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脳の「臨界性」で解き明かす記憶と学習の秘密

更新日:8月31日

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シリーズ: 知新察来


◆今回のピックアップ記事:"Brain Criticality May Hold Key to Learning, Memory, and Alzheimer's" (Neuroscience News,  2025年6月29日


私たちの脳は、一体どのようにして新しいことを学び、記憶し、日々の複雑な判断を下しているのでしょうか。これまでの脳科学は、特定の脳領域の機能や神経ネットワークの仕組みを詳しく調べてきました。しかし、最新の研究が提案する「臨界性理論」は、脳の働きを理解するまったく新しい視点を与えてくれます。


この理論によると、脳は「秩序と混沌の境界」という絶妙なバランス点で動作し、この状態を維持することで最適な学習と記憶を実現しているというのです。さらに興味深いことに、アルツハイマー病は単に神経細胞を破壊するだけでなく、この繊細なバランスを崩すことで認知機能を低下させているかもしれません。


そして、この「臨界性」という概念は、脳科学にとどまらず、社会システムや組織運営にも応用できる可能性を秘めています。民主主義、市場経済、チーム運営...これらすべてに共通する「最適な状態」の正体が、実は同じ原理で説明できるかもしれないのです。今回は富良野とPhronaのお二人と一緒に、この魅力的な理論の世界と、その広がりを探っていきましょう。




脳の最適状態とは何か?


富良野: この研究、本当に面白いんですよ。脳が最高のパフォーマンスを発揮するときって、完全に秩序立った状態でもなく、完全にカオスでもない、その境界線にあるっていうんです。物理学でいう「臨界性」という状態ですね。


Phrona: 臨界性か...砂山の例が分かりやすかったですね。砂を一粒ずつ積んでいって、まさに崩れる寸前の角度。その臨界点にあるときが一番「可能性に満ちた」瞬間なのかもしれません。


富良野: そうそう、まさにその通り。秩序がありすぎると新しい情報を受け入れにくくなるし、混沌すぎると何も学習できない。絶妙なバランスなんです。研究者のHengen博士は、これを「学習マシン」になるための条件だと表現してますね。


Phrona: でも、なんだか人生の在り方そのものみたいじゃないですか。完全に計画通りでも面白くないし、無計画すぎても何も生まれない。一番ドキドキするのは、予定調和を少し外れた瞬間かもしれません。


富良野: それは詩的な表現だけど、案外核心を突いてるかもしれませんね。この臨界性って、ミリ秒から数時間まで、どのスケールで見ても同じパターンが現れるらしいんです。つまり、脳の中で起きてることは、時間軸を変えても本質的に同じ構造を持ってる。


Phrona: スケール不変性ですね。フラクタル構造みたいな...小さな部分が全体の縮図になっている。私たちの「体験」って確かにそうかもしれません。一瞬の印象が一日の気分を決めることもあるし、一日の過ごし方が人生の方向を決めることもある。


病気が奪うもの


富良野: ここからが重要なんですが、アルツハイマー病について新しい視点を提示してるんです。従来は、特定の脳領域が損傷を受けるとか、タウ蛋白が蓄積するといった局所的な問題として捉えられてきました。


Phrona: でも、この理論だと違うんですよね。病気は脳の「臨界性を維持する能力」そのものを破壊するということですか。


富良野: その通りです。タウ蛋白の蓄積が直接的に臨界性を乱すことが示されているそうです。つまり、神経細胞が死ぬ前に、すでに脳の最適な動作状態が崩れ始めているということになります。


Phrona: それって、なんだか恐ろしくもあり、希望的でもありますね。恐ろしいのは、症状が出る前にすでに何年も前から脳の調子が狂い始めているということ。でも希望的なのは、早期に発見できれば対処の可能性があるということですよね。


富良野: まさにそこなんです。従来の診断では、患者さんが「普通に見える」段階では何も分からなかった。でも脳は実は、失われた機能を補うために必死に働いて、表面上は正常に見せていたんです。エンジンに例えると、まだ動いてるけど、より多くの燃料を消費して、より多くの熱を発しているような状態。


Phrona: 脳の「がんばり」が見えない部分で起きているんですね。でも、そのがんばりには限界がある。そして限界を超えたとき、ようやく症状として現れる。その頃にはもう...


富良野: そういうことです。でも逆に言えば、fMRIのような技術で臨界性を測定できれば、症状が出る何年も前に変化を捉えられる可能性があります。血液検査と組み合わせれば、かなり早期の診断ができるかもしれません。


睡眠という魔法


Phrona: 睡眠の話も面白かったです。なぜ眠らなければならないのか、という根本的な問いに対する新しい答えですよね。


富良野: そうですね。起きて活動していると、どうしても脳は臨界性から少しずつずれていってしまう。睡眠は、その状態をリセットして、再び最適な臨界状態に戻すリセットボタンの役割を果たしているという仮説です。


Phrona: だから、よく眠った朝は頭がすっきりして、新しいアイデアが浮かびやすいんでしょうか。睡眠不足が続くと、なんだか思考が鈍くなる感覚、ありますもんね。


富良野: 研究では、慢性的な睡眠不足がアルツハイマーのリスクを高めることも分かってきています。これまでは相関関係として知られていましたが、臨界性理論なら因果関係も説明できそうです。


Phrona: マウスの実験で、アルツハイマーの症状があるマウスでも、睡眠を改善することで学習能力が向上したんですよね。希望が持てる話です。


富良野: 集中的な睡眠療法によって臨界性を回復させる治療法の可能性も見えてきています。薬物治療だけでなく、睡眠という自然なプロセスを活用した介入ができるかもしれません。


Phrona: でも考えてみると、現代社会って睡眠を軽視しがちですよね。「寝る間も惜しんで」とか「睡眠時間を削って」なんて美徳のように語られることもある。でも実際は、脳の健康にとって睡眠は交渉の余地のない必須条件なのかもしれません。


脳を超えて:社会システムの臨界性


Phrona: ところで、この臨界性って、脳だけの話じゃないような気がしてきました。社会や組織にも当てはまりませんか?


富良野: おお、それは面白い視点ですね。確かに、民主主義なんてまさに臨界性のバランスかもしれません。完全に統制された独裁制では新しいアイデアが生まれにくいし、完全な無秩序では何も決められない。


Phrona: 市場経済もそうですよね。適度な規制と自由競争のバランス。完全な計画経済は革新性に欠けるし、完全な自由放任では格差や不安定性が生まれる。


富良野: 興味深いのは、社会も脳と同様にスケール不変性を持っていることですね。個人レベルの自由と規律、組織レベルの創造性と統制、国家レベルの民主主義と法治主義...どの階層でも同じような臨界性のバランスが求められている。


Phrona: でも社会の場合、脳と違って複数の「局所最適解」があるんじゃないでしょうか。日本型の資本主義、北欧の社会民主主義、アメリカの自由市場主義...どれもそれなりに機能している別々の臨界点というか。


富良野: それは鋭い指摘ですね。脳は比較的単純な物理システムに基づいているけれど、社会システムはもっと複雑で、複数の安定した均衡点を持っている。そして一度ある状態に落ち着くと、そこから抜け出すのは困難になる。


Phrona: だからこそ、社会には定期的な「リセット」メカニズムが必要なのかもしれませんね。選挙、世代交代、制度改革...これらは睡眠のように、システムを最適な状態に戻す機能を果たしているのかも。


富良野: 技術革新も興味深い要素です。インターネットやAIのような新技術は、既存の局所最適解を不安定化させ、新しい臨界点の出現を促しているのかもしれません。ただし、変化が急激すぎると社会全体が混沌に陥るリスクもある。


組織運営への示唆


Phrona: 職場のチーム運営なんかでも、この考え方は使えそうですよね。完全にトップダウンでも、完全にボトムアップでも、なかなかうまくいかない。


富良野: そうです。心理的安全性と適度な緊張感、創造性と実行力...これらのバランスポイントを見つけることが、チームの学習能力や適応能力を最大化するのかもしれません。


Phrona: 面白いのは、測定の可能性ですよね。脳の臨界性がfMRIで測定できるように、組織や社会の臨界性も何らかの指標で評価できるようになるかもしれません。


富良野: 多様性指標、意思決定プロセスの効率性、イノベーションの頻度、システムの安定性...これらを組み合わせて「社会の健康度」を測る手法が開発できれば、より良いガバナンス設計につながるでしょうね。


Phrona: でも一方で、これって少し怖い面もありませんか。「最適な社会状態」を科学的に定義できるようになったとき、それを誰がどう使うのか。多様性や個人の自由を犠牲にして「効率性」だけを追求する危険性もありそうです。


富良野: 確かに。技術は常に両刃の剣ですからね。でも、少なくとも「完全な統制も完全な自由放任も最適ではない」という視点は、極端なイデオロギーに対する健全な抑制になるかもしれません。


未来への可能性


富良野: この理論が面白いのは、個人差の説明にも使えそうなところです。生まれたときから臨界性に近い子供は、より良い学習者になる可能性が高いという仮説もあります。


Phrona: それって、いわゆる「才能」の正体の一部を説明してくれるかもしれませんね。でも同時に、環境や教育によって臨界性を改善できる可能性もあるということですよね。


富良野: そうです。研究者は、芸術的な才能を持つ人は、創造性に関わる脳領域で特に臨界性が高いかもしれないと推測しています。まだ試していない分野でも、その人の潜在的な才能が臨界性から読み取れる可能性もある。


Phrona: でも、測定できるものを測定することと、その人の価値や可能性を決めつけることは別ですよね。臨界性は確かに学習に重要かもしれないけれど、人間の豊かさはそれだけでは測れないはずです。


富良野: その通りです。そして、この理論の本当の価値は、脳科学から社会科学まで、異なる分野をつなぐ統一的な視点を提供してくれることかもしれません。複雑系科学の新しい地平が開けそうな予感がします。


Phrona: 最終的には、私たち一人ひとりが、自分の人生においても、所属する組織においても、より良い「臨界状態」を見つけていくことが大切なのかもしれませんね。完璧な秩序を求めすぎず、混沌を恐れすぎず、その境界で生きていく知恵を身につけること。




ポイント整理


  • 臨界性理論の核心

    • 脳は秩序と混沌の境界である「臨界状態」で最適に機能し、この状態で最高の学習・記憶・情報処理能力を発揮する

  • アルツハイマー病の新たな理解

    • 単なる神経細胞の死滅ではなく、脳の臨界性維持能力の破綻が認知機能低下の根本原因である可能性

  • 早期診断の可能性

    • fMRI技術により臨界性を測定することで、症状出現の何年も前に脳機能の異常を検出できる可能性

  • 睡眠の重要性

    • 起きている間に臨界性から逸脱した脳を、睡眠が最適状態にリセットする機能を持つ

  • 社会システムへの応用

    • 民主主義、市場経済、組織運営なども臨界性の概念で理解でき、複数の局所最適解が存在する

  • 測定可能性

    • 脳だけでなく、社会や組織の「健康度」も臨界性の観点から定量評価できる可能性

  • 統一的視点

    • 脳科学から社会科学まで、異なる分野を貫く新しい理論的枠組みとしての可能性



キーワード解説


【臨界性(Criticality)】

物理学用語で、秩序と混沌の境界状態。脳科学では、最適な情報処理能力を発揮する脳状態を指す


【スケール不変性】

ミリ秒から時間まで、どの時間スケールで観察しても同様のパターンが現れる性質


【タウ蛋白】

アルツハイマー病で脳内に蓄積する異常蛋白質。臨界性を直接的に破綻させることが判明


【fMRI(機能的磁気共鳴画像法)】

脳活動をリアルタイムで測定する技術。臨界性の定量化に活用可能


【局所最適解】

全体最適ではないが、その周辺では最も良い状態。社会システムでは複数存在する可能性


【経路依存性】

過去の選択や偶然が現在の状態を決定し、他の選択肢への移行を困難にする現象


【複雑系科学】

多数の要素が相互作用する複雑なシステムの振る舞いを研究する学問分野



本稿は近日中にnoteにも掲載予定です。
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