top of page

誰かが語らなければ、古い物語が語り続ける――グランドナラティブの闘技場を、誰が設計するのか

シリーズ: 知新察来


◆今回のピックアップ記事:Ayşe Zarakol, "A world without certainty needs its own grand narratives" Institute of Art and Ideas, 2026年4月8日)

  • 概要:ポストコロニアル批判の蓄積にもかかわらず、ユーロセントリックなグランドナラティブが「ゾンビ」として生き残り続ける逆説を指摘。その原因として、学術制度における方法論の偶像化とマクロ歴史の軽視を挙げ、批判に代わる「より良いグランドナラティブの構築」を提唱する。新たなナラティブの条件として、現在主義の回避・概念の歴史的旅可能性への注意・反省性と限界の透明性の三点を示す。



「歴史を語る大きな物語は、西洋中心的だ」——そう批判すること自体は、もう珍しくありません。ポストコロニアル研究の蓄積は、確かに膨大です。でも、ひとつの疑問が残ります。それだけの批判があったにもかかわらず、私たちが世界を理解するときの「大きな枠組み」は、なぜあまり変わっていないように見えるのでしょうか。


ケンブリッジ大学の国際関係論研究者、アイシェ・ザラコルは、その問いに正面から向き合います。批判は、古い物語を殺さない。批判で解体したつもりになった物語が「ゾンビ」として生き残り、誰も気づかないうちに空白を埋め続ける——それがザラコルの診断です。


富良野とPhronaは、その逆説を入口に、「では誰が、どうやって新しい物語を作るのか」という問いへ踏み込んでいきます。そして最後には、複数のグランドナラティブが競い合う「闘技場」の設計という、答えのまだない問いの前に立つことになります。


 


ゾンビは批判で死なない


富良野: ザラコルがこの論考で最初にやっていることって、少し逆説的なんですよね。「大きな歴史の物語——グランドナラティブと言いますが——は西洋中心的だ」という批判は、学術的にはもう当たり前になっている。でも、批判が積み上がれば積み上がるほど、古い物語は消えるどころかしぶとく生き続けている、という観察から始まる。


Phrona: 批判が成功しているはずなのに、批判対象が消えていない、ということですよね。それ自体が不思議な現象ですよ。


富良野: ザラコルはそれを「ゾンビ的常識」という言葉で表現していて。批判によって知識人の間では「解体された」とみなされた物語が、一般的な常識や教科書の中ではゾンビのように生き残って、誰も自覚しないまま空白を埋め続ける、という。


Phrona: 解体されたと思っていたのは、批判した側だけだった、という話ですよね。批判の外側では、何も変わっていなかった。


富良野: しかも面白いのは、批判の蓄積自体がある種の「小さな物語」——特定の地域や時代の一次資料を掘り下げた細かい研究——を大量に生んでいるんです。それ自体は大事な仕事なんだけど、ザラコルはそれだけでは足りない、と言う。


Phrona: なぜ足りないんでしょう。積み重なれば、いずれ全体像が変わるんじゃないかという気もするんですが。


富良野: 一次資料を読むときって、どうしてもなんらかの「大きな枠組み」を前提にしていないと、読めないんですよね。文脈がないと、事実が事実として立ち上がってこない。その枠組みが、批判されたはずの古い物語のままだったら、いくら細かい研究を積んでも、解釈の地図は変わらない。


Phrona: ああ、そういうことか。細部が変わっても、大きな見取り図が変わらなければ、細部の意味が変わらない。批判は解体を宣言できるけれど、解釈の枠組みは書き換えられない、ということですよね。


富良野: ザラコルが「より良いグランドナラティブを作れ」と言うのは、そこからです。批判で解体したつもりになっている間に、解釈の空白はゾンビが埋め続けている。だったら、ゾンビに代わるものを書くしかない、という。


Phrona: 批判から建設へ、という話ですよね。ただ、それを言うのは簡単でも、実際に書くのは全然別の話で。そこにどんな困難があるのかというのが、次の問いになりますよね。



方法論という信仰


富良野: なぜグランドナラティブを書く人がいなくなったか、という問いに、ザラコルはかなりはっきり答えていて。学術制度の構造的な問題だ、と言い切っているんですね。


Phrona: 制度の問題というのは、たとえばどういうことですか。


富良野: 一つは評価軸の話で。一次資料——直接の史料や文書——を掘り起こす研究が「正統な学術」とされていて、二次資料を統合して大きな物語を描く仕事は格下扱いされやすい。それに加えて、研究を評価する仕組みが「方法論の新しさ」に偏っていて、内容の貢献よりも、新しい分析技術を開発したかどうかの方が評価される傾向がある。


Phrona: なんで方法論の新しさの方が大事になるんでしょう。内容の方が本来は重要なはずで。


富良野: 専門が違う研究者同士が互いの仕事を評価しなければならないとき、共通言語として使えるのが「方法論」なんですよね。内容の判断は専門外だと難しくても、手法の妥当性なら評価できる。


Phrona: 評価のしやすさが、評価の基準になっていった、ということですよね。PhD学生が「私の方法論はマクロ歴史の統合です」とは言いにくい雰囲気、想像できますね。


富良野: そこにザラコルが、もう一つ逆説を見つけていて。一次資料を偏重することが、ユーロセントリズムをむしろ再生産することにもなりかねない、というんですね。


Phrona: え、それはどういうことですか。批判的な研究者がアーカイブをしっかり読む、というのはユーロセントリズムへの対抗のはずで。


富良野: 史料の分布が均等じゃないんですよね。どの記録が残っているか、どのアーカイブが整備されているか、それ自体が権力の歴史を反映している。


Phrona: ああ。記録を残せた側の資料の方が、圧倒的に豊富で整備されている。だから「一次資料を丁寧に読め」という要請が、記録の豊富な側の研究を厚くすることになる、ということか。


富良野: 善意の方法論が、意図しない効果を持つ、ということですね。ただザラコルは「だから一次資料はダメだ」とは言わなくて。ミクロとマクロは代替関係じゃなくて、補完関係だ、という話に戻っていく。


Phrona: 細かい研究を続けながら、同時に大きな物語も書く。どちらも必要だという立場ですよね。ただ、じゃあ誰が書くのか、という問いが残りますよね。



書く者が、何を書くかを決める


Phrona: ザラコルって、「より良いグランドナラティブを作れ」と言いながら、実際に自分でそれを書いているんですよね。「Before the West」という本で、西洋が台頭する前の東アジアの国際秩序を描こうとした。


富良野: 「批判だけして自分は書かない」という知的な臆病を、実践として拒否している、ということですよね。その点では一貫していると思う。


Phrona: でも、一人の学者が書いたグランドナラティブが、ゾンビに代わる何かになれるんでしょうか。ゾンビが生き続けているのは、一人の天才がいなかったからじゃなくて、制度の問題だったはずで。


富良野: そこは、僕も少し引っかかりがあって。ザラコルが個人の知的誠実さに期待している部分と、制度批判の部分が、論考の中で必ずしも接続されていない気がするんですよね。


Phrona: 制度を批判しておきながら、でも個人が書け、というのは、ある種の緊張関係がありますよね。書きたくても書けない状況に人を追い込んでいるのが制度なのに、そこを個人の問題として処理できるのかどうか。


富良野: ただ、ザラコルが「誰が書くか」という問いに、内容の問いとしても引っかかっているのを感じるんですよね。


Phrona: 内容の問いとして、というのはどういう意味ですか。


富良野: ユーロセントリズム批判の核心の一つは、「西洋の学者が書いたから、西洋を中心にした物語になった」という点ですよね。だとすれば、誰が書くか、どこから見るかは、方法論の問いである前に、内容を規定する問いでもある。非西洋の視点、非西洋のアーカイブ、非西洋の概念枠組みを持つ人が書くことで、そもそも違う大きな物語が出てくる可能性がある。


Phrona: 書き手の多様性が、方法論的な必要条件でもある、ということですよね。ただ——非西洋の研究者も、西洋の学術制度の中で訓練を受けて、同じインセンティブ構造の中で動いているわけで、そこはすんなりはいかない気がします。


富良野: そこが厄介なところで、制度の外側に出ないと変わらない部分と、制度の内側でしか影響力を持てない部分が、両方あるんですよね。ザラコルは論考の中でそこに踏み込んでいない。問いを立てながら、答えは開いたまま残している。


Phrona: 「誰が書くか」だけじゃなくて、「どういうプロセスで書くか」という問いが、もっと根本的かもしれないですよね。一人で書くのか、集団で書くのか、誰と対話しながら書くのか。


富良野: 委員会が書いたグランドナラティブというのも、それはそれで最大公約数的な凡庸さに陥りやすいというか。個人の視点の鋭さと、多様性の担保を、どう両立するかという問いになりますよね。



闘技場は設計できるか


Phrona: ここまで話してきて、「グランドナラティブを作れ」という問いの前に、もう一つ問いがある気がしてきたんですよね。ナラティブをどう作るか、より先に、ナラティブが出会う場をどう設計するか、という。


富良野: 闘技場の問いですよね。一つの「正しいナラティブ」を作るんじゃなくて、複数のナラティブが対話し、競合し、ぶつかれる空間を先に設計する、という発想。


Phrona: シャンタル・ムフという政治哲学者が「アゴニズム」という概念を使っていて——アゴン、つまり「闘技」という意味ですが——政治的な空間に必要なのは合意への収斂ではなくて、正当な対立の場だ、という考え方なんですね。その発想をグランドナラティブに当てはめると、どうなるか、と思って。


富良野: ナラティブが一つの答えに向かって収斂するんじゃなくて、対立しながら共存する空間。それは面白い視点だと思う。ただ、闘技場には当然、ルールが必要になりますよね。


Phrona: そこが難しいところで、ルールを設定する人が実質的に闘技場を支配することになる。誰が審判をするのか、という問いが残る。


富良野: しかも、審判不在にすると今度は、権力を持つナラティブが事実上支配してしまう。完全にフラットな競合というのは、権力差を無視することにもなりかねない。


Phrona: じゃあ、闘技場自体は設計できないのかというと、そうとも言い切れなくて。学術制度のような既存の審判装置と比べたとき、もっと開かれた仕組みは考えられる気がするんですよね。


富良野: ザラコルが求める条件——反省性と限界の透明性——を、ナラティブの提示の仕方に組み込む、というのは一つの方向性かもしれない。これは誰の視点で、何を前提にしていて、どこに限界があるかが可視化された状態でナラティブが並んでいる空間。


Phrona: 展示館じゃなくて、それぞれが立場を明示した上で議論する法廷みたいな場、ということですよね。ただ、判決が出ない法廷。


富良野: 判決が出ない法廷——それは逆に言えば、何かが決まらない不完全さを、あえて残す設計でもある。ゾンビが生き続けてきたのは、「何かを決めなければならない」という空白を埋めるためだったとすれば、その空白を埋めないという姿勢自体が、一種の対抗策になるのかもしれないけれど。


Phrona: 空白を埋めないことを、耐えられるか、という話でもありますよね。人は物語を必要とする生き物で、不確かさに長くは耐えられない。だからゾンビが生き続けるわけで。


富良野: ザラコルの論考のタイトルが「確実性なき世界には、大きな物語が必要だ」なのは、そこを正直に認めているからだと思うんですよね。物語への需要はある、でもどんな物語がいいかは問い続けなければならない。その両方を抱えたまま設計を考えていく、ということなんでしょうね。


 

 

ポイント整理


  • 批判の蓄積は解体を意味しない

    • グランドナラティブへの批判がいくら積み重なっても、代替する物語がなければ、批判された物語はゾンビとして生き続け、誰も気づかない場所で空白を埋め続ける。解体の宣言と実際の影響力の消滅は別物だ。

  • ミクロ研究とマクロ歴史は代替しない

    • 地域・時代に特化した細かい研究の蓄積は不可欠だが、それだけでは解釈の大枠は変わらない。一次資料は、何らかのマクロな背景枠組みがあって初めて意味を持つ。ミクロとマクロは競合ではなく、補完関係にある。

  • 一次資料の偏重もユーロセントリズムを再生産する

    • 史料の分布は均等ではなく、近代の権力構造を反映している。「一次資料を丁寧に読め」という要請が、記録の豊富な側——歴史的に強かった側——の研究を厚くする結果につながりうる。善意の方法論が意図しない効果を持つ。

  • 書き手の多様性は方法論的問いでもある

    • 誰が書くかは、内容を規定する。非西洋の視点・拠って立つアーカイブ・概念枠組みの違いが、そもそも異なる物語の可能性を開く。ただし非西洋の研究者も同じ学術制度の中で動いており、書き手の多様性だけで問いは解決しない。

  • より良いナラティブの三条件

    • ザラコルが提示する基準は三つ——現在主義を避ける(現在を歴史の必然的帰結として見せない)、概念の歴史的旅可能性を問う(現代の概念を過去に無批判に投影しない)、反省性と限界の透明性を持つ。いずれも「正しさ」より「誠実さ」に関わる条件だ。

  • 闘技場の設計という問い

    • 一つの「正しいナラティブ」に収斂させるより、複数のナラティブが立場を明示した上で競合・対話できる空間の設計が、別の方向として考えられる。ただし闘技場にもルールと審判が必要であり、それ自体が権力の問いになる。不確かさを埋めたいという人間の本能と、解答を保留する設計の緊張は、未解決のまま残る。



キーワード解説


【グランドナラティブ(Grand Narrative)】

歴史や社会全体を説明する「大きな物語」のこと。「西洋近代が普遍的な文明の形だ」という考え方や、「歴史は理性の進歩の過程だ」という啓蒙主義的な見方がその典型。便利な解釈の枠組みである一方、特定の視点を「当然のもの」として隠蔽する危険も持つ。


【ユーロセントリズム(Eurocentrism)】

ヨーロッパ、あるいは広く西洋の歴史・価値観・制度を世界の中心として描く見方のこと。国際関係論における「ウェストファリア体制」の語り方——17世紀のヨーロッパが国際秩序を発明した、という物語——はその典型例として批判されてきた。


【ゾンビ的常識(Zombie Common Sense)】

学術的には「批判され解体された」とみなされた考え方が、一般的な常識や教科書の中では生き続け、誰も意識しないまま認識の枠組みを規定し続ける現象。ザラコルが使う比喩で、批判の限界を端的に示す。


【マクロ歴史(Macro-history)】

特定の時代や地域に限定せず、大きな規模で歴史的構造・過程・比較を描こうとする歴史研究の様式。社会学者チャールズ・ティリーが「大きな構造、大きな過程、巨大な比較」と呼んだものに近い。細部の精密さより、全体の見取り図を描くことを重視する。


【現在主義(Presentism)】

過去の出来事を、現在の視点や価値観から解釈する傾向のこと。特に「現在の状態が歴史の必然的な帰結だ」という語り方は、現在の権力構造を正当化する効果を持ちやすい。ザラコルはグランドナラティブがこの罠に陥ることを最大の危険として警戒する。


【方法論の偶像化(Fetishization of Method)】

研究の「方法論の新しさ」が、内容の知的貢献より高く評価されるようになった学術制度の歪みのこと。新しい分析技術を開発することが評価される環境では、大きな問いを立てて二次資料を統合するマクロ歴史的な作業は格下とみなされやすい。


【アゴニズム(Agonism)】

政治哲学者シャンタル・ムフが提唱した概念。政治的空間において必要なのは合意への収斂ではなく、対立の正当な形を設計することだ、という考え方。「アゴン」はギリシャ語で闘技・競争の意味。グランドナラティブの文脈では、一つの正解に収斂させるより、複数のナラティブが競合する場を設計するという発想の基盤になる。


【歴史主義的感覚(Historicist Sensibility)】

概念や制度が特定の歴史的文脈の中で生まれたものであることを常に意識する態度のこと。現代の概念をそのまま過去に適用せず、その概念が当時の文脈でどんな意味を持っていたかを問い続ける姿勢。ザラコルが「より良いグランドナラティブ」に求める条件の一つ。



本稿は近日中にnoteにも掲載予定です。
ご関心を持っていただけましたら、note上でご感想などお聞かせいただけると幸いです。
bottom of page