苦しみをどう受け止めるか? ──ショーペンハウアーとニーチェの人生観対決
- Seo Seungchul

- 8月31日
- 読了時間: 11分
更新日:9月6日

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事:Joshua Foa Dienstag "Schopenhauer vs Nietzsche: The meaning of suffering" (Institute of Art and Ideas, 2021年4月30日)
概要: 苦しみに対するショーペンハウアーとニーチェの相反する哲学的アプローチを比較分析し、悲劇への応答としての現代的示唆を探る
「もし幸せな人がこの地上にいるなら、なぜ彼らは路上で喜びを叫び、幸福を宣言しないのか?」ルーマニアの哲学者チオランのこの言葉は、人生に潜む苦しみの普遍性を鋭く突いています。
技術が進歩しても、私たちが根本的に幸せになったとは言い難い現実があります。なぜ苦しみは消えないのでしょうか。そして、この避けられない苦しみに対して、私たちはどのような態度を取ればよいのでしょうか。
19世紀ドイツの二人の哲学者、アルトゥール・ショーペンハウアーとフリードリヒ・ニーチェは、この根本的な問いに対して正反対の答えを示しました。師から弟子へと受け継がれた思想が、やがて激しい対立へと発展する知的ドラマ。そして彼らの議論は、現代においてもフランクルや仏教思想と共鳴し合いながら、私たちに豊かな選択肢を提供しているのです。
時間意識という呪い
富良野:ショーペンハウアーの洞察で特に印象的なのは、人間と動物の違いを時間意識に求めたことです。すべての生き物は身体的な苦痛と快楽を感じるけれど、動物は過去や未来を知らないから「心配や不安、そして苦悩から解放されている」と。
Phrona:それってすごく現代的な問題ですよね。私たちは変えられない過去を後悔し、滅多に実現しない未来への希望を抱きます。ルソーから発展した議論らしいですが、意識が人生の苦痛を倍増させても快楽は増やさない、という指摘が鋭いです。
富良野:愛は色褪せ、友人は死に、かつて満足をもたらした成果や所有物も私たちを満足させなくなる。「時間とは、それによってすべてが私たちの手の中で無に帰し、すべての真の価値を失うもの」という表現が心に刺さります。
Phrona:愛について希望したり、その消失を後悔したりする時間と、実際にその快楽を体験する時間を比べてみる、という例が分かりやすいですね。動物は絶対にそんなことしません。「人間の人生は何らかの間違いに違いない」って結論も、極端ですが理解できます。
富良野:意識的な心を「常に満たす必要があるが決して満杯になることのない穴の開いた容器」と表現したのも秀逸ですね。ショーペンハウアーにとって、この状況への唯一の対処法は、ストア派のように欲望を制限することでした。
「防火室」での避難生活
Phrona:欲しがるものが少なければ、それを失ったり最初から得られなかったりしても苦しみは少ないです。人生は地獄ですが「防火室」を建てて、その拷問をやり過ごすことができる。「諦観は相続財産のようなもので、その所有者をあらゆる心配や不安から解放する」という言葉もあります。
富良野:でも、これをニーチェは受動性とニヒリズムへの処方箋だと批判したんです。ショーペンハウアーとその弟子たちが、19世紀後期のドイツ文化を自己憐憫とロマン主義に導いたと。ワーグナーのオペラがその象徴だった。
Phrona:面白いのは、ニーチェも人間の人生が苦しみに満ちていることは否定してないことですよね。時間意識によって人間が快楽よりも苦痛の多い実存的風景に直面するという、ショーペンハウアーの起源の説明も受け入れています。どんな科学や技術も変えられない条件として。
富良野:でも「防火室」を求めるのは愚者の努力だと考えた。それは全く人生とは言えない、人間の条件を否定した生き方だと。世界から隠れるのではなく、その中で生きる方法を見つけ、苦痛の存在にもかかわらず「存在への感謝」さえ見出すことが重要だと。
ニースの本屋での発見
Phrona:ニーチェが感謝への道を見つけたきっかけが、ギリシア悲劇と、ニースの本屋で発見したドストエフスキーの作品だったのが素敵ですよね。「彼らが描くものは醜い。しかし彼らがそれを描くのは、醜いものに快楽を見出すからだ」って言っています。
富良野:なぜ私たちは悲劇的なオペラを楽しむのか、ロダンの彫刻の「素晴らしい醜さ」に魅力を感じるのか、ドストエフスキーの恐ろしい登場人物たちに惹かれるのか。他人の苦しみをサディスティックに楽しんでいるわけでは全くない。
Phrona:これらの芸術作品が教えてくれるのは、ショーペンハウアーや功利主義が信じさせようとするように、苦痛と快楽を分離して数量化すべきではないということです。私たちのすべての歓びは、より深いレベルで苦しみと絡み合っています。
富良野:深みと意味は苦しみを克服することから生まれる。孤独を経験せずに真の愛を知ることはできないし、醜さなしに美を、疑いなしに信仰を理解することもできない。そして後者が意味を保つためには、これらの苦痛が快楽の中に保存されていなければならない。
「生成の歓び」という選択
Phrona:ショーペンハウアーが時間に縛られた存在の性質から隠れようとしたのに対し、ニーチェは「生成の歓び」を受け入れることを提案したのですね。人生の物語的性質を欠陥ではなく特徴として捉えます。
富良野:苦しみと死はすべての人間の運命だけれど、動物とは違って、私たちにはその体験から動物には作り得ないものを作り出す機会がある。悲劇的芸術がその道を示してくれるけれど、アーティストになる必要はない。真の愛、信仰、美に満ちた人間関係を築くには、ただ「契約の条件」を受け入れればいい。
Phrona:苦しみは私たちに起こることではなく、成長し変化する存在としての私たちの本質に結びついています。「すべての生成と成長、未来を保証するすべてのものは、苦痛を前提とする」というニーチェの言葉が核心を突いています。
富良野:未来に歓びを見出すということは、現在の破壊を意志することでもある。悲劇的芸術は、最悪の苦しみからでも美しいものを作り出せることを教えてくれる。苦痛を取り除いてくれるわけではないが、その苦しみがより大きな全体の一部になり得ることを示してくれる。
「活力ある悲観主義」とドン・キホーテ
Phrona:ニーチェにとって、これこそが有名な悲観主義者ショーペンハウアーが直視するほど強くなかった「真の悲観主義」だったのですね。「活力ある者の悲観主義」って呼んでいます。
富良野:人間が直面する永続的な苦しみを最小化しないから悲観主義的。でもそれに直面して崩れ落ちることがないから活力があると。そして、この活力ある悲観主義を体現する人物として、ニーチェが挙げたのがドン・キホーテでした。
Phrona:今日私たちが思っているような楽観主義者ではなく、セルバンテスのキャラクターは、残酷で暴力的な世界にいる活力に満ちた目的意識のある人間でした。絶え間ない苦悩、敗北、そして最終的な死にもかかわらず、自分の目標を追求し続けました。一度も立ち止まって快楽と苦痛を計算することなく。
富良野:この本は彼の苦しみの長い年代記でありながら、ニーチェは「最も陽気な本」だと信じていた。楽観主義を教えるからではなく、人生の挑戦に対する適切な態度を体現しているから。セルバンテスの同時代人たちがそれを喜劇として受け取ったのは正しかったと。
Phrona:「彼らはそれを見て、ほとんど死ぬほど笑った」という最後の一文が印象的ですね。これが、諦観でも英雄的肯定でもない、笑いという第三の道を示してるのかもしれません。
現代に響く多様な声
富良野:ショーペンハウアーとニーチェの対話を現代から振り返ると、実は他の思想とも深く共鳴してることに気づきます。たとえば、ヴィクトール・フランクルの「意味への意志」という考え方。
Phrona:ああ、アウシュヴィッツ体験から生まれたロゴセラピーですね。フランクルは苦しみそのものは避けられないけれど、それにどんな意味を見出すかは自分の自由だって言いました。これってニーチェの芸術的昇華とも通じますし、でももっと現実的で臨床的な知恵があります。
富良野:そうですね。フランクルにとって重要なのは「最後の自由」、つまりどんな状況でも自分の態度を選ぶ自由でした。ショーペンハウアーのような諦観では強制収容所の現実に対処できないし、ニーチェのような美的昇華にも限界がある。でも意味は見出せる。
Phrona:「なぜがあれば、いかにでも耐えられる」っていうニーチェの言葉をフランクルは引用してましたが、実際にはもっと具体的で実践的な智恵を提示したのですね。態度価値という概念も興味深いです。苦しみへの態度そのものが価値になるって。
仏教的な視点からの洞察
富良野:さらに興味深いのは、原始仏教の視点を加えると、また違った風景が見えてくることです。仏教の「一切皆苦」は、ショーペンハウアーの人生観と驚くほど似ている。
Phrona:ショーペンハウアー自身も仏教思想に影響を受けてましたものね。でも仏教の場合、苦しみの原因を「渇愛」つまり執着に求めて、その根絶を目指します。ショーペンハウアーの欲望抑制ともニュアンスが違います。
富良野:仏教の「無我」の洞察も面白いですよね。苦しむ主体そのものが幻想だという考え方。これはニーチェの自我構築論とも、フランクルの責任主体論とも全く違うアプローチです。
Phrona:でも現代のマインドフルネス療法なんかを見ると、実は四つの知恵が統合されてる感じがします。仏教的な気づき、ショーペンハウアー的な受容、フランクル的な意味の発見、ニーチェ的な価値の創造。
富良野:そう考えると、ディエンスタグが最後に提案した「笑い」も、実は仏教的かもしれません。禅には「大笑い」の伝統もありますし、自分の苦しみを客観視して笑い飛ばすというのは、ある種の無我の境地とも言える。
現代への示唆:四つの道具箱
Phrona:結局、現代の私たちは豊富な選択肢を持ってるのかもしれませんね。日常のストレスには仏教的に「これも無常」と受け流すこともできますし、ショーペンハウアー的に期待値を下げることもできます。
富良野:深刻な困難に直面したときは、フランクル的に意味を探求したり、ニーチェ的に創造の原動力にしたりすることもできる。どれが正しいかではなく、人生のどの段階で、どの智恵を使うかが重要なんでしょうね。
Phrona:急性期には仏教的な気づきとショーペンハウアー的な受容、探求期にはフランクル的な意味の発見、創造期にはニーチェ的な価値創造、そして日常期にはドン・キホーテのような陽気な笑い。
富良野:四者は対立するものではなく、人間の苦しみに対する智恵の宝庫として相互補完的に機能するのかもしれません。現代人の私たちは、状況に応じて最適な「苦しみとの付き合い方」を選べる贅沢な時代にいるとも言える。
Phrona:でも逆に言えば、選択肢が多すぎて迷ってしまうということもあるかもしれません。それぞれの智恵の特徴と適用場面を理解しておくことが大切ですね。
富良野:最終的には、どの思想も「苦しみは人生の一部である」ということを受け入れている。違いは、その事実にどう応答するかの戦略にある。逃避するか、昇華するか、意味づけするか、洞察するか、あるいは笑い飛ばすか。
ポイント整理
時間意識の呪い
ショーペンハウアーは人間の苦しみの根源を、動物と異なり過去を後悔し未来に希望を抱く時間意識に求めた。「時間とは、それによってすべてが私たちの手の中で無に帰し、すべての真の価値を失うもの」
防火室戦略vs翼を作る道具
ショーペンハウアーは欲望を制限し「防火室」で人生の拷問をやり過ごすことを提案。ニーチェはこれを受動的ニヒリズムとして批判し、苦しみを「新しい翼を作るためのハンマーと道具」として活用することを主張
芸術的昇華の力
ニーチェはギリシア悲劇やドストエフスキーの作品を例に、悲劇的芸術が最悪の苦しみからも美しいものを創造できることを示した。苦痛と快楽は分離して数量化するのではなく、より深いレベルで絡み合っている
生成の歓びvs時間からの逃避
ショーペンハウアーが時間に縛られた存在から逃避しようとしたのに対し、ニーチェは「生成の歓び」として人生の物語的性質を肯定的に受け入れることを提案
活力ある悲観主義
ニーチェの「真の悲観主義」は人間の永続的苦しみを最小化しないが、それに崩れ落ちることもない「活力ある者の悲観主義」。ドン・キホーテがその理想的体現者
現代的統合の可能性
フランクルの意味療法や原始仏教の洞察を加えることで、苦しみへの多様なアプローチが相互補完的に機能する可能性。急性期の受容から創造期の昇華まで、状況に応じた智恵の使い分けが重要
キーワード解説
【時間意識】
過去の後悔と未来への希望により人間の苦しみを倍増させる、動物と人間を分ける根本的特徴
【防火室(fire-proof room)】
ショーペンハウアーの比喩で、人生の地獄的苦痛から身を守る精神的避難所
【生成の歓び(joy of becoming)】
ニーチェの概念で、変化や成長の過程そのものを価値として受け入れる態度
【活力ある悲観主義(pessimism of the energetic)】
ニーチェが提唱した、苦しみを最小化せず、かつそれに屈服しない積極的な人生態度
【意味への意志】
フランクルの中心概念で、苦しみそのものではなく苦しみに対する意味づけに人間の自由を見出す考え方
【一切皆苦】
原始仏教の根本教義で、存在するものすべてが苦しみの性質を持つという洞察
【態度価値】
フランクルの概念で、変えられない苦しみに対する態度そのものが価値となるという考え方