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量子力学からドゥルーズ、仏教を経て、権力の定義にたどり着くまで──「物ではなく関係」という命題は、どこまで信じてよいか

4 日前
読了時間: 21分

シリーズ: 知新察来


◆今回のピックアップ記事:George Webster, The quantum world reveals reality is made of relations, not objects (Institute of Art and Ideas, 2026年2月19日)


  • 概要:量子統計における同種粒子の置換不変性と、科学哲学の構造実在論を手がかりに、個々の「物」よりも法則・対称性・関係構造のほうが根本的な実在ではないかと論じる哲学エッセイ。標準的な論理・集合の記述形式が「個体が先、関係が後」という順序を前提にしてしまうという壁を指摘したうえで、ジル・ドゥルーズの「差異は同一性に先立つ」という形而上学を、この壁を越えるための言語として提案している。



机の上のコップも、隣を歩く他人も、空を流れていく雲も、私たちはまず「物」として認識する。物がまずあり、そのあとで物同士のあいだに関係が生まれる。エベレストがキリマンジャロより高いのは、二つの山がそれぞれ存在し、それぞれが高さという属性を持つからだ、と。


この順序に、量子力学は静かに、しかし決定的に異議を唱える。哲学者ジョージ・ウェブスターはIAI TVに寄せた論考で、量子統計における同種粒子の振る舞いを手がかりに、個々の「物」よりも、それらを縛る法則や対称性のほうが根本的な実在ではないかと論じている。そして、この奇妙な世界像を語るための言葉として、二十世紀フランスの哲学者ジル・ドゥルーズを呼び出す。差異は同一性に先立つ、という言葉を。


本稿は、この論考の骨格を追いながら、その先──生物の発生、真社会性昆虫のコロニー、人間社会の自我、そして企業や国家がなぜ今日もそこにあるのかという、より具体的な問いへと歩みを進める。




対象中心的世界観と、その有効範囲


私たちが世界を「物の集まり」として把握する態度は、単なる哲学的な思い込みではない。獲物を追い、車を避け、投げられた石の軌道を予測するには、世界を移動する個体の集合として扱うことが圧倒的に効率的だった。ウェブスターはこれを「対象中心的世界観」と呼び、人類の生存にとって合理的だった認知の型として位置づける。


だが、この有効性には限界がある。人間が適応してきたのは、おおむねミリメートルから数キロ、ミリ秒から数十年という、きわめて限定された時空間の窓である。その窓の中で有効な世界観が、量子スケールや宇宙論的スケールにおいても世界の根本構造を正確に映しているとは考えにくい。日常的直観を世界の本体と取り違えないこと。これがウェブスターの出発点であり、この論考全体が立つ足場でもある。



コインと粒子──同一性の壁が崩れる場所


対象中心的世界観の限界は、量子統計という具体的な現象を通じて、より鮮明になる。二枚のコインを同時に投げれば、四通りの結果が等しい確率で生じる。表・裏と裏・表を別々に数えられるのは、二枚のコインが、同じ額面であっても個体として区別できるからだ。


ところが同種の量子粒子──たとえばボース粒子──を二つ用意し、類似の測定を行うと、結果は三通りにしかならない。粒子1が上向き、粒子2が下向きという状態と、その逆を入れ替えても、物理的にはまったく同じ状態としてしか扱えないのである。これを置換不変性という。同種粒子を入れ替えても世界の状態は変わらない、という性質だ。


もし本当に独立した個体性を持つ二つの物があるなら、それらを入れ替える操作には意味があるはずだ。しかし量子の世界では、その操作が何の違いも生まない。ここから、「この粒子」「あの粒子」という独立した個体性を粒子に帰属させる必要があるのか、という問いが生まれる。ただし、ここで確認しておくべき区別がある。「同種粒子を古典的な意味で個体化することには問題がある」という主張と、「個体は存在せず、関係だけが実在する」という主張のあいだには、相応の距離がある。前者は実験結果からかなり手堅く言えるが、後者はそこに一段の哲学的解釈を重ねたものであり、ウェブスター自身も「さらに踏むべき段階がある」と留保している。



物語は変わっても、構造は残る


量子統計だけでは、関係論的な世界観を支えるには心もとない。ウェブスターはここで、科学哲学の古典的な問題──科学的実在論と、いわゆる悲観的帰納法──を持ち出す。


電子やクォーク、ヒッグス粒子は本当に存在するのか。現代科学の予測的成功を思えば、存在すると考えるのが自然に見える。しかし科学史を振り返れば、熱素、フロギストン、光を伝える媒質としてのエーテルなど、かつて成功した理論の構成要素でありながら、今では実在しないと考えられている存在者が少なくない。過去の科学者が自分たちの理論に登場する存在者を実在だと信じて誤ったのなら、私たちも電子やクォークについて同じ誤りを犯している可能性がある。


ここで構造実在論が答えを用意する。理論が全面的に刷新されても、対象同士の数学的な関係は、しばしば後継理論に保存される。フレネルは光をエーテルという媒質の波として説明したが、マクスウェルの電磁気学ではエーテルは不要になり、光は電磁場の振動として記述される。存在者についての物語は総取り替えされたが、光の振る舞いを支配する数学的関係のかなりの部分は生き延びた。Objects change, structure survives──物は変わるが、構造は残る。科学が少しずつ正しく捉えているのは、「何という物が存在するか」ではなく、世界の構造的・数学的な関係なのではないか、という発想がここに立ち上がる。


ただし、この主張には注意すべき二重性がある。「私たちが確実に知りうるのは構造だけだ」という認識論的な読みと、「実際に存在しているのは構造だけだ」という存在論的な読みは、まったく異なる強度を持つ主張であり、前者から後者へ移るには追加の哲学的な跳躍が要る。ウェブスターの論考はこの二つをやや無造作に並べており、そこが議論の脆さとして残る。



関係項のない関係、という論理の壁


関係論的な世界観には、単純だが深刻な問題がつきまとう。関係とは、何かと何かのあいだの関係ではないのか。「AはBより背が高い」という関係は、AとBという項がなければ成り立たないように見える。Relations without relata──関係項のない関係──とは、いったい何を意味するのか。


ウェブスターはここで、問題の所在を言語そのものへ移す。現代の標準的な論理学は、F(x)のように、まず対象xがあり、その対象に性質Fが帰属するという形式を取る。集合論も同様に、まず要素があり、それが集合に属するという順序を採用している。つまり、私たちが存在論を語るために用いる論理・集合論の記述形式そのものが、「個体が先、関係が後」という順序をあらかじめ組み込んでいるのである。


この診断は重要な意味を持つ。関係のほうが根本的だという存在論を表現しようとしても、その表現のために使う言語自体が、すでに個体が先という前提を運んでしまう。ウェブスターはこの点を、分析哲学の記述装置が構造実在論者の手足を縛っている、とかなり強い言葉で表現する。ここに、量子力学とはまったく異なる領域──二十世紀フランス哲学──が呼び込まれる理由がある。



ドゥルーズ──差異が同一性に先立つ場所


ジル・ドゥルーズの中心命題は明快である。通常の哲学では、まずAとBという個体があり、それぞれ異なる性質を持つから両者は異なる、と考える。同一性が先にあり、差異はそこから導かれる。ドゥルーズはこの順序を反転させる。「物がまず存在し、その後で差異を持つのではなく、物は差異化の過程から生まれる」。


この転倒によって、「関係項のない関係」という一見不可解な発想が、初めて具体的な内実を持つ。関係はもはや、完成した二つの項を結ぶ線ではない。差異化の過程そのものが、項を生成するのである。


ウェブスターが紹介する具体例は発生学、とりわけ神経胚形成である。受精卵から中枢神経系が形成される過程では、神経管という完成した器官があらかじめ存在するのではない。細胞間の化学物質の濃度勾配、機械的な力、遺伝子発現のタイミングといった差異が先に走り、その差異を解消しようとする動的な過程の結果として、平面的な細胞層が折りたたまれ、管状の構造が生まれる。差異が動的過程を駆動し、その結果として安定した形態──object──が生じるのだ。ウェブスターはこの構造を、台風や地層、さらには知覚や感情にまで拡張し、最終的にドゥルーズを、現代の構造実在論を半世紀先取りした思想家として位置づける。



神経胚形成から台風へ──飛躍をどう消化するか


しかし、この拡張を無批判に受け入れることはできない。神経胚形成の説得力を、台風や地層、さらには世界一般へとそのまま延長するには、無理がある。台風が形成される以前から、水分子や大気は物理的に存在している。地層についても、鉱物粒子や水はすでに与えられている。差異が無から物質を生み出すわけではない、という直観は正しい。


ここで有効なのは、「物質的に先に存在するもの」と「個体化された対象として成立するもの」を分けることだ。台風ができる前から大気は存在するが、「台風」という境界と持続性を持つマクロな個体は、海面温度・湿度・気圧などの差異がある閾値を超え、正のフィードバックが働いて初めて成立する。素材はすでにあったが、「ひとつのもの」としての台風は、差異が生まれて初めて出現する。神経胚形成についても、事情は同じである。細胞やDNAといった物質的な要素は、差異が生まれる前からすでに存在している。


したがって、「差異は物質よりも根源的である」という強い形而上学を採用する必要はない。より慎重に言えば、ある階層の個体は、その下位階層にすでに存在する要素間の差異・相互作用・動力学を通じて生成する。原子が相互作用して分子が生まれ、分子のネットワークから細胞が成立し、細胞間相互作用から組織や器官が形成される──この「階層的個体化」という見方のほうが、実態に即している。地層についても、差異を解消する過程というよりも、物質の移動・堆積・変形の履歴が固定された構造として理解するほうが正確だろう。ウェブスターの記事のこの部分は、いくぶん圧縮されすぎていたと言わざるをえない。



個体を残したまま、高次の系が成立する──真社会性動物という中間例


階層的個体化という見方を可視化する良い中間例が、アリやハチのような真社会性動物である。一匹のアリは、疑いようもなく一個の生物である。しかし、採餌、巣づくり、防衛、温度調節、労働配分といった重要な機能のほとんどは、個体単独からは説明できない。フェロモンや接触信号を介した局所的な相互作用のネットワークから、コロニー全体として高次の秩序が生じる。


ここで確認すべきなのは、「個体が存在すること」と「個体だけを説明単位にすれば十分であること」は、まったく別の問題だという点である。個体を否定せずに、高次の系もまた実在的な分析単位として認める。これが、量子論的な関係論よりもずっと慎重な、しかし十分に強い立場である。


もっとも、人間社会はこの構図をそのまま延長できない一線を越えている。人間の構成要素──つまり個々の人間──は、「自分はシステムの部品ではなく、独立した主体だ」という自己モデルを持ち、目的、記憶、権利、反省能力、そして異議申し立ての能力を備えている。人間社会を「超個体」として語る比喩は、この一線を見えなくしてしまう危険を常にはらんでいる。国家や民族を単一の生命として扱い、個人をその部品として従属させる思想へと、容易に転落しかねないからだ。社会を記述的に高次のシステムとして捉えることと、規範的に個人をそのシステムへ従属させることは、厳密に分けなければならない。



自我は障害なのか、資源なのか


人間社会に特有の複雑性は、単なる複雑さの度合いにあるのではない。宇宙そのものが、自己目的を持つ主体なしに、銀河や恒星系のような極めて複雑な構造を生み出す。人間社会の特徴は、構成要素が自己目的を持ち、他者の意図を推測し、系そのものについて内部モデルを持ち、さらにその系のルールを認識し、変更しようとするという、再帰性にある。


この再帰性は、しばしば協調を阻害する摩擦として語られる。だが、逆の側面もある。市場では、参加者が市場全体の最適化を目指す必要はない。それぞれが自分の利益を追いかけることを前提として、価格形成という、誰も設計していない秩序が生まれる。科学も同様で、研究者は名声や好奇心、キャリアといった雑多な動機で動いているが、査読・再現・引用という制度を通じて、誰の意図でもない知識の体系が築かれる。


人間社会の特徴は、構成要素を「没自我的な部品」に変えることではなく、自己目的を持つ主体をそのまま構成要素として利用することで、独特の複雑性を獲得しているところにある。自我や主体性は、協力を妨げ、ただ乗りを生む一方で、権力への抵抗、集団思考の打破、新しい情報の持ち込み、慣行への批判、イノベーションをも可能にする。個人か集団かという二分法よりも、どれほど独立した主体を、どのような関係構造によって束ねれば、全体としての適応能力が最大化するかを問うほうが、はるかに生産的である。これはそのまま、ガバナンス設計の核心にある問いでもある。



「個人が先か社会が先か」という問いの外へ


言語、価値観、職業、国籍、欲望、自己認識──私たちが「自分」だと思っているものの、かなりの部分は社会的な関係の中で形成される。一方で、社会制度もまた、それを反復する個々人の行動なしには存在できない。個人が社会を作るのでも、社会が個人を作るのでもなく、両者は相互に生成し合っている。すると、「個人が先か、社会が先か」という問い自体が、あまり良い問いではないのかもしれない。


この地点で、仏教、とりわけ龍樹の中観思想における縁起の議論が示唆的である。現象はそれ単独では成立せず、原因や条件に依存して生じる。龍樹はこれをさらに徹底し、依存して生じるものには、自らだけで成立する固定的な本性──自性──がないと理解する。これが空である。


ここで見落としてはならないのは、中観がrelational ontologyよりもさらに一段先へ進む点である。ウェブスターの議論を極端にすれば「objectは根本的でなく、relationが根本的だ」という主張になるが、中観はそこで立ち止まらない。relataがrelationに依存するのと同じように、relationもまた、それを構成する項や概念的規定に依存して成立する。父は子との関係なしに父ではないが、父子関係もまた父と子という規定なしには存在できない。relataも空であり、relationも空であり、空そのものさえ独立した存在論的な基盤ではない、という地点まで、議論を進めることができる。


ただし、ここで思考を止めてはならない。「すべては相互依存している」という命題は、形而上学的にはきわめて強いが、それだけでは何が何にどれほど依存しているのか、どちらの方向の因果が強いのか、どの条件が崩れると関係が変わるのかを、何も教えてくれない。中観は結論としてではなく、「何かを最終的な基礎として固定するな」という方法論的な規律として使うほうが、生産的である。



存在しているのではなく、作り直されている


この規律を保ったまま、次に必要なのは、「では何が、この系を今日も成立させているのか」という、より具体的な問いへ移ることである。ここで手がかりになるのが、マトゥラーナとヴァレラが提唱したオートポイエーシスの理論である。


細胞は、膜という容器がまずあってその中で化学反応が起きているのではない。代謝反応が膜の成分を作り、その膜が代謝の起きる環境を維持し、その環境がさらに代謝を可能にするという循環そのものによって、「一個の細胞」という単位が持続する。構成物質は絶えず入れ替わるが、生産関係の組織そのものが維持されることで、系は同一性を保つ。


この視点は、会社や国家のような社会的な系にも、ある程度応用できる。会社は同じ社員が居続けるから存続するのではなく、雇用、会計、指揮命令、契約、顧客関係を日々再生産することによって、会社という単位を維持している。国家も、徴税、行政、法執行、教育、国境管理、政治的正統性を継続的に再生産することで存在する。「安定している」というよりも「毎日作り直されている」と言うほうが、この動的な性質を正確に捉えている。ただし社会的な系は、細胞のような閉じた自己産出とは異なり、構成員が複数の系に同時に所属し、退出し、系を批判し、ルールそのものを変更できるという点で、分散的な再生産として理解する必要がある。


もっとも、「再生産されている」というだけでは、まだ説明として粗い。「この制度は再生産されている」と言うのは、「この制度は安定している」と言うのと、ほとんど変わらない情報量しか持たない。何が、何によって、どの程度再生産されているのか──ここに踏み込んで初めて、議論は具体性を獲得する。



関係は、線ではなく、状態を持っている


通常のネットワーク分析では、関係は「有無」あるいは「重み」という程度の粗さで扱われる。しかし現実の社会的関係には、より複雑な内部構造がある。二つの企業が同じ規模の取引をしていても、一方は長年の信頼によって、他方は法的拘束によって維持されているかもしれない。同じ「強さ」に見える関係でも、それを支える原因が異なれば、同じショックに対する反応もまったく異なってくる。


ここから、関係の「強度」と「安定度」という、独立した二つの軸を区別する必要が生まれる。強いが代替可能な関係は不安定であり、弱くとも代替不能な関係は、きわめて安定しうる。さらに、関係の安定度そのものは固定値ではなく、時間とともに変化する。現在の水準だけでなく、その変化の方向と速度を見なければ、危険な兆候を見落とす。信頼度がまだ高くても急速に低下している関係は、低いが改善している関係よりも、はるかに危険である場合がある。


社会的な関係には、しばしば閾値やヒステリシスが存在する。小さな毀損が積み重なっても関係はしばらく維持されるが、ある一線を越えると急速に崩壊し、原因を取り除いても元の状態へは戻らない。関係を、内部状態を持つ動的な単位として捉え直すこと。これが、「系は再生産されている」という命題の中身に、具体的にメスを入れるための第一歩である。



関係が関係を支え、系全体が動く


一つの関係の安定は、しばしば他の複数の関係によって支えられている。社員と会社の雇用関係は、給与だけでなく、上司との信頼、同僚との関係、顧客との関係、住宅ローン、家族の事情によっても下支えされている。企業間の取引関係の崩壊が、連鎖的に別の取引関係を不安定化させることもある。関係が関係を支えるという、もう一層の依存構造が、通常のノード間ネットワークの上に重なっている。


この視点から見ると、「重要な関係」の意味も変わってくる。従来のネットワーク分析は、中心性や媒介性の高いノードを重視する。しかしここで着目すべきは、ある関係の安定度がわずかに変化したとき、系全体がどれだけ動くかという感応度である。しかもこの感応度自体は、平時と危機時とで大きく異なりうる。普段はほとんど機能しない関係が、金融危機における銀行間信用のように、危機の局面で系を支える最後の経路として機能することもある。


結果として、「強い関係が多い系ほど強い」という単純な直観は崩れる。少数の代替不能な関係に極端に依存する組織は、平時にはきわめて堅固に見えても、その一点が崩れれば一気に瓦解しかねない。逆に、個々の関係は弱くとも、代替性と冗長性に富む系は、大きな衝撃にも持ちこたえられる。安定とは揺るがないことではなく、揺れながら組み替えて持ちこたえる能力である。独裁体制が、人事や政策の固定性という意味では安定して見えながら、少数の中心人物への依存ゆえに全体としては脆弱であるのに対し、民主制は、政権や政策の頻繁な交代を許容しながら、政治的意思決定を行うという制度そのものの持続性を保つ。安定と硬直は、まったく別のものなのである。



誰が、関係のルールを書き換えられるのか


安定と硬直の区別は、権力の分析へと接続する。プラットフォーム企業の強さは、単に利用者ネットワークの中心に位置することにあるのではない。誰と誰が接続できるか、何が可視化されるか、どのような条件で取引が成立するか、誰が排除されるか──こうした「関係の形成規則」そのものを書き換えられる立場にあることが、決定的な優位性となる。既存の関係の内部で有利に振る舞う力と、関係が生成される規則そのものを変更する力とは、質的に異なる。政治においても、ゲームの中で有利な主体と、ゲームのルールそのものを変えられる主体は、同じではない。


さらに、この視点は必然的に、安定性の維持に伴うコストの分配という問題を呼び込む。ある制度が長く続いているという事実は、それが自律的に安定していることを意味しない。監視、強制、情報の非対称、資源の集中によって支えられている可能性がある。奴隷制も、差別的な制度も、安定しうる。安定していることと望ましいことは、明確に切り分けなければならない。ある系を「安定している」と評するとき、私たちは同時に、誰にとって、誰のコストで安定しているのかを問い続ける必要がある。



「物か関係か」ではなく、「何が今日も支えているか」


ウェブスターの論考が開いた問いは、「物か関係か」だった。しかし、この問いをそのまま結論として受け取ると、議論は物という基礎単位を捨て、代わりに関係という新しい基礎単位を据えただけで終わってしまう。


ドゥルーズからは、個体は出発点ではなく、生成の結果でもあるという視点を引き出せる。ただし、それを無制限に拡張すれば、台風や地層の例のように無理が生じる。中観からは、個体だけでなく、関係や生成そのものも最終的な実体として固定してはならないという警戒を引き出せる。ただし、それだけでは思考は止まってしまう。オートポイエーシスからは、系は存在しているのではなく、作り直され続けているという視点を引き出せる。ただし、「再生産されている」というだけでは、まだ説明として粗い。


この三つの視点を踏まえたうえで、最後に必要なのは、関係を均質な線として扱わず、その強度と安定度を分け、何によってそれが変化するかを見極め、その変化が他の関係へどう伝播するかを追うことである。系の安定性とは、関係が固定されていることではない。一部の関係が変わり、切れ、組み替わっても、必要な機能と一定の同一性を再構成できる能力のことである。


だとすれば、私たちが企業や国家、市場や制度について「安定している」と語るとき、本当に問うべきなのは、こうした具体的な問いである。何が、この系を今日も存在させているのか。その関係は、なぜ続いているのか。何が変わると、どの方向に動くのか。誰が、その条件を変えられるのか。誰が、その維持のコストを払っているのか。


量子力学から出発した「物か関係か」という哲学的な問いは、ここに至って、社会を理解し、時には変えるための、具体的な分析の道具に姿を変える。



 

ポイント整理


  • 対象中心的世界観には、有効範囲がある

    • 世界を個体の集合として把握する認知は、人類が適応してきた限定的な時空間スケールで合理的だった。

    • 量子スケールや宇宙論的スケールで同じ前提が成り立つ保証はない。

  • 量子統計と構造実在論は「物より関係」を示唆するが、二つの異なる強度の主張を混同しやすい

    • 置換不変性は同種粒子の古典的な個体化を疑わせるが、「関係だけが実在する」までは自動的に導かれない。

    • フレネルからマクスウェルへの移行のように、理論交代で構造が保存されるという観察も、「知りうるのは構造だけ」と「存在するのは構造だけ」を区別しないと過大評価される。

  • 差異から物が生まれるという発想は、階層を意識して初めて成り立つ

    • 神経胚形成は説得的だが、台風や地層への無限定な拡張には無理がある。

    • 下位階層の要素間の差異・相互作用から上位階層の個体が生成する、という階層的個体化が堅い定式化である。

  • 個体を否定せずに、高次の系を認めることができる

    • 真社会性動物のコロニーは、個体の存在と、個体だけでは説明できない機能の両立を示す。

    • 人間社会では、構成要素自身が自己目的と再帰性を持つ点が決定的に異なり、自我は秩序形成の障害であると同時に資源でもある。

  • 中観は結論ではなく、方法論的な規律として使うべきである

    • 縁起・空は、個体だけでなく関係や生成そのものの実体化も避ける。

    • ただし「すべて相互依存している」で止まると、分析は先に進まない。

  • 系は再生産されており、その安定性は強度とは別の軸として分析する必要がある

    • オートポイエーシスは、構成物質の入れ替わりを超えて維持される組織のあり方を示すが、「再生産」の中身を分解しなければ説明として粗い。

    • edgeの強さと安定度は独立しており、非線形・閾値・ヒステリシスを持つ。安定とは変わらないことではなく、変わりながら持ちこたえる能力であり、権力は関係の形成規則を書き換える能力として捉え直せる。



キーワード解説


【置換不変性 (permutation invariance)】

同種の量子粒子を入れ替えても、物理的な状態が変わらないという性質。コインのような古典的な物体では、個体を入れ替える操作に意味があるが、量子粒子ではその意味が失われる。ここから、粒子に古典的な意味での個体性を帰属させる必要があるのかという問いが生まれる。


【構造実在論 (structural realism)】

科学理論が交代しても、対象についての物語ではなく、対象間の数学的・構造的な関係のほうが保存されやすいという観察に基づき、実在の根本を構造に置こうとする立場。認識論的な慎重さと、存在論的な強い主張とを混同しないことが重要である。


【階層的個体化】

ある階層に存在する個体が、下位階層にすでに存在する要素間の差異・相互作用・フィードバックを通じて生成するという見方。ドゥルーズの「差異が同一性に先立つ」という命題を、台風や地層のような例へ無制限に拡張する際の飛躍を修正するための定式化である。


【縁起・空 (śūnyatā)】

龍樹の中観思想における中心概念。現象は原因や条件に依存して生じ(縁起)、それゆえ独立した固定的な本性である自性を持たない(空)。この否定は個体だけでなく、関係やプロセスそのものにも及び、relational ontologyをさらに一段先へ押し進める視点となる。


【オートポイエーシス (autopoiesis)】

マトゥラーナとヴァレラが提唱した、生物を自己産出する組織として捉える理論。構成要素を産出する過程のネットワークが、そのネットワーク自身を再生産し、同時に自らの境界を維持することで、系は個体としての同一性を保つ。



本稿を素材として対話形式で再構成した記事も、近日中にnoteに掲載予定です。
ご関心を持っていただけましたら、note上でご感想などお聞かせいただけると幸いです。
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