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属性から連帯義務は生まれない──LatinoとICEをめぐるカテゴリーの政治

9月2日
読了時間: 15分

シリーズ: 知新察来


◆今回のピックアップ記事:Eladio Bobadilla, "Why do Latinos work for ICE?", (The Guardian, 2026年8月6日) 


  • 概要:Latinoによる移民取締機関への参加と強硬な移民政策への支持を、1950年代以降の労働市場競争、同化、帰属、地位、米国右派の変化の中で捉え、自己矛盾や例外として扱う見方を退けた論考。



Latinoの国境警備官やICE職員を見て「同じLatinoを取り締まっている」と感じるとき、私たちは既に一つの判断を済ませている。Mexican American、Puerto Rican、Cuban、Dominican、SalvadoranなどをLatinoという同じ集団に入れ、その人々には共通の利害があり、互いに連帯するのが自然だと考えている。


Eladio BobadillaはGuardianの論考「Why do Latinos work for ICE?」で、この期待を歴史から崩した。既に米国へ定着したメキシコ系労働者が、新しく来る移民を低賃金の競争相手やスト破りの供給源と見た時代があった。Latinoによる厳格な移民政策への支持は、Trumpとともに突然現れたわけではない。


Bobadillaの議論を受け入れた上で、もう一段戻ってみたい。なぜLatinoが移民規制を支持すると、帰属、同化、自己否定、白人性への接近といった特別な説明を求めたくなるのか。なぜ移民と連帯するLatinoには、同じだけの説明を要求しないのか。


私の判断では、この偏りはpan-ethnicな連帯が失敗した結果ではない。むしろ、過去の連帯が成功し、その成立過程が見えなくなった結果である。政治的に作られた「われわれ」が、最初から存在した自然な集団に見え始めると、連帯は予測から義務へ変わる。




二つの組織、同じ驚き


Bobadillaの記事は、ICEの拘束や執行の過程でLatino移民が死亡する一方、移民取締りを担う側にもLatinoが多いという場面から始まる。ここでは組織を分けておきたい。Border Patrolは税関・国境警備局に属し、国境地帯での警備を主な任務とする。ICEは別組織であり、国内での捜査、拘束、送還などを担う。両者をまとめてICEと呼ぶと、具体的な権限と責任の所在を見失う。


その区別をした上でも、Bobadillaが挙げる人数は小さくない。Guardianは、LatinoがBorder Patrol職員の過半を占め、ICE職員の約二〇〜三〇%に当たるとする。EEOCの職種別表では、Border Patrol Agentの五〇・九一%がHispanic or Latinoと記録されている。


この配置を知った人が「皮肉だ」と感じたことについて、Bobadillaはかなり明確である。その反応は、Latinoなら移民規制に反対するはずだという誤った想定を映している、と書く。したがって、Guardian自身がLatinoを一枚岩と見なしている、と批判するのは筋が悪い。著者は既にその前提を退けている。


ただし、記事の問いは依然として「なぜLatinoがICEで働くのか」である。白人職員には通常の職業選択として認められる給与、福利厚生、地域の雇用事情が、Latino職員には十分な説明とみなされないことがある。所属属性が目立つ人物には、その職業を選んだ心理の奥まで説明してほしくなる。この説明要求の差が、後半の問題になる。



Operation WetbackからUFWへ


BobadillaがTrump時代から一九五〇年代へ戻るのは、Latinoの反移民政治を突発的な例外から外すためである。一部の著名なメキシコ系指導者や団体は、アイゼンハワー政権の強制送還政策Operation Wetbackを支持した。その背景には、新規移民をめぐる労働市場の利害があった。


米国の雇用主は、メキシコから来た低賃金労働者を使って賃金を抑え、組合を弱め、ストライキを破ることができた。既に米国で生活していたメキシコ系労働者にとって、新しく入る労働者は文化的に近くても、仕事と賃金をめぐっては競争相手になり得る。民族的な共通性と階級上の利害は、ここで同じ方向を向かなかった。


一九六〇年代から七〇年代のUnited Farm Workersも、現在の記憶だけからは捉えにくい。César Chávezらの運動はLatinoの権利と労働運動の象徴になったが、一時期のUFWは非正規移民を労働組織化への脅威と見た。Guardianは、活動家が移民を当局へ通報し、独自の国境パトロールを組織し、一部で暴力まで起きた歴史を紹介している。


その後、公民権運動、Black Power、Chicano運動が米国の人種政治を変えた。白人として受け入れられることを目指す同化戦略は後退し、独自の集団意識と移民への連帯が広がった。それでも労働市場競争や地位への不安は消えなかった。


一九九四年のCalifornia Proposition 187も、その揺れをよく表す。非正規移民とその家族への公的サービスを制限しようとしたこの提案に、最終的に賛成したLatinoは約四分の一だった。ただ、投票前には半数近くが賛成を検討した時期があったとBobadillaは書く。この数字からLatinoの本当の政治性を決めることはできない。分かるのは、pan-Latinoな連帯の強さが政策と時期に応じて動いていたことだ。



Trumpと条件付きの包摂


Bobadillaはこの長期史を、二〇一六年以降のTrump支持につなぐ。二〇二四年の選挙でTrumpはLatino票を伸ばし、とくに男性と米墨国境地域での増加が目立った。移民に近い地域ほど移民擁護的になるという予測は、少なくとも一律には成り立たない。


著者の中心的な説明は、Latinoが米国社会で占めてきた不安定な中間位置にある。差別と排除を受けるが、完全な外部者として固定されているわけでもない。自分を新しい移民と分け、国家や秩序を守る側に置くことが、米国人としての帰属、地位、安全を得る道になるという。


ここには米国右派の変化も関係する。Bobadillaによれば、現在の右派は生物学的な白人性だけで境界を引くのではなく、多文化主義、フェミニズム、LGBTQ+の権利、移民、リベラリズムへの反対を共有する人を取り込むようになった。人種が消えたわけではない。秩序、伝統、国家という価値を受け入れる非白人へ、条件付きの包摂を提供できるようになったのである。


ICE職員は、この説明では被害を受ける外部者から秩序を守る内部者へ移る。その人にとって職務は「同胞を取り締まる」行為ではなく、「私は移民ではなく米国人である」と確認する行為になり得る。Bobadillaは、給与、安定雇用、地域奉仕、白人性への接近という先行研究の説明を認めつつ、帰属、地位、安全をその背後に置く。


説得力のある仮説だが、心理的に深い説明を最初から優位に置く必要はない。



Cortezの聞き取り調査


David Cortezは二〇一四年と二〇一五年、Arizona、California、TexasでICE Enforcement and Removal Operationsの職員六十一人に聞き取りを行った。平均の面接時間は七十四分で、対象者の半数以上は移民の子、十人は外国生まれだった。Notre Dameによる研究紹介によれば、Cortezは、本人が好む民族的な自己認識、移民経験との距離、移民への態度にかかわらず、職業選択では経済的な自己利益が強かったと結論づけた。


この調査だけでICE職員全体を代表できるわけではない。調査地域と職種は限られ、面接時期も現在とは異なる。それでも、国境地域の労働市場、連邦職の給与と福利厚生、昇進、家族や知人から伝わる職業情報を、単なる表層的な理由として捨ててはいけないことは分かる。


帰属への欲求と安定雇用は、どちらか一方だけが本当の原因とも限らない。連邦職に就くことで経済的安定と米国人としての承認を同時に得る人もいるだろう。反対に、象徴的な帰属をほとんど考えず、近隣で手に入る比較的よい仕事を選ぶ人もいる。


ここまでがGuardianの歴史的説明と、その説明に対する比較である。Bobadillaは「Latinoなのに反移民」という逆説を退けた。Cortezとの比較からは、逆説を退けた後も、Latino職員だけに深い心理説明を与えたくなる癖が残り得ると分かる。


では、なぜその癖が残るのか。



カテゴリーと集団


社会学者Rogers Brubakerは、民族、人種、国民などのカテゴリーを、境界が明確で内部が均質な集合的主体として扱う傾向をgroupismと呼んだ。Black、White、Asian、Hispanicという呼び名があることから、各カテゴリーに共通の利益と意思があると推論してしまう態度である。


彼が求めたのは、集団など存在しないという結論ではない。カテゴリーが、いつ、どの程度、実際のgroupnessを持つのかを説明することである。行政が同じ欄へ入れた人々が、互いを仲間と考えるとは限らない。互いを仲間と考えても、すべての争点で利害が一致するとは限らない。


Latinoはこの区別を考えるのに向いている。Mexican、Puerto Rican、Cuban、Dominican、Salvadoran、Colombian、Argentineなどは、出身国の歴史、米国へ来た経路、法的地位、階級、人種認識が違う。何世代もTexasに住むMexican American citizenにとって、最近GuatemalaやVenezuelaから入国した人が、自動的に同胞となる理由はない。移民政策ではLatinoという境界より、市民と非市民、古くからの住民と新規参入者、雇用者と労働者という境界が前面へ出ることがある。


人は複数の自己認識を持つ。問題はどれが本物かではなく、どの争点でどれが政治的に重要になるかだ。外部の観察者がLatinoを最初に見ることと、本人がAmerican、Texan、Catholic、workerを先に置くことは別である。



米国で制度化されたHispanic


G. Cristina Moraは『Making Hispanics』で、Mexican、Puerto Rican、Cubanなどを一つにまとめるHispanicという分類が制度化された過程を調べた。一九七〇年代と八〇年代、活動家は少数派として人口と不利益を示す共通分類を求めた。連邦官僚は統計の統一を必要とし、メディア企業はスペイン語圏の大きな視聴市場を見いだした。異なる目的を持つ人々が同じ分類を使い、その分類が国勢調査、政党、テレビ、広告、権利要求へ定着した。


HispanicやLatinoは、古くから一つだった民族の新しい名前ではない。だからといって、官僚が勝手に作った空箱でもない。制度化された分類を人々が自己認識に使い、共通の要求を組み立て、社会の側もその分類で扱うようになった。カテゴリーは政治的な成果であると同時に、政治を行うための条件にもなった。


人種との関係も単純ではない。米国勢調査局の二〇二〇年調査は、Hispanic or Latino originとraceを別の質問で集めた。Hispanic originの人は、White、Black、Asian、Indigenousなど、どのraceにも属し得るという制度上の扱いだった。


出身国で使われていた人種の区分と、米国の区分が一致しないこともある。国境を越えるとは、別の人種分類へ置かれることでもある。ただしArgentinaやDominican Republicの事例から、Latinoの政治行動全体を説明することはできない。ここで使えるのは、Latinoなら同じ非白人として自己認識するという想定への反例までである。


Pew Research Centerの自由回答調査でも、Latinoが自分のraceやoriginを説明するとき、HispanicやLatinoなどのpan-ethnicな語を使った人は二八%、祖先の国や地域を挙げた人も二八%だった。Americanは一一%、Whiteは九%で、世代による差もあった。外部の分類と自己認識は、一致か不一致かの二択ではない。部分的に重なり、争点に応じて順位が変わる。



五つの継ぎ目


「Latinoなのに」という驚きを分解すると、五つの段階が現れる。


  • Classification:国家、統計、メディア、周囲の人が誰かをどう分類するか

  • Identification:本人が自分を何者と考えるか

  • Interest:仕事、市民権、税、治安、差別などをめぐり、誰と実際に利害を共有するか

  • Solidarity:他者を「われわれ」と認め、投票、運動、相互支援で共に動くこと

  • Obligation:同じ属性の人へ連帯しなければならないという道徳的要求


この五つは等号で結べない。


Latinoに分類された人がLatinoを主要な自己認識にするには、教育、制度、差別、メディア、家族、政治運動などの経路が要る。自己認識があっても、新規移民と利害が一致するとは限らない。利害が一致しても、組織、指導者、資源、共通の物語がなければ連帯行動は続かない。


最後の継ぎ目はさらに重い。実際に多くの人が連帯していることから、個人が連帯する義務まで導くには別の理由が要る。集団的運動から恩恵を受けたことへの互恵、同じ制度的危険にさらされていること、共同利益を守るための負担、公正や反支配などである。「同じ民族だから」だけでは足りない。



分類が作る共通運命


五つを分けたからといって、外部の分類を無力な名札と考えるのは間違いである。差別する側は、本人の細かな自己認識を尊重しない。社会が異なる出身国の人々を同じカテゴリーとして扱えば、その人々は似た不利益、固定観念、政策、代表不足を経験する。分類は後から共通利害を作る。


Asian Americanは分かりやすい例である。Chinese、Japanese、Korean、Filipino、Vietnamese、Indianなどの人々が、出身社会で一つの政治共同体だったわけではない。しかし米国でAsianとして一括され、似た差別と外部者扱いを受ければ、共通の問題を持つようになる。


二〇一六年選挙前後のAsian Americanを調べた研究では、Trumpの反移民、反Asianの言説と選挙後に、pan-ethnicなlinked fateが高まり、一年後も高い状態が続いた。Linked fateとは、自分の生活機会が同じ集団の人々の運命と結びついているという認識である。研究者は、差別への恐れとTrumpへの言及が上昇の一部を説明すると報告した。


Latinoについても、集団および移民とのlinked fateを調べた研究がある。二〇一六年の共同選挙後調査を使った分析では、Latinoとしてのlinked fateと移民とのlinked fateのどちらも、政治参加の多さと正の関連を持っていた。分類された人々がいつも連帯するわけではない。しかし共通の扱いが、連帯を合理的で切実なものにする場合は確かにある。


因果の流れは一本ではない。


外部からの分類

→ 共通の扱い

→ 共通の不利益と利害

→ 自己認識

→ 政治的連帯


政治組織とメディアがその連帯を制度へ定着させれば、社会はさらに同じ分類を使うようになる。分類とgroupnessは互いを強める。連帯は自然ではないが、恣意的でもない。人々が共通に受けた扱い、共通の利害、それを言葉にする組織に支えられている。



成功した連帯の忘却


政治運動の初期には、「私たちは異なるが、この問題について利害を共有する」という提案が必要になる。共通の差別を名指しし、出身国や階級の違いを越えて協力する理由を示し、組織と資源を集める。pan-Latinoな連帯も、pan-Asianな連帯も、その仕事を通じて形成された。


運動が成功し、分類が国勢調査、教育、報道、政党、代表制へ埋め込まれると、形成の過程は日常から消えていく。「この争点で協力する」が「私たちは一つの集団だ」へ変わり、やがて「同じ集団だから連帯するのは当然だ」と理解される。最後に残るのが「連帯すべきだ」という義務である。


ここで説明の非対称性が生まれる。Latinoが移民擁護を支持したときは、Latinoだからという説明で終わりやすい。移民規制を支持したときは、白人性への接近、自己嫌悪、同化願望、地位不安などの特別な説明が求められる。後者の仕組みが現実に働く場合はある。問題は、前者の連帯が説明なしで自然とみなされることだ。


なぜMexican American citizenがGuatemalan migrantと連帯するのか。共通の言語、差別経験、移民の家族史、宗教、米国から一括して扱われた経験、政治組織の働きが考えられる。どれも調べるべき経路である。連帯しない人だけでなく、連帯する人にも歴史がある。


映画や漫画で、被抑圧集団の人物が支配する側へ協力すると、野心、金、自己嫌悪、傷、洗脳などの来歴が与えられやすい。一方、自集団と連帯する主人公には、同じ厚さの由来が要らない。この仮説は魅力的だが、まだ作品や報道を体系的に比べる必要がある。「大衆文化はいつもそうだ」と広げず、どちらの行動に説明が付されているかを具体例で確かめたい。


成功した連帯は、その成立史を忘れさせる。ここにこの記事の中心がある。



忠誠と行為責任


連帯義務を疑うと、ICEの行為を免責する議論に読まれる恐れがある。だが、属性への忠誠と具体的な行為の責任は別である。


LatinoのICE職員を「LatinoなのにLatinoを取り締まった」と非難する場合、批判は同族への忠誠を前提にする。これに対し、違法な拘束、不当な暴力、人権侵害、権限の濫用に加担したと批判するなら、職員の民族に関係なく成立する。後者では、誰がどんな権限を使い、どれほど選択の余地があり、誰へどんな損害を与えたかを調べる。


「裏切り者」という言葉は、これらを一語にまとめる。便利だが、雑でもある。集団への忠誠を破ったことと、他者へ不当な害を与えたことを分けないからだ。


同じ問題は、後から確立した民族的忠誠を過去へ投影するときにも起きる。民族国家が十分に成立していなかった時代の人々は、王朝、身分、地域、宗教、家族、職業など複数の忠誠を生きていた。後世の民族主義が、あらゆる協力、適応、生存の選択を一つの民族的裏切りとして再分類することがある。ただし、この区別は植民地支配や抑圧への具体的な加担を中立にするものではない。何に忠誠を負ったかと、何をしたかは別に評価できる。


属性に基づく忠誠倫理を弱めることは、行為責任を弱めない。むしろ忠誠の一語を外すことで、具体的な責任を厳しく問える。



「なぜLatinoが」の後


Bobadillaは、Latinoによる反移民政治を逆説として扱うのをやめようと結んだ。その主張は正しい。Latinoの反移民政治には長い歴史があり、労働市場の利害、米国人としての帰属、地位、安全、地域の職業機会、右派の条件付き包摂が重なってきた。


その先で問いを反転できる。


なぜLatinoがLatinoと連帯しないのか、と問う前に、なぜ私たちは両者を同じ政治共同体の一員と考えたのか。分類から自己認識、利害、連帯、義務までのどこを、誰が、どの制度と経験によってつないだのか。


この問いはLatinoに限らない。「女性なのに」「労働者なのに」「移民なのに」「Asianなのに」という言葉にも、同じ跳躍が入り得る。外部から同じ属性に分類された人々が、互いを仲間と認め、共通利害を見いだし、政治的に連帯し、さらに連帯義務を負う。そのどの段階にも理由が要る。


カテゴリーを捨てる必要はない。統計、差別の把握、政策、代表、集合行動には分類が要る。外部から同じ扱いを受けることで、カテゴリーが現実の共通利害を作ることもある。


だからこそ、カテゴリーと共同体を同じものとして扱ってはいけない。政治は既に存在する「われわれ」の利益を代表するだけではない。誰を「われわれ」と呼ぶかを作り、その呼び名を制度へ残す。成功した後ほど、その仕事は見えにくい。


LatinoのICE職員が奇妙に見えたなら、当人の心理だけをのぞき込む前に、自分がどの連帯を自然だと思っていたのかを確かめた方がよい。矛盾は、制服を着た人物の中にだけあるわけではない。私たちが使うカテゴリーの継ぎ目にもある。



 

ポイント整理


  • Guardianが示した長期史

    • Latinoの反移民政治はTrump時代の例外ではない。既存労働者と新規移民の利害対立、同化戦略、Proposition 187、国境地域の政治変化が連続している。

  • 帰属説と経済的動機の比較

    • Bobadillaは帰属、地位、安全を重く見る。CortezのICE職員への聞き取りは安定雇用などの経済的動機を重く見ており、心理的な説明を唯一の深層原因にできない。

  • 五段階の分離

    • 外部からの分類、本人の自己認識、実際の利害、政治的連帯、連帯義務は別の問題である。各段階をつなぐ制度、経験、組織、規範を説明する必要がある。

  • 分類から連帯への逆方向の因果

    • 分類は名札にとどまらない。同じ差別や政策の対象にされることで共通利害とlinked fateが生まれ、外部カテゴリーが実際の政治共同体へ変わることがある。

  • 忠誠と責任の切り分け

    • 同族への忠誠を拒んだことと、不当な制度や人権侵害へ加担したことは別である。属性に基づく非難を外すことで、具体的な権限行使と損害を精密に評価できる。



キーワード解説


【Groupism】

民族、人種、国民などのカテゴリーを、境界が明確で内部が均質な集団や集合的主体として扱う傾向。Brubakerは、カテゴリーの存在から集団性を仮定せず、groupnessが強まる条件を説明するよう求めた。


【Pan-ethnicity】

Mexican、Puerto Rican、CubanをLatinoやHispanicにまとめるように、複数の出身国集団を包む広い民族カテゴリー。行政分類だけでなく、活動家、メディア、政党、市場、本人の自己認識によって形成される。


【Linked fate】

自分の生活機会や将来が、同じ人種・民族集団の人々の運命と結びついているという認識。共通の差別や政治的脅威が強めることがあり、政治参加にも関係する。


【人種的再分類】

移民が、出身社会とは異なる人種分類の中へ置かれること。本人の自己認識が直ちに変わるとは限らないが、米国で受ける扱いと制度上の位置は変わり得る。


【連帯義務】

同じ属性の人々は互いに連帯すべきだという規範。実際に連帯が存在するという観察からは自動的に導けず、互恵、共通の危険、集合行為、公正、反支配などの根拠が別に要る。



本稿を素材として対話形式で再構成した記事も、近日中にnoteに掲載予定です。
ご関心を持っていただけましたら、note上でご感想などお聞かせいただけると幸いです。
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