓄積してきた記憶の産物なのかもしれません。今回は、この挑戦的な理論について、富良野とPhronaの対話を通じて考えてみましょう。
物質に宿る記憶という発想
富良野:従来の物理学では、原子や分子といった基本的な構成要素だけに注目していたけれど、このAssembly Theory理論では物質の「組み立て履歴」も重要な性質として扱うんですね。
Phrona:そうなんです。物質にも記憶があるという発想、とても詩的だと思いませんか。私たちの体を構成している分子一つ一つにも、宇宙の始まりから今に至るまでの長い物語が刻まれているって考えると。
富良野:でも実際のところ、この「組み立て履歴」って具体的にはどういうことなんでしょう。単に化学反応の経路を記録しているということ?
Phrona:Assembly Index という指標があるんですが、これは基本的な構成要素から特定の分子を作るのに必要な最小ステップ数を表しているんです。つまり、複雑な分子ほど高い Assembly Index を持つことになる。
富良野:なるほど。でもそれだと、単純に複雑さを測っているだけにも見えますが。
Phrona:ところが面白いのは、この指標が15を超えるような複雑な分子は、どうやら生命のような組織化されたプロセスでしか作れないらしいということなんです。つまり、分子の複雑さそのものが、それを作り出した「プロセス」の性質を物語っている。
進化が始まる前の進化?
富良野:クロニンとウォーカーが指摘している問題って、ダーウィンの進化論が適用される前の段階をどう説明するかということですよね。生命が存在しない状態から、どうやって進化可能なシステムが現れるのか。
Phrona:そうです。卵が先か鶏が先かという古典的なパラドックスに似ていますね。進化には既に複製可能なシステムが必要だけれど、そのシステム自体がどこから現れたのかという。
富良野:Assembly Theory はその空白を埋めようとしているわけですか。物理法則は変えずに、「オブジェクト」の定義を変えるという。
Phrona:まさに。私たちが普段「もの」として認識している存在を、単なる粒子の集まりではなく、特定の組み立て履歴を持つ存在として再定義しているんです。だから、複雑な分子が偶然にできる確率と、何らかの選択圧のもとで段階的に構築される確率は全然違うものになる。
富良野:でもこれって、結局のところ熱力学や化学動力学で説明できる範囲の話じゃないでしょうか。わざわざ新しい理論を作る必要があるのかな。
Phrona:従来のアプローチだと「なぜその分子が存在するのか」という歴史的な文脈が抜け落ちてしまいませんか。Assembly Theory は物質の現在の状態だけでなく、そこに至るまでのプロセスも含めて理解しようとしている。
批判の嵐と科学的議論
富良野:ただ、この理論、かなり激しい批判も受けているみたいですね。Nature に掲載されたにも関わらず、進化生物学者からは「ナンセンス」とか「創造論のトロイの木馬」とまで言われている。
Phrona:科学者の感情的な反応って、時として理論の核心を突いていることがありますよね。なぜそんなに激怒するのか、その理由を考えてみるのも面白いかもしれません。
富良野:確かに。スティーブン・ベナーのような化学者は、「生命以外のシステムが複雑な分子を作れないというのは明らかに間違い」と指摘しているし、実際にポリオキソメタレートという無機化合物でも高い Assembly Index が理論的に可能だという例もあるらしい。
Phrona:でも、理論の細部に問題があったとしても、アプローチ自体は価値があるんじゃないでしょうか。物理学と生物学の間に橋をかけようとする試み自体は。
富良野:そうですね。特に宇宙生物学の文脈では興味深い。地球外生命を探すときに、その生命がどんな化学的基盤を持っているかわからなくても、分子の複雑さから生命由来かどうかを判断できるかもしれない。
Phrona:化学的に中立な生命探査手法、というのは確かに魅力的です。炭素ベースの生命体しか想定していない従来の探査方法よりもずっと幅広い可能性を捉えられそう。
記憶を持つ宇宙
富良野:この理論が示唆する宇宙観は興味深いですね。「私たちは再帰的に構造化された宇宙に住んでいる」とウォーカーが言っているように、すべての構造が過去の記憶の上に築かれているという視点。
Phrona:それって、私たちの認識の仕方そのものにも関わってきますよね。物質世界を固定された法則に従う機械的なシステムとして見るのではなく、歴史と記憶を蓄積していく生きた存在として見る。
富良野:ただ、そうなると「記憶」という概念自体を慎重に定義する必要がありますね。Assembly Index として数値化されるものと、私たちが普段考える記憶とは違うものだろうし。
Phrona:でも何か共通する性質があるのかもしれません。過去の出来事が現在の状態に影響を与え続けているという意味では。人間の記憶も、脳の物質的な構造として蓄積されているわけですから。
富良野:面白いのは、この視点だと技術と生命の境界も曖昧になってくることです。人工的に作られた複雑なシステムも、ある意味では生命のような性質を持つ可能性がある。
Phrona:そうですね。ロケットが作られるためには、まず多細胞生物が必要で、それから人間が必要で、文明と科学が必要だという順序性。これも一種の Assembly Index と言えるかもしれません。
未解決の問題と今後の展望
富良野:とはいえ、この理論にはまだ多くの未解決問題がありますよね。実験的に検証可能だと主張しているけれど、実際にはどこまで検証できるのか。
Phrona:クロニンは「実験室で生命システムをゼロから作る実験」の可能性について言及していますが、それが実現したらすごいことですよね。
富良野:でも逆に、そうした実験が成功しなかった場合、理論のどの部分に問題があるのかを特定するのは難しそうです。生命の起源という問題は、そもそも実証が困難な分野ですから。
Phrona:ただ、完璧な理論を待つよりも、不完全でも新しい視点を提供してくれる理論の方が、科学の進歩には重要なのかもしれません。間違いを含んでいても、それが新しい発見への道筋を示してくれるなら。
富良野:確かに。Assembly Theory が正しいかどうかより、この理論が提起している問題意識の方が重要かもしれませんね。物理学と生物学の統合という長年の課題に、新しい角度からアプローチしている。
Phrona:それに、たとえこの理論自体が後に修正されたり置き換えられたりしても、「物質の記憶」という概念は残っていくかもしれません。科学史を見ても、理論の詳細は変わっても、基本的な洞察は受け継がれていくことが多いですから。
ポイント整理
Assembly Theory は物質を構成要素ではなく「組み立て履歴」で定義し直す新しい理論的枠組み
物理学の法則は変えずに、物質の概念を拡張して生命の起源問題にアプローチする
Assembly Index が15を超える分子は生命のような組織化されたプロセスでのみ生成可能
分子の複雑さそのものが、それを生み出したシステムの性質を反映する指標となる
進化論が適用される前段階での選択と複雑化のメカニズムを説明しようとする試み
生命が存在しない状態から進化可能なシステムが現れる過程を理論的に説明
宇宙生物学への応用可能性として化学的に中立な生命探査手法を提供
特定の化学的基盤に依存しない、分子複雑性に基づく地球外生命の検出方法
進化生物学者を中心とした激しい学術的批判と論争を引き起こしている
理論の妥当性や新規性について科学コミュニティで活発な議論が継続中
キーワード解説
【組み立て指数(Assembly Index)】
基本構成要素から特定の分子を構築するのに必要な最小ステップ数を表す指標
【隣接可能性(Adjacent Possible)】
既存の現実と隣接する可能性の空間を表す概念
【組み合わせ空間(Combinatorial Space)】
すべての可能な分子の組み合わせを含む仮想的な空間
【前生物化学(Prebiotic Chemistry)】
生命が誕生する以前の化学的プロセスと反応系
【選択圧(Selection Pressure)】
特定の特徴を持つ個体が生存・繁殖において有利または不利になる環境要因
【宇宙生物学(Astrobiology)】
宇宙における生命の起源、進化、分布、未来を研究する学際的分野
【生体指標(Biosignature)】
生命の存在を示す検出可能な物質や現象の証拠