記憶はどこに宿るのか?──粘菌が教えてくれる「心」の新しい地図
- Seo Seungchul

- 9月10日
- 読了時間: 11分
更新日:9月12日

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事:Matthew Sims "Memories without brains" (Aeon, 2025年7月11日)
概要: コロナ禍に自宅で行った粘菌実験から始まり、粘菌の記憶・学習能力と拡張認知仮説について論じた哲学エッセイ
私たちの記憶は、脳の中だけに保存されているのでしょうか。そんな当たり前に思える問いに、黄色いゼリー状の生き物が挑戦状を叩きつけています。その生き物の名前は、モジホコリ(Physarum polycephalum)。脳を持たないこの粘菌が、記憶し、学習し、さらには他の個体に記憶を伝達する能力を持つことが、近年の研究で明らかになってきました。
哲学者でありながら粘菌の研究にも取り組む研究者が、コロナ禍の自宅実験室で発見した驚きの事実。それは、記憶とは個体の内側に閉じ込められたものではなく、環境と個体の間を行き来する、もっと流動的な現象かもしれないということです。粘菌の不思議な行動から浮かび上がるのは、私たちが当然と思ってきた「記憶」の概念を根本から見直す必要性。そして、脳がなくても学習し、記憶を他者と共有できる生命の可能性です。
この発見は、人間の認知や記憶についても新しい視点を提供します。私たちがスマートフォンに頼る記憶の外部化は、実は生命にとって珍しいことではないのかもしれません。粘菌が教えてくれる記憶の秘密を、一緒に探っていきましょう。
脳なしで覚える?粘菌の驚くべき能力
富良野: この記事を読んでて驚いたのが、粘菌って脳がないのに記憶や学習ができるっていう話です。普通に考えると、記憶って脳の中の神経回路に蓄えられるものじゃないですか。
Phrona: そうですね。でも、よく考えてみると、記憶って何なのかっていう根本的な問いがあるんじゃないでしょうか。私たちは無意識に、記憶=脳の中のデータベースみたいに思っているけれど、本当にそれだけなのかな。
富良野: この粘菌のモジホコリっていうのは、迷路の最短経路を見つけたり、有害な刺激に慣れたりできるそうなんです。しかも、その「記憶」を他の個体と共有することさえある。これ、僕らの記憶の常識を覆しませんか?
Phrona: 記憶の共有って、すごく興味深いですね。人間だって、親から子へ、先生から生徒へ、知識や経験を伝えていくけれど、それは言葉や文字を通してですよね。でも粘菌の場合は、もっと直接的というか、身体的な共有がある。
富良野: そうそう。記事によると、訓練された粘菌と未訓練の粘菌を一時的に融合させると、未訓練だった方も学習済みの反応を示すようになるんです。これって、記憶が個体を超えて移動しているってことでしょう?
Phrona: それって、記憶の「所有者」は誰なのかっていう問題も出てきますね。私たちは普通、自分の記憶は自分のものだと思っているけれど、粘菌の世界では記憶がもっと共有財産みたいな感じなのかしら。
環境に刻まれた記憶の痕跡
富良野: もう一つ面白いのが、粘菌が移動した跡に残すスライムトレイルの話です。これが一種の記憶装置として機能しているっていう研究結果があるんですよ。
Phrona: スライムトレイル?それってつまり、粘菌が通った道に何かを残していくってことですか?
富良野: はい。粘菌は移動するときに細胞外スライムという物質を分泌するんです。で、このスライムがある場所は、すでに探索済みで食べ物が少ない可能性が高い。だから、他の粘菌がそれを発見すると、その場所を避けて別のルートを探すんです。
Phrona: なるほど。それって、環境そのものが記憶の媒体になっているってことですね。私たちが道路標識を見て道を覚えるのと似ているかも。でも、道路標識は人間が意図的に設置するものだけど、粘菌の場合は自然に記録が残っていく。
富良野: そうなんです。しかも興味深いのは、このスライムを残した個体と、それを利用する個体が必ずしも同じではないということ。つまり、記憶の「書き込み」と「読み取り」が異なる個体によって行われる可能性がある。
Phrona: それは確かに私たちの記憶観を揺さぶりますね。普通、記憶って個人的な経験の蓄積だと思っているけれど、粘菌の世界では記憶がもっと社会的というか、共同体的なものなのかもしれない。
「拡張された認知」という新しい視点
富良野: この現象を説明するために、記事では「拡張認知仮説」という考え方が紹介されているんです。これは、認知プロセスが脳や身体の境界を超えて、環境にまで拡張されているという理論ですね。
Phrona: 拡張認知って、具体的にはどういうことなんでしょう?
富良野: 例えば、僕らがスマートフォンに電話番号を保存して、それを思い出すときに使うじゃないですか。この場合、記憶の一部はスマートフォンの中にあって、僕らの認知プロセスはスマートフォンと連動して動いている。つまり、認知が脳だけでなく、外部のツールにも拡張されているという考え方です。
Phrona: ああ、それはよく分かります。私たちも日常的に、ノートに書いたメモや、本の中の情報を自分の記憶の延長として使っていますもんね。でも、粘菌の場合は、もっと根本的な次元でそれが起きているっていうことですか?
富良野: そうですね。人間の場合は意識的にツールを使って記憶を外部化しているけれど、粘菌の場合は、存在すること自体が環境との情報のやり取りになっている。生きることと記憶することが、もっと一体化しているような印象を受けます。
Phrona: それって、記憶っていうものの境界線がすごく曖昧になってきますね。私たちが「ここからここまでが私の記憶」って線引きしていることが、実はとても人工的なことなのかもしれない。
学習なしの記憶は可能なのか
富良野: 記事で特に興味深かったのが、「学習なしの記憶」という概念なんです。普通、記憶って経験から学習して形成されるものだと思いがちですが、粘菌の場合はそうじゃないケースがある。
Phrona: 学習なしの記憶って、どういうことなんでしょう?ちょっと矛盾しているような気もするけど。
富良野: 例えば、スライムトレイルの場合、それを残した個体は特別な学習プロセスを経ているわけじゃないんです。単に移動の副産物として分泌物を残しているだけ。でも、それを発見した別の個体にとっては、重要な記憶情報になる。
Phrona: ああ、なるほど。つまり、情報を残す側は意図的に記憶を作ろうとしていないけれど、受け取る側にとってはそれが記憶として機能するということですね。
富良野: まさにそうです。そして、記憶の融合の例でも、未訓練の粘菌は直接的な学習経験なしに、訓練済みの粘菌から記憶を受け取ることができる。これって、私たちが本や動画から知識を得るのと、ある意味似ているかもしれませんね。
Phrona: でも、本や動画の場合は、やっぱり言語や映像を通した間接的な伝達ですよね。粘菌の場合は、もっと身体的で直接的な感じがします。まるで記憶そのものが物質として移動しているみたい。
富良野: そこが非常に興味深いところで、記憶とは情報なのか、それとも物質的な何かなのかという根本的な問いにもつながってきます。
人間の記憶を見直すきっかけ
Phrona: こうして粘菌の記憶について考えていると、私たち人間の記憶についても新しい見方ができそうですね。例えば、家族の写真を見て思い出すとき、その記憶は私の脳の中にあるのか、それとも写真との相互作用の中に生まれるのか。
富良野: いい指摘ですね。写真や音楽、香りなんかが記憶を呼び起こすとき、それらは単なるきっかけなのか、それとも記憶の一部なのか。粘菌の例を見ていると、後者の可能性も十分ありそうです。
Phrona: それに、私たちの文化や言語だって、ある意味では集合的な記憶装置ですよね。一人ひとりが覚えているわけじゃないけれど、社会全体として知識や経験が蓄積されて、次の世代に伝わっていく。
富良野: そうですね。そう考えると、粘菌がやっていることって、私たちが文化的にやっていることの、もっと基本的なバージョンなのかもしれません。個体の境界を超えた情報の共有と蓄積。
Phrona: ただ、一つ気になるのは、この拡張認知の考え方を受け入れると、私たちの自我とか個人性っていう概念にも影響してくるんじゃないでしょうか。記憶が私たちのアイデンティティの重要な部分だとすると、その記憶が環境に拡張されているなら、私たち自身も環境に拡張されているってことになりますよね。
富良野: それは確かに大きな問題ですね。でも、考えてみると、私たちはすでにそういう状況にあるのかもしれません。スマートフォンなしでは不安になったり、インターネットに接続できないと困ったりするのは、すでに私たちの認知や記憶がそれらのツールと一体化しているからかもしれない。
記憶の新しい地図を描く
Phrona: 粘菌の研究から見えてくるのは、記憶っていうものがもっと流動的で、境界のない現象だということですね。脳という器の中に入っている固定的なデータではなくて、生き物と環境の間を流れている情報のようなもの。
富良野: そうですね。そして、その情報は個体を超えて共有されることもある。これって、記憶を個人の財産のように考える私たちの常識を変える可能性がありますよね。記憶がもっと公共的なもの、コミュニティのものだという見方。
Phrona: それはとても美しい考え方だと思います。一人ひとりの経験や記憶が、他の人たちと共有されて、大きな知識の織物を作っていく。粘菌のスライムトレイルみたいに、私たちも日々の生活の中で、見えない記憶の痕跡を残しているのかもしれませんね。
富良野: ただ、従来の認知科学や心理学では、記憶は学習した個体のものであり、脳内のシナプス可塑性に基づくものだという見方が主流なんです。粘菌の研究結果は、その前提を根本から問い直すことになる。科学のパラダイムシフトって、こうやって起こるんでしょうね。
Phrona: でも、パラダイムシフトが起こるのには時間がかかりますよね。特に、記憶や意識といった、私たちの存在の核心に関わる問題では、従来の考えを手放すのは簡単じゃない。
富良野: そうですね。でも、粘菌みたいな単純に見える生き物が、こんなに複雑で興味深い現象を見せてくれるのは、自然の奥深さを感じさせます。私たちがまだ知らないことが、本当にたくさんあるんだろうなって思います。
ポイント整理
粘菌の驚異的能力
脳を持たないモジホコリ(Physarum polycephalum)が記憶、学習、迷路解決、さらには記憶の個体間伝達を行うことが実験で確認されている。これは従来の脳中心的な認知理論に挑戦を突きつける発見である。
環境に刻まれる記憶
粘菌が移動時に分泌する細胞外スライムが、探索済み領域を示す記憶装置として機能する。このスライムトレイルを他の個体が検知し、効率的な経路選択に活用することで、記憶が環境と個体の相互作用として成立している。
拡張認知仮説の実証
人間がスマートフォンやノートを記憶の延長として使うように、粘菌も環境構造を認知プロセスの一部として活用している。これは認知が脳や身体の境界を超えて環境に拡張されるという哲学的理論の生物学的証拠となっている。
学習なしの記憶現象
粘菌の記憶には二つの革新的パターンがある。一つは、記憶痕跡を残した個体が特別な学習を経験していないケース。もう一つは、未訓練の個体が他の個体との一時的融合により、直接的学習経験なしに記憶を獲得するケース。
記憶の所有権問題
従来の記憶概念では、記憶は学習した個体に帰属するとされてきた。しかし粘菌の例では、記憶痕跡を作成した個体と利用する個体が異なる場合があり、記憶の所有者が誰なのかという根本的問題が浮上している。
記憶と学習の分離
一般的に記憶は学習の結果として形成されると考えられているが、粘菌研究は記憶と学習が必ずしも不可分ではないことを示している。これは生物学的記憶の定義そのものを再考する必要性を提起している。
人間社会への示唆
粘菌の記憶現象は、人間の文化的知識伝承、言語、文字、デジタル技術を通じた記憶の外部化と共通点を持つ。記憶を個人の内的財産ではなく、社会的・環境的に共有される現象として捉え直す視点を提供している。
キーワード解説
【モジホコリ(Physarum polycephalum)】
脳を持たない単細胞の粘菌で、迷路解決や学習能力を示す
【細胞外スライム】
粘菌が移動時に分泌する物質で、記憶痕跡として機能する
【拡張認知仮説(HEC)】
認知プロセスが脳を超えて身体や環境に拡張されるという理論
【慣化学習】
繰り返し刺激への反応が減少する最も基本的な学習形態
【記憶作成(memory making)】
記憶の保存と想起が密接に連動する外部化された記憶プロセス
【学習なしの記憶】
直接的な学習経験なしに獲得される記憶現象
【記憶転移】
個体間で記憶が物理的接触により伝達される現象
【空間記憶】
ナビゲーションや経路選択に関わる記憶の種類
【非陳述記憶】
意識的な想起を伴わず行動で表現される記憶
【シナプス可塑性】
神経細胞間の結合強度変化による記憶保存の従来理論