閉じない「われわれ」をどうつなぐか──マルチチュードとポピュリズムが交わる場所
- Seo Seungchul

- 8月2日
- 読了時間: 13分

シリーズ: 行雲流水
前回たどり着いたのは、人民を強く構築する技術と、構築された人民が民主主義を壊さずにいる技術は別の達成である、という結論だった。そして議論は、その後者を「どう縛るか」という方向へ向かった。判定の機関を複数持つこと、自己制約を相互保障として設計すること、敵対線の引き方を三つの水準に分けること。
ただし、縛ることだけが答えなのかという問いが残っている。制約は、すでにできあがった人民を外から押さえる仕組みである。それとは別に、一度固まった「われわれ」そのものを、もう一度複数の要求へ戻す道はないのか。
この問いを引き受けてきた理論は、実は存在する。マイケル・ハートとアントニオ・ネグリのマルチチュード論である。差異を溶かさないまま共同で行為する主体という構想は、代表による主体の収奪と、指導者への権力集中を、当初から警戒の対象にしてきた。
もっとも、この理論は2000年代の勢いを失い、現在では単独の看板として語られることが少ない。したがって本記事は、まずその後退の内実を確かめるところから始める。何が説明できずに退いたのか、そしてどこへ引き継がれたのか。それを見ないまま「開く力の理論がある」と言っても、根拠にならない。
看板が下りた三つの事情
2000年代、マイケル・ハートとアントニオ・ネグリのマルチチュード論は、左派政治理論の中心的な概念だった。現在、単独の看板として語られることはほとんどない。ただし、消えたわけではない。後退の理由と、その後の継承を分けて見る必要がある。
後退の事情は、大きく三つの層に整理できる。
まず、協働が政治的意思へ直結するという初期の期待が、現実には成立しにくかったことである。ポストフォーディズム的な生産、知識労働、ケア、デジタルな協働が、資本の内部にありながら自律的な協働能力を育て、それがマルチチュードの民主的な自己組織化へつながる。この見通しに対し、協働していても共通の政治目的を持つとは限らないこと、同じ基盤を使っていても利害は対立すること、ネットワークは民主化だけでなく監視や扇動にも使えること、水平的な運動にも非公式の中心や資源格差が生まれることが、次々に明らかになった。ラクラウの批判はここに集中している。異質な要求がなぜ一つの政治的行為へ結びつくのか、誰が争点を選び、どの敵対線を引き、どう決定するのかを、マルチチュード論は十分に説明できていない。生産構造から政治主体を直接導きすぎている、という指摘でもある。
次に、実際の運動が持続しなかったことである。反グローバル化運動、アラブの春、オキュパイ、インディグナードスは、マルチチュード論の現実的な裏づけに見えた。大規模な参加と可視化には成功し、新しい言説と実践を生み、既存組織にはない包摂性を示した。しかし同時に、組織を持続できず、選挙や政策へ翻訳できず、国家権力を取った勢力に成果を回収され、運動内部で決定責任が曖昧になった。ハート=ネグリ自身も、これらの運動が短命で成果を逆転されたことを認めている。
そして、国家と主権が予想以上に前面へ戻ってきたことである。『帝国』の時代診断は、国民国家を超えて作動する資本や国際機関や情報ネットワークを捉える点で先見性を持っていた。しかしその後、米中対立、経済安全保障、国境管理、産業政策、感染症への対応、戦争、エネルギーと食料の安全保障、右派ナショナリズムを通じて、国家主権が再び前面に出た。グローバルな帝国に対してグローバルなマルチチュードが対抗するという対称的な図式だけでは、国家を通じた保護、再分配、産業転換、民主的統制を説明しにくくなった。
これらを経て、マルチチュード論の要素は、共有物と社会的協働の理論、水平か垂直かの二択を超える組織論、そして多様な闘争を同一化せずに接続する戦略的多元性という三つの方向へ分解して継承されている。
提唱者自身による修正
見落とされやすいのは、ハートとネグリ自身が初期の水平主義にとどまっていないことである。
2017年の『Assembly』では、既存の秩序からの退出だけでは足りず、権力を別の仕方で獲得し、制度を作り、指導と戦略を考える必要が認められた。ただし通常の政党とは逆の関係が提案される。長期の戦略はマルチチュードが決め、指導者は短期の戦術を執行し、必要に応じて任命され解任される。制度は上から統治するためではなく、協働を持続させるために置かれる。ムフはこれを、純粋な退出戦略からの重要な後退として評価しつつ、なおマルチチュードの自己組織化を楽観視しすぎていると批判している。
2019年には、古い統一的な労働者階級から出発し、マルチチュードを通じてジェンダー、人種、移民、ケア、無償労働などの差異を組み込み、その先に多元的で交差的な新しい階級を形成する、という三段の図式が示された。マルチチュードは最終形態というより、階級主体を多元化する媒介として捉え直されている。
さらに近年、マイケル・ハートは戦略的多元性という概念を論じている。重要なのは多様な運動が並存することではなく、支配構造の相互連関を把握し、複数の闘争を一つの組織的なプロジェクトへ接続することであり、そのうえで特定の集団を他の集団の下位に置かないことである。ここではラクラウとムフがきわめて重視してきた接合という語まで使われている。
他方、ムフも左派ポピュリズムを放棄してはいない。2022年の議論では、労働、反人種差別、フェミニズム、民主化、社会保障、気候変動、生存環境の保護を結ぶ緑の民主革命という戦略へ発展させている。人民対寡頭支配層という構図を保ちながら、人民の内容を多元的な民主的闘争の連合として作ろうとする動きであり、ムフの側がマルチチュード的な多元性を内部化したとも読める。
ただし、ムフが譲っていない点は残る。共通の政治的意思は自然には生まれない。代表は政治主体を歪めるだけでなく、そもそも作り出す。対立や排除を伴わない共有物は存在しない。国家や代表制度から退出するだけでは社会は変わらない。何らかのわれわれと政治的な境界が必要である。したがって両者の接近は組織論の水準にとどまり、政治をどう捉えるかという水準では距離が残っている。
四つの層は、別のものを説明している
二つの理論を勝ち負けで比べると、議論が痩せる。より生産的なのは、それぞれが説明している層を分けることである。
マルチチュード論が説明するのは、要求、言説、関係、実践が下からどのように生産されるかである。ポピュリズム論が説明するのは、それらがどのように一つの集合的意思へまとめられるかである。闘技民主主義論が扱うのは、形成された集合的意思が、反対者を抹消せずに争えるかどうかである。そして制度論が扱うのは、指導者や運動が人民の表象を独占することをどう防ぐかである。
こう分けると、それぞれの理論の強みと弱みも整理しやすくなる。マルチチュード論が現在も強いのは、政治主体を単一の階級や固定的属性へ還元しないこと、ケアや知識や情報や感情を含む社会的生産を捉えること、運動の多中心性と越境性を説明すること、市場と国家以外の制度を構想すること、代表による主体の収奪や指導者への集中を警戒することである。弱いのは、異質な要求の優先順位を決める方法、戦略的な一貫性の形成、運動の持続、資源格差や非公式権力への対処、国家権力や選挙や政策への翻訳、失敗時の責任と修正である。
左派ポピュリズムの強弱は、ちょうどこれを裏返した形になる。動員、統合、決定、政権の獲得には強く、人民表象の独占、指導者支配、内部の差異の抑圧に弱い。
MAGAは、内容には開き、裁定には閉じる
前回まで見てきたMAGAは、この層の分け方を具体的に確かめる材料になる。
MAGAの政治的な素材は多中心的に生産されている。地方活動家、宗教保守、反移民運動、反ワクチン運動、銃の権利団体、インフルエンサー、ポッドキャスター、保守系メディア、シンクタンク、法律家ネットワーク、暗号資産やテクノロジー系の右派、各州の共和党組織。これらは統一された思想を持たず、自由市場主義者と保護主義者、孤立主義者と対中強硬派、宗教保守とリバタリアンのあいだに明確な矛盾を抱えている。この意味で、MAGAの基層はかなりマルチチュード的である。
しかし、そこで生産されたものは最終的に、真正な人民、腐敗したエリート、国家の敵、本物のMAGAという区分へ組み込まれ、その正統性をトランプ個人が裁定する。ハート=ネグリの視点から見れば、これはマルチチュードの分散的な生産能力が、主権的な人格によって捕捉される過程である。ムフの視点から見れば、異質な要求が象徴と情念と敵対線と指導者によって人民へ構築される過程である。
したがってMAGAは、マルチチュードを否定する運動ではない。マルチチュード的な生産力を、ポピュリスト的な人民へ捕捉する仕組みとして理解するほうが正確である。
ここで重要なのは、MAGAが閉じているのは政策の内容ではないという点である。政策はむしろ柔軟に動く。閉じているのは、より深い三つの水準である。ひとつは人民を代表する権利であり、代表が人民から委任されるのではなく、代表が誰を人民と認めるかを決める構造になっている。もうひとつは失敗を認定する権利であり、否定的な結果は妨害や裏切りや不正として再解釈されうるため、経験が物語を修正するのではなく、物語が経験の意味を決めてしまう。そしてもうひとつが反対者の正統性であり、反MAGAの市民も同じ政治社会の正統な成員だと認めることは、この運動の自己定義そのものを揺るがす。
端的に言えば、MAGAは内容の流入には開かれているが、正統性の裁定には閉じている。入口を広げることはできるが、中心を複数化することはできない。
対案は「常時開放」ではない
ここから、MAGAと反対の構造を作ればよいという結論に進むのは早い。
人民を常にマルチチュードへ開き続ければ、共通の方針を決定できず、誰も責任を負わず、組織が持続せず、緊急時に行動できず、内部対立によって連合が解体し、組織された少数勢力に乗っ取られる可能性がある。MAGAの強さは、まさにこの問題を人格的な中心によって解決している点にある。異質な要求を抱えたままでも、指導者の判断が暫定的な決着を与える。理論的な一貫性が低くても、行動上の一貫性は確保できる。しかもその閉鎖性は、欠陥であると同時に、短期的な動員力、速度、規律、一貫性の源泉でもある。
したがって必要なのは恒常的な流動性ではない。一時的に閉じて決定できるが、一定の条件で再び開ける、可逆的な人民形成である。閉じること自体が問題なのではなく、閉じたまま戻れないことが問題なのである。
この違いは、循環の形として捉えると分かりやすい。MAGAの循環では、分散した不満が運動内で競い合い、指導者によって選択され公認され、MAGAの人民として統合され、選挙と統治へ進み、失敗は外敵や裏切りへ帰責され、再び人民のところへ戻る。戻り先が人民であって、要求ではない。
これに対し、開ける人民の循環では、複数の要求と集団が暫定的な共通目的へまとめられ、期限つきの代表へ委任され、決定と実行を経て、結果が検証され異議が申し立てられ、要求と連合と代表そのものが再編され、再び複数の要求へ戻る。違いは分散か集中かではなく、集中の後に戻る経路があるかどうかにある。
基層と集約機構を分け、所有させない
戻る経路を制度として作るには、MAGAと共通する部分と、分岐する部分を分けて設計する必要がある。
共通させてよいのは、多様な要求を共通目的へ集約すること、一定期間は決定に拘束力を持たせること、指導者や代表に実行の権限を与えることである。ここを放棄すると、行為する能力そのものが失われる。
分岐させるべきなのは、象徴的な代表と最終的な正統性の裁定権を分離すること、反対意見を敗北後も記録し組織できるようにすること、政策の結果によって委任の内容を再審査できるようにすること、連合からの退出と新しい連合の形成を可能にしておくこと、指導者の交代を運動の崩壊や裏切りとして扱わないこと、そして選挙で敗れても自分たち以外の人民の存在を認めることである。
近年の組織論も、この方向と重なっている。ロドリゴ・ヌネスは、運動、政党、労働組合、自治体、協同組合、オンラインのネットワークを一つの組織生態系として捉え、組織は水平か垂直かのどちらかではなく、機能や局面ごとに集中と分散を組み合わせるべきだと論じる。共有物を社会の内部に作る実践と、自治体や国家制度への介入と、より広い対抗的なヘゲモニー形成を接続しようとする議論も進んでいる。
本記事の見立てでは、現時点で妥当な整理は次のようになる。マルチチュードを政治主体の基層に置き、左派ポピュリズムを暫定的な集約機構として位置づける。そのうえで、集約機構が基層を所有しないようにする。問われているのはマルチチュードか人民かという選択ではなく、人民を形成できるが、形成された人民を再びマルチチュードへ開くこともできる政治構造をどう作るかである。
これはMAGAの単純な反対物ではない。MAGAが一人の人格に集約した選択、統合、決定、修正という機能を、複数の制度へ分解し、それでも集合的に行為する能力を失わないよう組み直す試みである。
一本の線
3回にわたる議論は、一本の線としてつながっている。前々回は、MAGAという運動が矛盾を抱えたまま崩れずにいる仕組みを、多中心的な生産と人格的な裁定という構造から記述した。前回は、その構造をムフの左派ポピュリズム構想と重ね、人民を作る力と、作られた人民が民主主義を壊さずにいる力は別の達成である、という評価に至った。今回は、その後者、つまり開いておく力の理論的な資源を、マルチチュード論の現在地に探った。
一つの理論がすべてを解くという答えは出ない。しかし方向は定まる。人民を作る技術と、作られた人民を再び開く技術を、別々の理念として掲げるだけでは足りない。同じ制度の設計の中に、最初から並べて組み込むほかない。閉じてから開こうとしても間に合わない。鍵は、閉じた側が持っているからである。
ポイント整理
後退の三つの事情と、その後の継承
協働から政治的意思への飛躍が説明できず、広場の運動が持続せず、国家主権が復権した
共有物の理論、水平と垂直を超える組織論、戦略的多元性へ分解して継承されている
提唱者自身による修正
『Assembly』は指導と制度の必要を認めつつ、長期戦略と短期戦術の関係を反転させた
マルチチュードは最終形態ではなく、階級主体を多元化する媒介として捉え直された
四つの層の分離
下からの生産、集合的意思への集約、対立の作法、表象の独占防止は、別の理論が扱う層である
マルチチュード論の弱みは、そのままポピュリズム論の強みと重なる
MAGAの閉鎖性の所在
閉じているのは政策内容ではなく、代表する権利、失敗を認定する権利、反対者の正統性である
内容の流入には開かれているが、正統性の裁定には閉じている
可逆的な人民形成
常時開放は決定不能を招くため、対案は恒常的な流動性ではない
集約機構が基層を所有しないよう、象徴的代表と正統性の裁定権を分離する
キーワード解説
【マルチチュード】
ハートとネグリの用語。単なる群衆でも、まとまりのない個人の集合でもなく、異質な単独者が差異を失わないまま共同で行為できる政治的主体を指す。ラクラウとムフの人民が異質な要求を等価性の連鎖で一つの主体へ統合するのに対し、マルチチュードは差異を溶かさずに協働する点に特徴がある。
【戦略的多元性】
マイケル・ハートが近年用いる概念。多様な運動が並存すること自体を目的とせず、支配構造の相互連関を把握したうえで、複数の闘争を一つの組織的プロジェクトへ接続することを指す。その際、特定の集団を他の集団の下位に置かないことが条件となる。
【組織生態系】
ロドリゴ・ヌネスらが用いる枠組み。運動、政党、労働組合、自治体、協同組合などを水平型か垂直型かの二択で捉えるのではなく、機能や局面ごとに集中と分散を組み合わせる一つの生態系として捉える考え方を指す。
