科学を人質に取る「査読の聖職者たち」──研究資金配分の権力構造が、真の科学的進歩を阻んでいる
- Seo Seungchul

- 9月6日
- 読了時間: 11分
更新日:9月15日

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事:Jamie Shaw "The high priests of science are holding it hostage" (Institute of Art and Ideas, 2025年7月8日)
科学にノーベル賞級の革新的なアイデアが生まれても、研究資金を得るまでに何度も門前払いされる──これが現在の科学界の現実です。mRNAワクチンの基盤研究は10回以上資金調達に失敗し、後にノーベル賞を受賞した研究でさえ15年間も資金確保に苦労しました。
問題の核心は「査読制度」にあります。少数の科学者が「真理に近づく研究」を判定し、年間2兆ドルもの研究資金の行き先を決める現在のシステム。しかし、査読者は革新的な研究を見極めるのが得意ではなく、むしろ保守的な判断で画期的な発見を阻んでいることが分かってきました。
この記事では、科学哲学者ジェイミー・ショーの視点から、査読制度の根本的な問題と、より平等で多様性に富んだ研究資金配分システムへの転換について考えていきます。科学の未来を左右する権力構造の変革は、私たちの社会にどのような影響をもたらすのでしょうか。
査読制度の"聖域"に挑む
富良野:科学者が研究時間の60%も資金申請に費やしているなんて、本末転倒というか...
Phrona:ほんとうに。せっかく研究したくて科学者になったのに、お金集めで一日が終わってしまうなんて。でも、なぜこんなことになってしまったんでしょう?
富良野:根本的には「科学者が最も科学を知っているから、彼らに資金配分を決める権限を与えるべきだ」という考え方があるんです。一見合理的に見えるでしょう?
Phrona:たしかに、専門家に任せるのが一番安全そうに思えますね。でも、実際はそうじゃないということ?
富良野:そうなんです。記事によると、査読者は研究の成功や失敗を予測するのがかなり下手らしい。しかも、どの研究が良いか悪いかについて、査読者同士でも意見が合わないことが多いんです。
Phrona:それって、つまり「権威」だと思われていた人たちも、実は手探り状態だったということですか?
富良野:まさにそういうことです。さらに問題なのは、この制度が既存の権力構造を固定化してしまうことですね。有名大学出身じゃない人、女性、有色人種、障害のある人たちが不利になりやすい。
Phrona:それは悲しいですね。多様な視点があってこそ、科学は豊かになるはずなのに...科学の世界でも「マタイ効果」って呼ばれる現象があるんですね。
革新を阻む「保守的な壁」
富良野:記事で印象的だったのは、mRNAワクチンの研究が10回以上も資金調達に失敗したという話です。今となっては、コロナ禍で人類を救った技術なのに。
Phrona:10回も? それはちょっと異常ですよね。何がそんなに問題視されたんでしょう?
富良野:恐らく、当時の主流な研究手法から外れていたからでしょうね。査読者は既存の知識や方法論を基準に判断しがちだから、全く新しいアプローチは「リスクが高い」と見なされてしまう。
Phrona:でも待って、そもそも研究って未知を探求するものじゃないですか?リスクを避けてばかりいたら、本当の発見は生まれないような...
富良野:その通りです。記事でも、ガリレオが地動説を唱えたとき、最も強い反対を受けたのは当時の主流物理学を信奉する人たちからだったと指摘されています。
Phrona:歴史は繰り返すんですね。でも、なぜ人は新しいものを恐れるんでしょう?
富良野:安全だと思えるものに投資したくなるのは人間の本能かもしれませんね。特に税金が原資となると、失敗したときの責任問題もある。でも、その「安全」が実は革新を殺しているという皮肉な状況です。
フェイエラベントの警鐘
Phrona:記事に出てくるポール・フェイエラベントという哲学者の考え方が興味深いですね。科学者には「真理への権威」なんてものはないって。
富良野:フェイエラベントは科学哲学の中でも特に過激な論客でしたね。彼によると、科学には普遍的な「方法」なんて存在しない。だから科学者が特別な権威を持つ理由もないと。
Phrona:それって、ちょっと衝撃的じゃないですか?科学イコール客観的真理を追求するもの、っていうイメージが強いから。
富良野:でも考えてみると、科学の歴史を振り返れば、大きな発見は既存の方法論を打ち破ることで生まれてきました。量子力学然り、進化論然り。
Phrona:そうですね。科学も人間がやることだから、時代によって変わっていくものなのかもしれない。でも、それなら研究資金の配分も、もっと違った方法があってもいいはずですよね?
富良野:まさにその通りです。少数の査読者に権力を集中させるのではなく、より多様で平等なシステムを考える必要がある。記事では具体的な改革案も提示されていますね。
「科学者全員に研究費を」という発想
富良野:一つ目の改革案は「すべての適格な科学者に研究費を配る」という、かなり大胆なアイデアですね。
Phrona:それって、科学者版のベーシックインカムみたいなものですか?面白いアイデアですけど、本当に実現可能なんでしょうか?
富良野:記事の著者は「ユニバーサル・リサーチ・ファンド」と呼んでいます。確かに最初は非現実的に聞こえますが、よく考えてみると合理的な面もあるんです。
Phrona:というと?
富良野:まず、大学のポストに就くこと自体が非常に競争的で、そこを通過した科学者は基本的に優秀です。だから「でたらめな研究に資金が流れる」リスクは思ったより低い。
Phrona:なるほど。すでに一定の「選別」は済んでいるということですね。でも、大型の研究プロジェクトはどうするんでしょう?
富良野:そこがまた面白いところで、科学者同士で資金をプールして「クラウドファンディング」的に進めるという提案なんです。
Phrona:それって、査読者の判断に頼るより、実際に研究をしている科学者たちの「集合知」を活用するということですか?
富良野:そう、社会心理学でいう「群衆の知恵」の考え方ですね。少数の査読者より、多数の科学者の判断の方が正確になる可能性がある。
運命を「くじ引き」に委ねる
Phrona:二つ目の改革案も驚きました。研究資金の配分に「くじ引き」を導入するなんて。
富良野:実は、イギリスやカナダ、ニュージーランドなどで実際に試されているんです。特に「変革的で革新的な研究」を対象にした制度として。
Phrona:でも、真面目に研究している人からすると「運任せ」って、なんだか馬鹿にされているような気持ちになりませんか?
富良野:その気持ちは分かります。でも、現在の査読制度も結局のところ「メリット」を正しく評価できていない。それなら、偏見や権力政治の影響を受けにくい方法の方がましかもしれません。
Phrona:確かに。変な忖度や人間関係に左右されるくらいなら、いっそ公平なくじ引きの方が潔いかも。
富良野:ただし、完全にランダムにするわけではなく、基本的な条件をクリアした提案の中から選ぶということですけどね。最低限の質は担保されています。
Phrona:なるほど。でも、この二つの案を聞いていると、現在のシステムがいかに硬直化しているかが見えてきますね。
権力の再分配という視点
富良野:記事の核心は、単に効率性の問題ではなく「権力の再分配」だと思うんです。現在は少数の査読者に集中している意思決定権を、より広く分散させようという提案。
Phrona:それって、科学界の民主化ということですか?
富良野:そうです。科学も社会の一部である以上、権力構造の問題から逃れられない。多様性を確保するためには、意図的に権力を分散させる必要がある。
Phrona:でも、専門性って大事じゃないですか?素人が口を出すべきではない領域もあるような...
富良野:もちろん専門性は重要です。でも問題は「誰が専門家なのか」「その専門家に権力を集中させていいのか」ということです。科学の歴史を見ると、真の革新は往々にして周辺から生まれている。
Phrona:そうですね。既存の専門家集団だけで物事を決めていたら、その枠を超えた発想は出てこないかもしれない。
富良野:だからこそ、制度設計の段階で多様性を担保する仕組みが必要なんです。それが結果的に、科学全体のイノベーションにつながる可能性が高い。
「真理」という幻想を超えて
Phrona:この話を聞いていると、そもそも「科学的真理」って何なのかが分からなくなってきました。
富良野:フェイエラベントが指摘したのは、まさにその点ですね。科学が「真理」に向かって着実に進歩しているという物語自体が、ある種の神話なのかもしれない。
Phrona:でも、科学技術の恩恵を受けて生活している私たちとしては、何かしらの「進歩」は実感しているじゃないですか?
富良野:もちろん、科学的知識の蓄積や技術の発展は事実です。ただ、それが一直線の「真理への道」なのか、もっと複雑で予測不可能なプロセスなのかということです。
Phrona:つまり、科学の進歩って、思っているよりもずっと「偶然」に依存しているということですか?
富良野:少なくとも、現在の査読制度が想定しているほど予測可能ではないということでしょうね。だからこそ、多様性と偶然性を制度に組み込むことが重要になってくる。
がん研究に見る「集中投資」の落とし穴
Phrona:記事でがん研究の例が出ていましたが、あれは衝撃的でした。何兆円も投資しているのに、進歩が遅いなんて。
富良野:化学療法と放射線療法という、比較的確立された分野に資金が集中しすぎた結果らしいです。免疫療法のような新しいアプローチが軽視されてしまった。
Phrona:でも、確実性の高い方法に投資するのは合理的に思えるんですけど...
富良野:短期的にはそうかもしれません。でも、長期的に見ると、多様なアプローチを並行して試す方が、突破口を見つける可能性が高いかもしれない。
Phrona:ポートフォリオの分散投資みたいな考え方ですね。一つの手法に全財産を投じるより、リスクを分散させた方が安全。
富良野:まさにその通りです。科学研究も、ある意味では「不確実性への投資」ですから、金融の世界の知見が応用できる部分があります。
Phrona:でも、それを実現するためには、現在の権力構造を変える必要があるということですね。
実験としての制度改革
富良野:記事の最後で著者が強調しているのは「実験的なアプローチ」の重要性です。新しい制度も、実際に試してみないと分からない。
Phrona:科学的な態度ですね。仮説を立てて、実験して、結果を検証する。
富良野:そうです。現在のシステムに固執するのではなく、様々な可能性を試してみる。それが科学的なアプローチだと思います。
Phrona:でも、制度を変えるって、すごく大変そうです。既得権益もあるでしょうし...
富良野:確かに容易ではないでしょう。でも、現状の問題が明らかになってきた以上、変化は避けられないと思います。すでに一部の国では新しい取り組みが始まっているわけですし。
Phrona:そう考えると、今は科学史の転換点にいるのかもしれませんね。私たちが目撃しているのは、科学というものの本質的な変化の始まりなのかも。
富良野:そうですね。そして、それは科学だけの問題ではなく、社会全体の意思決定のあり方にも関わってくる話だと思います。専門家の権威をどう位置づけるか、多様性をどう確保するか。これらは民主主義の根本的な課題でもありますから。
ポイント整理
現在の科学資金配分システムの問題点
査読制度に依存した資金配分は、革新的研究を阻害し、既存の権力構造を固定化している。科学者は研究時間の60%を資金申請に費やし、画期的な研究でも資金獲得に10回以上失敗することがある。
査読制度の限界
査読者は研究の成功・失敗を予測するのが得意ではなく、判断に一貫性がない。また、女性や有色人種、「格の低い」機関出身者に対する偏見も存在し、多様性を阻害している。
フェイエラベントの科学観
科学には普遍的な「方法」は存在せず、科学者が真理について特別な権威を持つ根拠もない。科学の進歩は予測不可能で、既存の基準を強制することで創造性が制限される。
改革案1 - ユニバーサル・リサーチ・ファンド
すべての適格な科学者に基礎研究費を配分し、大型プロジェクトは科学者同士のクラウドファンディングで実現する。権力を分散させ、「群衆の知恵」を活用するアプローチ。
改革案2 - くじ引き制度の導入
基本条件をクリアした研究提案の中から、ランダムに資金配分先を決定する。すでにイギリス、カナダ、ニュージーランドなどで試行されており、偏見や権力政治の影響を中和する効果が期待される。
権力の再分配という視点
問題の本質は効率性ではなく、少数の査読者に集中した意思決定権の分散にある。科学界の民主化を通じて、多様性と革新性を確保することが重要。
キーワード解説
【査読制度(ピアレビュー)】
科学者が他の科学者の研究提案や論文を評価する制度
【マタイ効果】
「富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる」現象
【ユニバーサル・リサーチ・ファンド】
すべての研究者に基礎研究費を配分するシステム
【群衆の知恵】
個人より集団の方が優れた判断を下すという社会心理学の概念
【ポール・フェイエラベント】
科学の方法論を批判した20世紀の科学哲学者
【mRNAワクチン】
新型コロナウイルスワクチンに使用された革新的技術
【免疫療法】
がん治療における新しいアプローチの一つ
【クラウドファンディング】
多数の人々から少額ずつ資金を調達する手法