「効果的な利他主義」って、なんか自己矛盾?《その②》
- Seo Seungchul

- 7月11日
- 読了時間: 9分

シリーズ: 行雲流水
《その①》で、富良野とPhronaは「効果的利他主義(EA)」が抱える根本的な問題──支援する側が「最も効果的な善」を一方的に定義してしまうことの傲慢さ──について語り合いました。
では、このEA的な発想をもっていた人物が、現実の壁にぶつかり、自らの考えを見直していくとしたらどうなるのだろうか? 今回は、その道を実際に歩んだ人物、ビル・ゲイツの20年にわたる変化を追ってみます。
富良野:マイクロソフトの創業者で、今は慈善活動に専念しているビル・ゲイツですが、彼がビル&メリンダ・ゲイツ財団を設立した当初は、まさにEA(効果的利他主義)的な考え方していたんですよね。
Phrona:へぇ、どういう意味で?
富良野:「投資収益率(ROI)」みたいな考え方を慈善活動に持ち込んだんですよ。たとえば、1ドルの寄付で何人の命を救えるのか、データを緻密に分析して、最も効果の高い場所に資金を集中させる。まさに「ビジネスの手法で世界の問題を解決できる」と考えていたんです。
Phrona:ああ、テクノロジーの力で世界を変えてきた人だから、同じ発想で貧困や病気も解決できると思ったんでしょうね。
富良野:そう。2000年代初めの彼の講演を聞くと、自信満々でね。「ワクチンさえ届ければ子どもは死なずに済む」とか、「適切な技術と資金があればマラリアは撲滅できる」とか、非常にクリアでシンプルな解決策を提示していたんですよ。
Phrona:確かに、理屈は間違っていないですよね。ワクチンがあれば助かる子どもがいるなら、それを届ければ済む話だし。
富良野:ただ、現実はそこまで単純ではなかったんです。例えば、ナイジェリアでのポリオワクチン接種プログラム。技術的には完璧な計画だった。冷蔵設備もしっかり整え、配送ルートも最適化し、必要な量のワクチンも確保していました。でも、現地の人々がそれを拒んだんです。
Phrona:えっ、どうしてですか?無料で提供されるワクチンなのに?
富良野:宗教指導者の中に「西洋のワクチンには不妊薬が入れられている」という噂を広める人がいたんですよ。それに加えて、政府や外国のNGOに対する根深い不信感もありました。
Phrona:なるほど……データや技術だけでは解決できない問題ですね。
富良野:まさにその通りです。ゲイツ自身も後のインタビューで、「最初はまったく理解できなかった」と率直に話しています。科学的に正しいことを、なぜ人々は受け入れてくれないのか、と。
Phrona:エンジニア的な考え方ですね。正しい解決策があれば、あとはそれを実行するだけ。でも人間はそんなに単純じゃない。
富良野:ええ。そして、ここで重要になってくるのがメリンダ・ゲイツの存在なんです。
Phrona:ビル・ゲイツの元妻で、財団の共同会長だった方ですね。
富良野:彼女のアプローチは、ビルとはかなり違っていましたね。メリンダはとにかく現地へ直接足を運び、そこにいる女性たちとの対話を何より重視していたんです。データを取ることが目的じゃなくて、ただ純粋に彼女たちの話を聴くために。
Phrona:「聴く」って、簡単そうに見えて実は難しいですよね。
富良野:ある時、メリンダがインドの村で女性たちと話していたら、「ワクチンよりも避妊具がほしい」と言われたそうです。
Phrona:えっ、子どもの健康より避妊具が優先だったんですか?
富良野:最初はメリンダ自身も驚いたようですよ。でもよくよく話を聞いてみると、女性たちには切実な理由があったんです。子どもが多すぎて十分な食事や教育を与えられない。けれど、夫や家族からの圧力で避妊もできない。
Phrona:なるほど…。子どもの命を救うワクチンはもちろん大切だけど、それ以前に女性が自分自身の人生をコントロールできることが同じくらい重要だったと。
富良野:そうなんです。これはデータ分析だけでは絶対に出てこない気づきですよね。「乳児死亡率を最も効率的に下げるには?」という問いそのものが、現地の女性たちの現実と微妙にずれていた。
Phrona:問いの立て方が間違っていれば、当然答えもずれてしまう…。
富良野:メリンダはこの経験を通じて、「データだけでは人間を本当の意味で理解できない」と確信するようになったそうです。その考え方を少しずつビルにも伝えていったんですよ。
Phrona:ビルはすぐにそれを受け入れたんですか?
富良野:いや、やっぱり時間がかかったようですね。あるインタビューでは、ビル自身も正直に、「メリンダのことを感情的すぎると感じていた時期があった」と認めています。
Phrona:(笑)確かに、ビル・ゲイツらしい反応ですね。
富良野:でも、現場で失敗を重ねるうちに、ビルも考え方を見直さざるを得なかったようです。技術的には完璧なはずの解決策が、なぜか機能しない。その理由を追究すると、いつも最後は「人間関係」や「信頼」、そして「文化」といった数値化できない要素に行き着いたんです。
Phrona:例えば、どんな失敗があったんですか?
富良野:有名な例だと、インドでのトイレ建設プロジェクトがあります。衛生環境が改善されれば病気が減るという明確なデータがあった。だから、大量のトイレを一気に建設したんです。
Phrona:それ自体は良いことじゃないですか?
富良野:ところが、実際には建てられたトイレの多くが使われなかったんですよ。物置にされたり、ヤギ小屋になってしまったり。
Phrona:えっ、どうして?
富良野:カースト制度が背景にあって、「特定の仕事は特定の階層の人がするものだ」という考えが根強かったんです。それに加えて、トイレの掃除を誰が担当するのかという問題もありました。単に設備を整えれば解決するような単純な話ではなかったんですよ。
Phrona:なるほど……文化や社会構造を理解しないまま、技術的な解決策だけを押し付けても意味がない、ということですね。
富良野:まさにそうです。ゲイツ財団はこうした経験から多くの教訓を得て、2010年代に入ってからアプローチを明確に変えてきました。
Phrona:具体的にはどう変わったんですか?
富良野:まず、現地パートナーとの協働を大切にするようになりました。上から解決策を押し付けるんじゃなくて、現地の人たちと一緒に問題を定義して、その上で解決策を考えるやり方です。
Phrona:いわゆるボトムアップのアプローチですね。
富良野:そうです。それから、成果の指標も多様化しました。「何人の命を救ったか」という数値だけでなく、「コミュニティの能力がどれだけ向上したか」「女性のエンパワーメントが進んだか」といった、定性的な指標も重視されるようになりました。
Phrona:数字では表しきれない価値をちゃんと認めるようになったんですね。
富良野:ビル自身の言葉も大きく変化しました。最近のスピーチでは、「私たちは謙虚であるべきだ」とか「現地の知恵から学ぶ必要がある」といった表現が目立つようになっています。
Phrona:20年前の「技術で世界を変える」という自信に満ちた態度とは、ずいぶん違いますね。
富良野:そうなんです。ただ、これは後退ではなくて、むしろ彼の人間的な成長だと思うんですよ。EA的な「効率性」への執着から、もっと豊かな「関係性」への理解へ進んだという。
Phrona:ただ、ちょっと気になることがあります。ゲイツ財団のように巨大な組織が、本当に「関係性」を重視し続けることは可能なんでしょうか? 規模が大きくなればなるほど、抽象化や効率化がどうしても求められる気がするんですが……。
富良野:おっしゃる通りです。実際、ゲイツ財団も完全にEA的アプローチを捨てたわけではありません。データ分析や効果測定はいまだに非常に重要視しています。
Phrona:そうすると、何が本質的に変わったのでしょう?
富良野:「データこそがすべて」から、「データも大切だけど、それだけでは不十分だ」という認識への転換でしょうね。つまり、効率性と関係性のバランスを探ろうとしている。
Phrona:バランス、ですか。言うは易く行うは難し、ですね。
富良野:本当に。でも少なくとも、ビル・ゲイツの変化は一つの希望を示していると思うんです。EA的な発想から出発しても、現実と真摯に向き合い続ければ、より豊かなアプローチに辿り着けるんだと。
Phrona:「現実と真摯に向き合う」っていうのが大事なんでしょうね。失敗を受け入れ、そこから学ぶ姿勢があるかどうか。
富良野:ええ、それに自分とは異なる視点を持つ人の声をちゃんと聴けるかどうかも大切です。ビルにとってのメリンダのような存在ですね。
Phrona:ただ、どの支援組織にもメリンダのような存在がいるわけではないですよね……。
富良野:だからこそ、個人頼みではなく、制度として「聴く」仕組みを作っていく必要があるんじゃないでしょうか。単に受益者の声を聞くだけではなく、本当の意味で対話や協働が生まれる仕組みを。
Phrona:そこにこそ、EAが見落としている「関係性」の本質がある気がしますね。結局、支援って人と人との関わりですから。
ポイント整理
1. 初期のゲイツ財団=EA的アプローチの先駆け
「投資収益率(ROI)」の論理で慈善活動を設計
データ分析による「最適解」の追求
技術的解決があれば問題は解決するという信念
上からの介入による効率的な問題解決
2. 現実が突きつけた「技術では解決できない」問題
ポリオワクチン拒否:科学的正しさ≠社会的受容
トイレ建設の失敗:インフラ提供≠行動変容
文化的文脈、宗教的信念、社会構造の無視がもたらす失敗
「なぜ正しい解決策が機能しないのか」という困惑
3. メリンダ・ゲイツが体現した別のアプローチ
データ収集ではなく「聴くため」の対話
女性たちの声から見える別の優先順位
問題の定義自体を問い直す必要性
関係性の中でしか見えてこない真実
4. 20年かけて起きた根本的な転換
「提供する」から「共に考える」へ
定量的指標だけでなく定性的変化も重視
現地パートナーシップの重要性
「謙虚さ」という新たなキーワード
キーワード解説
【技術的解決主義(Technological Solutionism)】
複雑な社会問題を技術的介入によって解決できるという考え方。イヴゲニー・モロゾフが批判的に用いた概念。ゲイツの初期アプローチは、まさにこの思想の体現だった。しかし人間の問題は、技術だけでは解決できない文化的・政治的・感情的次元を含んでいる。
【文化的コンピテンス(Cultural Competence)】
異なる文化的背景を持つ人々と効果的に関わるための知識・技能・態度。単に文化を「知る」だけでなく、自分の文化的前提を相対化し、相手の文脈を尊重しながら協働する能力。ゲイツ財団が学んだのは、まさにこの能力の重要性だった。
【参加型開発(Participatory Development)】
受益者を単なる支援対象ではなく、開発プロセスの主体として位置づけるアプローチ。ロバート・チェンバースらが提唱。上からの押し付けではなく、現地の人々の知識・経験・優先順位を出発点とする。
【聴くことの倫理(Ethics of Listening)】
単なる情報収集としてではなく、他者の声に真に耳を傾け、自らの前提を問い直す実践。メリンダ・ゲイツが体現したこのアプローチは、効率性より関係性を、答えより問いを重視する。
