細胞は工場ではなくジャズバンドだ――分子生物学の新しい地平線
- Seo Seungchul

- 2月23日
- 読了時間: 20分

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事:Ewa Grzybowska, "Organisms are musicians not machines" (Institute of Art and Ideas, 2025年12月3日)
概要:旧来の生物学では、細胞は精密な工場のようなものとして理解されてきました。一つの遺伝子から一つのタンパク質が作られ、それぞれが決まった機能を果たす。しかし2000年代以降、この図式は大きく揺らいでいます。タンパク質は形を変え、構造を持たないままでも機能し、遺伝子は解釈の余地を持つテキストとして振る舞う。ワルシャワの腫瘍学研究所の分子生物学者エワ・グジボフスカ教授が描くのは、即興と柔軟性に満ちた生命の新しい姿です。富良野とPhronaが、機械的な生命観から創造的な生命観への転換について語り合います。
旧来の生物学では、細胞は精密な工場のようなものとして理解されてきました。一つの遺伝子から一つのタンパク質が作られ、それぞれが決まった機能を果たす。
しかし2000年代以降、この図式は大きく揺らいでいます。タンパク質は形を変え、構造を持たないままでも機能し、遺伝子は解釈の余地を持つテキストとして振る舞う。ワルシャワの腫瘍学研究所の分子生物学者エワ・グジボフスカ教授が描くのは、即興と柔軟性に満ちた生命の新しい姿です。
富良野とPhronaが、機械的な生命観から創造的な生命観への転換について語り合います。
一遺伝子、一タンパク質、一機能――崩れ始めた教科書
富良野:最近、分子生物学の教科書が軒並み書き換えられてるって話、知ってます? 1953年のワトソンとクリックのDNA二重らせん構造の発見以来、僕らは遺伝子をある種の設計図として理解してきたわけですけど、その前提自体が怪しくなってきてる。
Phrona:設計図が怪しい、というのは? 遺伝子はタンパク質を作る情報を持っている、っていう理解自体は間違ってないんですよね。
富良野:そこなんですよ。間違ってはいないんだけど、あまりにも単純化されすぎていた。一つの遺伝子から一つのタンパク質ができて、それが一つの機能を持つ――この「ワンセット主義」がずっと教科書に載ってたんです。でも2000年代に入ってから、これが次々と例外だらけだって分かってきた。
Phrona:例外だらけ、ですか。具体的にはどういうことなんでしょう?
富良野:たとえばスプライシング。遺伝子の中には実際にはタンパク質になる部分とならない部分があって、細胞はその「なる部分」だけを切り貼りしてメッセンジャーRNAを作るんですね。で、この切り貼りのやり方を変えると、同じ遺伝子から違うタンパク質ができる。これをオルタナティブスプライシングって呼ぶんですけど、これだけで「一遺伝子一タンパク質」という原則は崩れてしまう。
Phrona:同じレシピから違う料理ができる、みたいな感じですか?
富良野:まさに。しかもその「ならない部分」――イントロンとか非コード領域って呼ばれる部分が、ヒトゲノムの大半を占めてるんです。昔は「ジャンクDNA」って呼ばれてましたけど、自然選択がこんなに無駄を許すわけがない。何か機能があるはずだ、と。
Phrona:でもそれって、機能が分からないから「ジャンク」って呼んでただけなんですよね。怖いのは、分からないものを最初から無視してしまう態度かもしれません。
富良野:おっしゃる通り。実際、ヒトゲノム計画が2003年に完了したとき、みんな驚いたんですよ。僕らの遺伝子って、タンパク質をコードする部分がたった1~2パーセントしかなくて、それなのにゲノム全体の85パーセントがRNAに転写されてる。つまり、細胞は大量の「タンパク質にならないRNA」を作ってるわけです。
Phrona:じゃあ、そのRNAたちは何をしてるんですか?
富良野:それが、遺伝子の発現を調節してるんです。マイクロRNA、長鎖非コードRNA、環状RNAとか、いろんな種類があって、それぞれが遺伝子のオン・オフを切り替えたり、タンパク質の作られ方を微調整したりしてる。つまり、「遺伝子→タンパク質」っていう一方通行じゃなくて、何層にも重なった制御のネットワークがあるってことなんですよね。
タンパク質は形を変え、形を持たずに働く
Phrona:でも、遺伝子の話だけじゃないんですよね? タンパク質そのものについても、何か大きな発見があったんでしょう?
富良野:そうなんです。タンパク質って、アミノ酸の配列が決まれば立体構造も自動的に決まる――これをアンフィンゼンのドグマって呼ぶんですけど、これも絶対のルールじゃなかった。たとえば「ムーンライティングタンパク質」って呼ばれるものがあって、これは昼間は酵素として働いて、夜になると――というか条件が変わると――全然違う仕事をする。
Phrona:ムーンライティング、つまりアルバイト、ですか。
富良野:そういうことです(笑)。もっと驚くのは「フォールドスイッチングタンパク質」で、これは同じアミノ酸配列なのに、環境次第で構造そのものを変えてしまう。アルファヘリックスからベータシートへ、みたいに。構造が変われば機能も変わるわけで、これはもう「一構造一機能」とは言えない。
Phrona:そうなると、アミノ酸配列が設計図だっていう理解自体が揺らぎますね。
富良野:まさにそこなんです。で、さらに革命的だったのが「内在的無秩序タンパク質」、つまりIDPっていう分類の発見です。これは、安定した立体構造を持たないまま、機能しているタンパク質なんですよ。
Phrona:構造を持たないのに、機能する?
富良野:そう。むしろ構造を持たないからこそ、柔軟に相手を変えられるし、環境の変化に素早く対応できる。細胞内のシグナル伝達とか遺伝子発現の制御とか、動的な調整が必要な場面で活躍してるんです。しかも、こういう無秩序な部分は、進化の過程で保存されてるから、偶然じゃなくて必要だから残ってる。
Phrona:それって、私たちが「きちんとした形」にこだわりすぎてたってことかもしれませんね。形がないものは機能もないだろう、って。
富良野:ええ、本当にそうだと思います。酵素の構造を「鍵と鍵穴」に喩えたフィッシャーの古典的なモデルがあるんですけど、それは確かに一部のタンパク質には当てはまるけど、全体像じゃなかった。生命ってもっと流動的で、状況に応じて即興的に振る舞ってるんですよね。
タイミングと環境が構造を決める
Phrona:でも、そうなると疑問なんですけど、アミノ酸配列が同じなのに違う構造ができるって、いったい何が違いを生むんでしょう?
富良野:それが「時間」と「環境」なんです。タンパク質の合成って、リボソームっていう工場でアミノ酸を一つずつつなげていくんですけど、実はこのプロセスの途中で、すでに一部が折りたたまれ始める。つまり、N末端――最初の方――がリボソームから出てきたらもう折りたたまれ始めてて、C末端――最後の方――はまだリボソームの中にいる。
Phrona:あ、つまり部分的に折りたたまれた状態が先にできてしまうんですね。
富良野:そういうことです。で、もし何らかの理由で翻訳が一時的に止まったら、その「途中まで折りたたまれた部分」が、全体ができあがるまで待つことになる。そうすると、最終的な構造が変わる可能性がある。実際、最近の研究で、メッセンジャーRNAのコード領域――つまりタンパク質の配列を指定してる部分――に他のタンパク質が結合して、翻訳を遅らせることがあるって分かってきたんです。
Phrona:それってつまり、タイマーみたいなものですか?
富良野:ええ、まさに。翻訳のタイミングを調整することで、どの部分が先に折りたたまれるか、どの部分が後から加わるかをコントロールして、最終的に違う構造を作る。これ、すごく巧妙なやり方ですよね。
Phrona:でも、そうなると「設計図」っていう比喩自体が合わなくなってきますよね。設計図って、どう読んでも同じ建物ができるはずだけど、遺伝子は読み方や読むタイミング次第で違うものができる。
富良野:まさにそこなんですよ。遺伝子はむしろ「テキスト」に近い。同じ文章でも、読む人や状況によって解釈が変わる。生命って、情報を機械的に実行してるんじゃなくて、文脈に応じて柔軟に解釈してるんです。
機械ではなくミュージシャン
Phrona:この記事のタイトル、「生物は機械ではなくミュージシャンだ」って、すごく的を射てますよね。機械だったら、同じ入力から同じ出力しか出てこないけど、ミュージシャンは即興する。
富良野:そうなんです。ジャズのセッションみたいに、その場の雰囲気や他のプレイヤーとの関係で、演奏が変わっていく。細胞も同じで、遺伝子という「楽譜」はあるけど、それをどう演奏するかは環境や時間、他の分子との相互作用によって変わる。
Phrona:そう考えると、生命ってすごく創造的なプロセスなんですね。決定論的な機械というより、可能性を探りながら動いてる感じ。
富良野:ええ。しかもその柔軟性があるからこそ、生命は環境の変化に適応できるし、進化もできる。もし本当に機械みたいに固定的だったら、ちょっとした変化で壊れちゃうでしょうね。
Phrona:でも、こういう発見が続くと、研究者たちはどう対応してるんですか? 教科書を全部書き直すって、大変なことですよね。
富良野:そりゃもう大変ですよ(笑)。でもこれが科学の正常なプロセスなんです。最初は単純なモデルで理解を始めて、だんだん複雑さが見えてくる。今はその「複雑さの層」がどんどん明らかになってる段階で、しかもAIの登場で研究スピードがさらに加速してる。AlphaFoldとか、タンパク質の構造を予測するAIシステムが出てきて、これまで何年もかかってた研究が数時間でできるようになってる。
Phrona:でも面白いのは、同じDeepMindが材料科学でも革命を起こしてることですよね。GNoMEっていうシステムで、220万個の新しい結晶構造を予測したって。
富良野:ああ、あれはすごかった。しかもたった17日間で、従来なら800年分の知識に相当する発見をした。バッテリーや超伝導体に使える材料を、大量に見つけ出してる。実際に実験室で700個以上の予測材料がすでに作られて、検証されてるんです。
Phrona:それって、生命と物質の両方で、AIが「まだ見ぬ可能性」を探索してるってことですよね。AlphaFoldは「こういうタンパク質があったら、こういう形になる」を予測するけど、GNoMEは「こういう材料が作れるはず」っていう未来を提示してる。
富良野:そう。しかも面白いのは、GNoMEが人間の化学的直感を超えた材料を見つけてることなんです。5つとか6つもの元素を組み合わせた、誰も思いつかなかったような構造。リチウムイオン伝導体なんて、従来の材料の25倍も電気を通すものが見つかってる。バッテリー技術が一気に進化する可能性がある。
Phrona:可能性の空間、って感じですね。生命も材料も、実は無限の可能性を秘めてて、その中から条件に応じて何かが選ばれて実現される。
富良野:まさにそう。遺伝子があらゆる構造の可能性を持ってるように、元素の組み合わせも無限の材料の可能性を秘めてる。そしてAIは、その広大な可能性の中から、実際に安定して存在できるものを見つけ出してる。これって、「すべてが決まってる」世界観から、「可能性から選ばれる」世界観への転換なんですよね。
Phrona:AIが生命や物質の創造的な側面を明らかにしてくれてるって、ある意味皮肉ですよね。機械が、生命は機械じゃないってことを証明する手伝いをしてる。
富良野:ほんと、そうですよね。でもAIも結局、人間が問いを立てて、仮説を検証する道具でしかない。生命の複雑さを理解するのは、やっぱり僕ら自身なんだと思います。
無秩序の中の秩序
Phrona:内在的無秩序タンパク質の話に戻りたいんですけど、「構造がないのに機能する」って、私たちの直感に反してますよね。形があるから機能するんだろうって、普通思うじゃないですか。
富良野:そうなんです。「形態は機能に従う」っていう原則が、生物学でも建築でもずっと支配的だったんですけど、IDPはそれを逆転させてる。むしろ「形がないから、いろんな機能を担える」って。
Phrona:それって、水みたいなものかもしれませんね。水は形を持たないから、どんな容器にも入れる。固体だったらそうはいかない。
富良野:しかもIDPは、相手の分子と結合するときに初めて構造を取ることもあるんです。つまり、無秩序から秩序への転換。これって、相手次第で自分の形を変えるってことで、すごく柔軟な戦略ですよね。
Phrona:でも、そうなると「秩序」と「無秩序」の境界線自体が曖昧になりますね。どこまでが秩序で、どこからが無秩序なのか。
富良野:まさにその通りで、実際には完全に無秩序なタンパク質と、完全に秩序立ったタンパク質の間に、連続的なグラデーションがあるんです。ほとんどのタンパク質は、一部が秩序立っていて、一部が無秩序。しかもその「無秩序な部分」が、機能を微調整するのに重要だったりする。
Phrona:そうすると、生命って、秩序と無秩序の絶妙なバランスの上に成り立ってるんですね。
富良野:ええ。完全な秩序だけだと硬直しちゃうし、完全な無秩序だとまとまらない。そのちょうど中間、というかその両方を使い分けることで、柔軟性と安定性を両立させてる。
生命観の転換がもたらすもの
Phrona:こういう発見が積み重なっていくと、生命をどう理解するか、その哲学的な土台も変わってきますよね。
富良野:そうですね。20世紀の分子生物学は、生命を「情報処理システム」として理解しようとしてきた。遺伝子という情報がタンパク質に翻訳されて、細胞が動く。でも今見えてきてるのは、それだけじゃない。生命は情報だけじゃなくて、物理的な環境や時間的な文脈、偶然性とか揺らぎとか、そういうものも全部含めて成り立ってる。
Phrona:決定論から、もっと開かれた理解へ、って感じでしょうか。
富良野:ええ。遺伝子決定論――遺伝子がすべてを決めるっていう考え方――はもう通用しない。遺伝子は可能性を提示するけど、何が実現されるかは、その場の文脈次第。しかも、その文脈自体が動的に変化してる。
Phrona:そう考えると、生命ってすごくクリエイティブなプロセスなんですね。決まった道筋を辿るんじゃなくて、その都度、可能性の中から選びながら進んでいく。
富良野:まさに。で、これって医療とか生命工学にも影響を与えると思うんですよ。もし細胞が機械なら、部品を交換すればいいけど、実際にはそんなに単純じゃない。細胞は文脈に応じて振る舞いを変えるから、治療法も、その文脈を理解して、柔軟に対応しなきゃいけない。
Phrona:じゃあ、これからの医療は、もっと個別化されていくってことですか?
富良野:そういう方向だと思います。同じ病気でも、人によって細胞の状態や環境が違うから、同じ治療が効くとは限らない。個々の患者の「文脈」を読み取って、それに合わせた治療を設計する。
Phrona:それってすごく手間がかかりそうだけど、AIがその部分を助けてくれる可能性もありますよね。
富良野:そうなんです。AlphaFoldみたいな技術が進化すれば、個々の患者のタンパク質の状態を予測して、最適な薬を選ぶこともできるようになるかもしれない。機械が、生命の非機械的な性質を理解する手助けをしてくれる、っていう不思議な状況ですけどね。
Phrona:でも、そこには何か希望がある気がします。生命が機械じゃないって分かったことで、もっと豊かな理解が開けてくる。
富良野:僕もそう思います。機械的な生命観って、ある意味で安心感があったんですよね。すべてが予測可能で、コントロールできる、って。でもそれは幻想だった。実際の生命は、もっと豊かで、もっと複雑で、もっと美しい。そのことを受け入れることが、これからの科学の出発点なんだと思います。
ポイント整理
従来の分子生物学の中心的パラダイム「一遺伝子→一タンパク質→一機能」が、2000年代以降の研究によって崩壊しつつある。 1953年のDNA構造解明以降、遺伝子を設計図、細胞を精密な工場として理解する枠組みが支配的だったが、オルタナティブスプライシングの発見により、同一遺伝子から複数の異なるタンパク質が生成されることが明らかになった。これにより、遺伝子と機能の一対一対応という前提が根本から揺らいでいる。
ヒトゲノム計画(1990-2003年)の完了によって、ゲノムの約85%がRNAに転写されるにもかかわらず、タンパク質をコードする領域はわずか1-2%に過ぎないことが判明した。 かつて「ジャンクDNA」と呼ばれていた非コード領域の大部分が、実際には遺伝子発現の複雑な調節ネットワークを担っていることが明らかになりつつある。マイクロRNA、長鎖非コードRNA、環状RNAなど多様な非コードRNA群が、転写レベルおよび転写後レベルで遺伝子発現を制御している。
アンフィンゼンのドグマ(アミノ酸配列が立体構造を決定するという原則)にも例外が見つかっている。 ムーンライティングタンパク質は、条件次第で異なる機能を持つことができる。さらにフォールドスイッチングタンパク質(変態タンパク質)は、同じアミノ酸配列でありながら環境条件に応じて異なる二次構造・三次構造を取ることができ、「一配列→一構造」という図式を覆している。
内在的無秩序タンパク質(IDP)の発見は、タンパク質科学における革命的転換点となった。 これらのタンパク質は安定した三次元構造を持たないにもかかわらず、完全に機能的である。動的に変化する多様な立体配座を示すことで、弱い多価相互作用を通じて結合相手を素早く変更でき、局所的な微小環境の変化に適応できる。この柔軟性と多様性により、IDPは調節ハブとして機能し、シグナル経路、遺伝子発現、細胞周期を統合・調整する役割を担っている。
無秩序な領域は進化的に保存されており、偶然の産物ではなく機能的必要性から維持されている。 部分的な無秩序性は多くのタンパク質に存在し、ドメイン間の柔軟なリンカーや末端の無秩序な尾部として現れる。さらに、よく折りたたまれたタンパク質でさえ、結合親和性を微調整するために一時的な局所的無秩序と立体配座変換を必要とすることが示されており、無秩序性は従来考えられていたよりもはるかに広範囲に存在し、機能的に重要であることが示唆されている。
タンパク質の折りたたみは、アミノ酸配列だけでなく、局所的な物理化学的条件と時間にも依存する。 生細胞内では翻訳と同時に折りたたみが進行し(共翻訳的折りたたみ)、N末端がリボソームから出るとすぐに折りたたみ始める一方、C末端はまだリボソーム上で合成されている。メッセンジャRNAのコード領域へのタンパク質結合が翻訳を一時停止させることで、部分的な折りたたみのタイミングを制御し、最終的な構造に影響を与える可能性がある。これは一種の「タイマー機構」として機能している。
遺伝子を「設計図」ではなく「テキスト」として理解する新しい枠組みが必要になっている。 遺伝コードは、局所条件、利用可能な因子、時間に応じて異なる方法で解釈され、異なる結果を生み出す。DNA・RNA分子内の非コード領域の真の機能性、構造変化とタンパク質機能における無秩序の役割については、まだ多くの未解明の問題が残されているが、新しい展開から浮かび上がる全体像は、はるかに動的で複雑であり、同時に真実により近い。
AlphaFoldやGNoMEなどのAIシステムの登場により、科学の進展速度がさらに加速している。 AlphaFoldはタンパク質構造予測の精度を飛躍的に向上させ、従来数年かかっていた研究が数時間で可能になるケースも出てきている。一方、DeepMindのGNoME(材料探索用グラフネットワーク)は、わずか17日間で220万個の新しい結晶構造を予測し、そのうち38万個が安定材料として実験合成の有望候補となった。これは従来なら約800年分の知識に相当する発見である。GNoMEの予測材料のうち700個以上がすでに実験室で作成・検証されており、AIが生命科学だけでなく材料科学においても「可能性の空間」を効率的に探索できることを示している。
生命を「情報処理システム」としてのみ捉える20世紀的な還元主義から、物理的環境、時間的文脈、偶然性、揺らぎを含む統合的理解へのパラダイムシフトが進行中である。 遺伝子決定論は通用せず、遺伝子は可能性を提示するが、何が実現されるかは動的に変化する文脈に依存する。細胞は機械的に情報を実行するのではなく、ジャズセッションのように即興的に振る舞い、環境や相互作用に応じて柔軟に「演奏」している。この理解の転換は、医療や生命工学の実践にも影響を与え、個々の患者の生物学的文脈を考慮した個別化アプローチの重要性を示している。
生命と物質の両方において、「すべてが決定されている」のではなく「可能性の中から選ばれる」というプロセスが本質であることが明らかになってきた。 遺伝子があらゆるタンパク質構造の可能性を秘めているように、元素の組み合わせも無限の材料の可能性を持っている。GNoMEは人間の化学的直感を超えた5~6元素の組み合わせによる新材料を発見し、従来材料の25倍の電気伝導率を持つリチウムイオン伝導体など、技術革新の可能性を大きく広げている。AIは、この広大な可能性空間を探索し、実際に安定して存在できるものを見つけ出す強力な道具となっている。
キーワード解説
【ワトソンとクリック】
1953年にDNAの二重らせん構造を解明した科学者。この発見により遺伝情報の保存と複製のメカニズムが理解され、分子生物学の基盤が確立された
【一遺伝子→一タンパク質→一機能のパラダイム】
従来の分子生物学の中心的原則。一つの遺伝子から一つのタンパク質が生成され、それが一つの特定機能を担うという単純化されたモデル
【イントロン】
遺伝子内の非コード配列。RNAに転写されるが、最終的なメッセンジャーRNA(mRNA)からは除去される部分
【スプライシング】
mRNAからイントロンを除去し、エクソン(コード配列)を連結するプロセス。遺伝情報の切り貼り編集作業
【オルタナティブスプライシング】
同じ遺伝子から異なる組み合わせでエクソンを選択・連結することで、複数の異なるタンパク質を生成するメカニズム。「一遺伝子一タンパク質」原則を覆す現象
【ジャンクDNA】
かつてタンパク質をコードしない非機能的なDNAと考えられていたゲノム領域。現在では多くが調節機能を持つことが判明している
【ヒトゲノム計画】
1990年に開始され2003年頃に完了した、ヒトの全遺伝情報の解読を目指した国際的科学プロジェクト
【非コードRNA】
タンパク質に翻訳されないRNA分子。マイクロRNA(miRNA)、長鎖非コードRNA(lnRNA)、環状RNA(circRNA)などを含み、遺伝子発現の調節に重要な役割を果たす
【転写】
DNAの遺伝情報をRNAに写し取るプロセス
【翻訳】
mRNAの情報を読み取ってタンパク質を合成するプロセス
【アンフィンゼンのドグマ】
タンパク質のアミノ酸配列がその三次元構造を決定するという原則。クリスチャン・アンフィンゼンの実験に基づく
【三次構造】
タンパク質の全体的な三次元的配置。二次構造(αヘリックス、βシートなど)が折りたたまれて形成される
【シャペロン】
タンパク質の適切な折りたたみを補助し、不適切な凝集を防ぐ分子
【ムーンライティングタンパク質】
通常の機能に加えて、条件次第で異なる副次的機能を果たすことができるタンパク質。「月光下の副業」から命名
【フォールドスイッチングタンパク質(変態タンパク質)】
同じアミノ酸配列でありながら、環境条件に応じて異なる二次構造・三次構造を可逆的に切り替えられるタンパク質
【内在的無秩序タンパク質(IDP)】
安定した三次元構造を持たず、動的に変化する多様な立体配座を示しながら機能するタンパク質。従来の「構造が機能を決める」という原則に反する存在
【多価相互作用】
複数の結合部位を介した弱い相互作用の組み合わせ。IDPに特徴的で、素早い結合相手の変更を可能にする
【タンパク質ドメイン】
タンパク質内で独立して折りたたまれ、機能できる構造的・機能的単位
【無秩序から秩序への転換】
IDPが特定の分子と結合する際に、無秩序な状態から秩序立った構造を獲得する現象
【共翻訳的折りたたみ】
リボソーム上でタンパク質が合成される過程で、完成前から部分的に折りたたみが始まる現象
【N末端とC末端】
タンパク質のアミノ酸鎖の両端。N末端が始端、C末端が終端
【リボソーム】
細胞内でタンパク質合成を行う分子機械。mRNAの情報を読み取りながらアミノ酸をつなげる
【コード領域】
mRNA内でタンパク質のアミノ酸配列を指定する部分
【AlphaFold】
DeepMindが開発した、アミノ酸配列からタンパク質の三次元構造を高精度で予測するAIシステム。タンパク質科学に革命をもたらした
【GNoME(材料探索用グラフネットワーク)】
DeepMindが開発した、グラフニューラルネットワークを用いて新材料の安定性を予測し発見するAIシステム。220万個の新しい結晶構造を予測し、材料科学に革命をもたらした
【遺伝子決定論】
遺伝子が生物のあらゆる特徴や機能を決定するという考え方。現代の知見ではこの単純な見方は否定されている
【鍵と鍵穴モデル】
エミール・フィッシャーが1894年に提唱した酵素と基質の相互作用モデル。酵素の活性部位と基質が精密に適合するという考え方
【凸包(Convex Hull)】
材料科学において、与えられた組成で熱力学的に安定な材料を表す概念。エネルギー的に最も低い状態にある材料群を示す
【能動学習(Active Learning)】
AIシステムが自ら予測を生成し、その結果を検証してフィードバックを訓練データに組み込むことで性能を向上させる機械学習手法