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量子コンピュータの「冷やし方」が、次の覇権を決める──サプライチェーンに潜む見えない断層線




シリーズ: 行雲流水


量子コンピュータが世界を変える。そんな話は、もう聞き飽きたかもしれません。暗号を破る、新薬を発見する、気候変動をシミュレートする。約束された未来は華やかです。でも、その約束を果たすためには、ある途方もなく困難な条件があります。絶対零度に限りなく近い、マイナス273度という極低温を作り出し、維持すること。


実は今、この「冷やす技術」をめぐって、静かな地政学的競争が進行しています。量子コンピュータの性能を決めるのは、量子ビットの数だけではありません。それを安定させるための冷却装置、信号を増幅するアンプ、冷媒として使われる希少なガス——これらの部品とサプライチェーンこそが、次の技術覇権の行方を左右するかもしれない。しかも、その多くは特定の国や企業に集中しています。


今回、富良野とPhronaが話題にするのは、量子コンピュータのサプライチェーンです。冷却装置、ケーブル、アンプ、ヘリウム——それぞれの部品が持つ価値と脆弱性を紐解きながら、技術と地政学が交差する現場を覗いてみましょう。




冷やすことの途方もなさ


富良野:量子コンピュータの話って、どうしても量子ビットの数とか、エラー訂正とか、そっちに目が行きがちですよね。でもサプライチェーンを俯瞰すると、結局のところ「冷やす技術」が全部の土台になっていると思うんです。


Phrona:「冷やす技術」と一口に言っても、もの凄い冷たさなんですよね。10ミリケルビンって言われても、正直ピンと来ないですが、絶対零度がマイナス273.15度で、そこからさらに0.01度の範囲。宇宙空間よりも冷たい。


富良野:宇宙の背景放射が約2.7ケルビンですから、量子コンピュータの内部はその270分の1以下の温度ということになる。この環境を地上で作り出して、しかも安定的に維持するというのは、考えてみるとすごいことですよ。


Phrona:で、その「冷やす装置」を作れる会社が、世界でほんの数社しかないと。


富良野:希釈冷凍機(dilution refrigerator)と呼ばれる装置ですね。フィンランドのBluefors社がシェアトップで、イギリスのOxford Instruments、オランダのLeiden Cryogenicsあたりが続く。上位3社で市場の36%、BlueforsとOxford Instrumentsだけで70%以上という数字も出ています。


Phrona:その集中度って、半導体のファウンドリ、つまりTSMCみたいな状況に近いんでしょうか。


富良野:構造的には似ているかもしれません。ただ、半導体は年間数千億ドル規模の市場ですが、希釈冷凍機の市場規模は2024年時点で1億ドル強。桁が全然違う。でも、量子コンピュータを動かすには絶対に必要な装置だから、ここが止まると全体が止まる。



バリューチェーンの「高さ」と「狭さ」


Phrona:量子コンピュータのサプライチェーンって、具体的にはどんな部品で構成されているんですか。


富良野:大きく分けると6つくらいの領域があります。クライオクーラー、超伝導ケーブル、ホルミウム銅合金、HEMTアンプ、ヘリウム3、希釈冷凍機。それぞれ役割も供給構造も違っていて、面白いんですよ。バリューチェーンとして見ると、上流から下流に向かって付加価値が上がっていく構造になっています。


Phrona:クライオクーラーが冷却の入り口ですか?


富良野:はい。これは技術的には成熟している。汎用品に近いから差別化しにくく、利益率も低い。


Phrona:いわば、インフラの中のインフラということですね。


富良野:そうです。一方で、下流に行くほど技術が複雑になり、代替が効かなくなる。HEMTアンプ——高電子移動度トランジスタを使った増幅器ですね、これは量子信号を最初に増幅する部分で、ここでノイズが入ると測定精度が決まってしまう。


Phrona:N比、つまりシグナルとノイズの比率が決まる最初の関門だと。


富良野:まさに。設計も製造も評価も難しくて、代替がほぼない。付加価値が最も高い部品の一つで、供給元も限られています。


Phrona:下流に向かって付加価値が上がっていくとすると、希釈冷凍機が最大の付加価値を持つということですか?


富良野:量子コンピュータという「環境」そのものを作る装置ですから。技術の集積度が桁違いで、設計・製造・運用のノウハウが一体になっている。台数が増えるほど知見が蓄積されて、参入障壁がさらに上がります。



資源ボトルネックという別の顔


Phrona:でも、技術的な付加価値とは別の軸で、供給制約という問題がありますよね。ヘリウム3の話は特に深刻に聞こえます。


富良野:ヘリウム3は希釈冷凍機の「燃料」にあたるものです。ヘリウム3とヘリウム4を混合することで、極低温を実現する。ところが、ヘリウム3は自然界にほとんど存在しない。


Phrona:主な供給源が核兵器プログラムからのトリチウム崩壊だと聞いて、ちょっと驚きました。


富良野:年間の世界生産量が数キログラム単位なんですよ。2025年時点で、1リットルあたり2,000〜15,000ドル。グラムあたりで言えば金よりも高い。この希少資源を、北米とロシアが主に生産している。


Phrona:地政学的なカードとして使われうる、ということですね。


富良野:ウクライナ侵攻以降、ロシアからの供給が不安定になって、一部の量子プロジェクトに遅延が出たという話もあります。BlueforsがInterlune社と月面採掘の契約を結んだのは、そうした背景があってのことでしょう。2028年から10年間で、年間最大1万リットルのヘリウム3を月から調達する計画です。


Phrona:月からヘリウムを持ってくる、というのは、SF的な響きがありますけど、それが現実のビジネス契約になっているというのは……。


富良野:供給不安がそれだけ深刻だということの裏返しでもありますね。



ホルミウム銅という見知らぬ素材


Phrona:さっき富良野さんが言っていたホルミウム銅合金(HoCu₂)って何ですか?聞いたことがないんですけど。


富良野:磁気冷却に使われる素材です。技術的な付加価値は高くないけれど、供給がほぼ一国に集中している。


Phrona:つまり、技術で稼げる場所ではないけれど、「ないと困る」という意味での支配力はある。


富良野:戦略物資としての性格ですね。石油のように、保有していること自体がカードになりうる。ただ、ホルミウム銅を売ることで大きな利益を得られるかというと、それはまた別の話。


Phrona:資源の価値と、産業レントの価値は違う、ということですか。


富良野:ええ。儲けたいなら希釈冷凍機やHEMTアンプ、支配したいなら希釈冷凍機、地政学的なカードが欲しいならヘリウム3やホルミウム銅。目的によって狙う場所が変わってくる。



超伝導ケーブルという「静かな急所」


Phrona:超伝導同軸ケーブルは、どういう位置づけになりますか。


富良野:量子制御信号の通り道です。RF、つまり高周波と、極低温と、材料科学が組み合わさる領域。品質の差が性能に直結するので、見た目ほど簡単な部品ではない。


Phrona:供給元はどのあたりに集中しているんですか。


富良野:日本や英国などが主要な供給国として知られています。量子コンピュータがスケールしていくと、配線の数が爆発的に増える。千量子ビット、一万量子ビットとなったとき、どの線が信号劣化の原因か分からないという問題が必ず出てきます。


Phrona:量子版の「どこで断線してるか分からない」問題。


富良野:そうです。地味だけれど、スケール時に急所になりうる。中程度の付加価値だけれど、侮れない。



同盟関係とサプライチェーン


Phrona:レポートで印象的だったのは、同盟国との関係を繰り返し強調している点です。


富良野:フィンランドが希釈冷凍機と特殊レーザー部品、日本が青色窒化ガリウムレーザーダイオードと200mmサファイアウエハー、ドイツが超高真空チャンバーやルビジウム87——。供給元が同盟国に分散しているのは、ある意味で安心材料なんですが。


Phrona:でも、分散していることと、安定していることは違いますよね。


富良野:コロナ禍で半導体サプライチェーンが混乱したのを思い出してください。友好国であっても、一箇所に集中していれば脆弱性は残る。「同盟国との協調を深めながらも、一部の集中を解消すべきだ」という議論が出ているのは、そういう理由からです。


Phrona:アメリカ国内で希釈冷凍機の生産を始めた、という話もありましたよね。


富良野:Blueforsがニューヨーク州シラキュースに工場を拡張して、北米最大の希釈冷凍機メーカーになったというニュースです。年間20システムの生産能力、リードタイムは6〜9ヶ月。ただ、これでも需要が急増したときには追いつかない可能性がある。



量子チップはなぜ「脆弱」なのか


Phrona:量子チップ自体がバリューチェーンの中で最も脆弱と聞いたことがあります。


富良野:普通に考えると、チップが主役で、周辺機器はサポート役に見えますよね。でも量子コンピュータの場合、チップは冷凍機という環境なしには動作しない。HEMTアンプがなければ信号を読み取れない。ヘリウム3がなければ温度を下げられない。


Phrona:チップが「核」というより、周囲のインフラに依存する「果実」のような存在なんですね。


富良野:しかも、量子チップは日進月歩で世代交代していく。でも希釈冷凍機のリードタイムは半年から9ヶ月。ハードウェアの反復サイクルが12〜18ヶ月だとすると、冷却システムの調達がボトルネックになりうる。


Phrona:チップを作る側の論理と、それを動かす環境を作る側の論理が、必ずしも噛み合っていないということですか。


富良野:そのズレが、サプライチェーンの脆弱性として現れている。IBMのQuantum System TwoはBlueforsのKIDEプラットフォームを使っていますし、GoogleのWillowチップも同様の依存関係にある。冷凍機の供給が止まれば、開発が数ヶ月単位で遅れる。



新規参入者の居場所はどこか


Phrona:この構造を見ると、スタートアップが入り込む余地がなさそうに見えますが。


富良野:希釈冷凍機やHEMTアンプを正面から作ろうとしたら、資本で負けますね。でも、別の入り方がある。


Phrona:どういう方向ですか。


富良野:測定・診断・評価という横串です。HEMTアンプを作るのではなく、「このアンプは劣化している」と判定できる能力。希釈冷凍機を作るのではなく、「この冷凍機は3週間以内に異常を起こす確率が高い」と予測できる能力。


Phrona:「壊れていると断言できる」ことが価値になる。


富良野:まさにそうです。量子コンピュータの運用者にとって、冷凍機の停止は数千万円から億単位の損失。アンプの劣化は実験の再現性を崩壊させる。でも、「悪いかどうか」を客観的に言える方法が確立されていない。


Phrona:標準が存在しないから、標準を作る側に回れる可能性がある。


富良野:ミリケルビン環境でしか分からない不具合を定義して、それを測る装置やソフトウェアを作り、合否を判定する言葉に翻訳する。小さく始められて、大企業が後追いしにくい領域です。



時間軸で見た「不可欠性」


Phrona:今すぐ必要なものと、5年後に必要になるものは違いますよね。


富良野:時間軸を入れると、優先順位が見えてきます。今から2年以内で言えば、HEMTアンプの健全性診断が最も切迫している。研究段階でも商用前でも、アンプの個体差で困っている人が既にいる。


Phrona:交換コストが高くて、でも交換すべきタイミングが分からない。


富良野:2〜4年後になると、希釈冷凍機の稼働時間が増えて、予防保全の価値が跳ね上がる。「止まる前に教える」サービスの需要が出てくる。4〜6年後には、量子ビット数が増えて配線の健全性診断が必要になる。


Phrona:でも、配線の診断は技術的難度が比較的低いから、後発でも参入できる。


富良野:だから、スモールプレイヤーが狙うなら、今はHEMTアンプの診断、次に冷凍機のモニタリング、その後に配線という順番になる。標準作りから入ったり、量子チップ評価を最初から狙ったりすると、資本負けする。



不可欠になる条件


Phrona:結局、「技術的に正しいかどうか」より、「壊れたときの損失を説明できるかどうか」が大事だということですか。


富良野:稟議が通るかどうか、と言い換えてもいい。「このアンプが劣化すると論文が書けなくなる」「この冷凍機が止まると億単位の損失が出る」——そういう言葉に翻訳できれば、予算がつく。


Phrona:技術者の論理と、経営者の論理を架橋する部分ですね。


富良野:量子コンピュータの世界は、まだ研究者主導の段階から商用化の入り口に差し掛かったところ。その移行期に「品質保証」「診断」「予防保全」というレイヤーが必要になる。そこが新規参入者の居場所になりうる。



技術覇権の別の読み方


Phrona:量子コンピュータのサプライチェーンを見ていると、「見えない技術」の重要性に気づかされますね。


富良野:量子ビットの数とか、エラー訂正率とか、派手な数字ばかりが報道される。でも、その裏側で希釈冷凍機やヘリウム3がボトルネックになっている。表に出ない部分で勝負が決まることがある。


Phrona:半導体でいう露光装置みたいな存在。


富良野:もう一つ大事なのは、同盟関係の複雑さ。フィンランド、日本、ドイツ、スウェーデン——供給元が同盟国に分散しているのは幸いだけれど、それでも「一社依存」「一国依存」のリスクは残る。


Phrona:地政学的には安全でも、産業構造的には脆弱ということがありえる。


富良野:時間軸の問題も重要です。量子コンピュータの開発スピードと、サプライチェーンの立ち上げスピードが合っていない。チップの進化は18ヶ月サイクル、冷凍機の調達は6〜9ヶ月。この「位相のずれ」が、思わぬところで発展を阻害するかもしれない。


Phrona:技術の進歩が早すぎて、支える側が追いつかない。


富良野:逆に言えば、その「支える側」を押さえた者が、技術覇権の一角を占めることになる。量子コンピュータの競争は、チップだけを見ていては全貌が見えない。


Phrona:冷やす技術が、熱い競争の舞台になっている、ということですね。


富良野:うまいことを言いますね。でも、本当にその通りだと思います。




ポイント整理


  • 量子コンピュータのサプライチェーン

    • 希釈冷凍機の市場はBlueforsとOxford Instrumentsの2社で70%以上のシェア。HEMTアンプも供給元が限定的で、代替が効きにくい構造になっている。

  • 付加価値は下流に集中するが、支配力は中流に存在する

    • クライオクーラーは汎用品に近く付加価値が低い一方、希釈冷凍機やHEMTアンプは技術集積度が高く高付加価値。ヘリウム3やホルミウム銅は技術的付加価値は低いが、供給制約による支配力を持つ。

  • ヘリウム3は最大の資源ボトルネック

    • 年間生産量が数キログラム単位で、主に核兵器プログラムの副産物として供給される。価格はグラムあたり金より高く、地政学的リスクに直結している。Blueforsは月面採掘企業と10年契約を締結。

  • 量子チップはバリューチェーン上で最も脆弱

    • チップ自体の開発は進んでいるが、周辺インフラ(冷凍機、アンプ、冷媒)なしには動作しない。開発サイクルと調達リードタイムのミスマッチが潜在的なボトルネック。

  • 同盟国への分散はリスク軽減だが、集中リスクは残存

    • フィンランド(希釈冷凍機)、日本(レーザーダイオード、サファイアウエハー)、ドイツ(真空チャンバー)など、供給元が同盟国に分散。しかし一国・一社依存のリスクは解消されていない。

  • 新規参入者の機会は「診断・評価」レイヤーにある

    • 部品製造への正面参入は資本障壁が高いが、ミリケルビン環境での健全性診断、劣化予測、品質評価という領域は標準が未確立で、スタートアップにも機会がある。

  • 政府調達による開発加速の議論

    • 商用化を待つだけでなく、政府調達を通じて開発を加速させ、同時にサプライチェーンの強靭化を図るべきという議論が米国で進んでいる。



キーワード解説


希釈冷凍機(Dilution Refrigerator)

ヘリウム3とヘリウム4の混合による希釈冷却を利用して、10ミリケルビン以下の極低温を実現する装置。量子コンピュータの「動作環境」そのもの。


HEMTアンプ(High Electron Mobility Transistor Amplifier)

高電子移動度トランジスタを用いた低ノイズ増幅器。量子信号を最初に増幅する部分で、測定精度を左右する。


ヘリウム3(Helium-3)

ヘリウムの同位体で、中性子が1つ少ない。希釈冷凍機の冷媒として不可欠だが、自然界にほとんど存在せず、主に核兵器プログラムのトリチウム崩壊から得られる。


ホルミウム銅合金(HoCu₂)

磁気冷却に使用される希土類合金。技術的付加価値は低いが、供給が特定国に集中しており、戦略物資としての性格を持つ。


超伝導同軸ケーブル(Superconducting Coaxial Cable)

極低温環境で量子制御信号を伝送するケーブル。高周波特性と低温特性の両立が求められる。


クライオクーラー(Cryocooler)

機械的に冷却を行う装置で、希釈冷凍機の前段階の冷却を担当。技術的には成熟しており、比較的汎用的。


ミリケルビン(millikelvin, mK)

絶対温度の単位で、1ケルビンの1000分の1。量子コンピュータは10〜20mK程度で動作する。


量子ビット(Qubit)

量子コンピュータの情報の基本単位。古典ビットと異なり、0と1の重ね合わせ状態を取ることができる。


バリューチェーン(Value Chain)

原材料から最終製品に至るまでの付加価値創造の連鎖。各段階での付加価値の大きさと代替可能性を分析することで、戦略的要衝を特定できる。



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