市民を細らせる成長──「無用」で閉じずに、それを拒む
- Seo Seungchul

- 7月5日
- 読了時間: 14分

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事:Brandon Kochkodin, "AI And The End Of Recessions As We Know Them" (Forbes, 2026年5月28日)
概要: AIによって企業の生産性と利益が伸びても、雇用がそれに連動しない経済が現実になれば、GDPの成長を経済の健康とみなす従来の見方が崩れる。AIは次の不況ではなく、統計上は好況に見えるのに多くの家計が豊かにならない状態を生むかもしれない、と論じる。
「経済は好調です」。政府や専門家がそう告げるとき、その言葉と自分の暮らしのあいだに、埋めがたい距離を感じる人が増えている。GDPは伸び、株価は最高値を更新し、企業は過去最高益を出す。それでも多くの人は、仕事の先行きや老後に、むしろ不安を深めている。この奇妙なずれは、これまで景気の善し悪しを測ってきた物差しが、現実を捉えそこねはじめた兆候なのかもしれない。
AIをめぐる不安は、しばしば「仕事が奪われるのか」という問いとして語られる。だが本稿の見立てでは、本当に問われているのは、その手前にある。問題は、仕事が消えるかどうかだけではない。近代社会において労働が担ってきた、もっと広い働きが弱まることにある。以下では、まずこの問題を鮮やかに切り出したForbesの記事の論旨を追い、そこから議論を、雇用の問題から民主主義の土台の問題へと広げていきたい。
意気消沈した億万長者
シタデルという巨大ヘッジファンドを率いるケン・グリフィンは、二〇二六年一月のダボス会議で、AIの出力を「ガラクタ」と切り捨てていた。ところが数か月後、彼の態度は反転する。自社のAIが、社員なら数週間から数か月を要する複雑な仕事を数時間でこなす様を目にしたからだ。そして彼は、喜ぶどころか、意気消沈して帰宅したという。
この逸話が象徴的なのは、シタデルが知性そのものを売る企業だからである。従業員の四割以上が上級学位を持ち、博士だけでおよそ二百七十人、ソフトウェアエンジニアの年収の中央値は五十万ドルを超える。機械化からもっとも遠いと信じられてきた高度な知的労働の牙城で、代替の可能性が初めて現実味を帯びた。グリフィンが直面したのは、コスト削減という朗報である前に、自分たちの知性の値札が静かに書き換わる予感だった。
危機を測るための物差し
彼の不安を、より大きな枠組みに置き直してみよう。私たちは何をもって、経済が健康だと判断してきたのか。多くの場合、その答えはGDP、国内で生み出された価値の総額である。これが伸びれば成長、しばらく縮めば景気後退に近い。そうした了解のもとで、戦後の経済は運営されてきた。
だが、この物差しはさほど古いものではない。クズネッツ(Simon Kuznets)がGDPを体系化したのは一九三〇年代、大恐慌の被害を数量的に把握するためだった。皮肉なことに、生みの親自身が早くから警告していた。一国の所得の大きさから、その国民の福祉を推し量ることはほとんどできない、と。物差しは生産の量を測るのであって、暮らしの質を測るものではない。
それでもGDPが健康の代理指標として機能してきたのは、生産の増減と、雇用や所得の増減が、長らく同じ方向に動いていたからにほかならない。一九五〇年から二〇一〇年まで、アメリカはおよそ十回の景気後退を経験した。原因は石油危機から住宅バブルの崩壊までさまざまだが、形は共通していた。企業の利益が落ち、GDPが縮み、失業が増え、家計が苦しくなる。経済が病むとき、統計も暮らしも同じ方向に沈んだ。だから、一本の物差しで足りていたのである。
崩れる連動
その連動が、二〇〇八年以降ゆらぎはじめる。金融危機後、コロナ禍の短い急落を別にすれば、アメリカは伝統的な不況をほとんど経験していない。景気は記録的な長さで拡大した。しかしその間も、株価やGDPが伸びる一方で、住宅や医療や教育の費用は賃金より速く上昇した。数字と実感のずれは、すでに始まっていたのである。
Forbesの記事は、このずれをAIがさらに広げうるとして、対照的な二人の経済学者を並べる。ルーズベルト研究所のマドウィッツは、経済には奇妙な状態を言い表す言葉がまだ足りない、と指摘する。一九七〇年代にインフレと失業が同時に生じたとき、それを捉える言葉は後から「スタグフレーション」として与えられた。同じように、強い成長と高い失業が同時に立つ状態にも、まだ名前がない。名前のないものを、私たちはうまく考えられない。
彼のもう一つの指摘は、労働分配率に及ぶ。生み出された富のうち、およそ三分の二が賃金として働く人に、残りが資本の側に配分されてきた。この比率の安定を、多くの経済モデルは前提として組み込んでいる。だが前提とは、証明ではない。マドウィッツはそれを自然法則ではなく歴史の産物とみなす。AIによって少ない人手で多くを生産できるようになれば、果実はより資本の側へ偏りうる。三分の二という数字が守られる保証は、どこにもない。
これに対し、RSMのブルスエラスは楽観の側に立つ。彼は電話交換手だった母を引き合いに出す。技術の進歩でその仕事は消えたが、母は医療の分野へ移り、経済は成長を続けた。技術革新はつねに雇用への不安を呼び、そのたびに新しい産業と仕事が現れてきた。誇大広告を鵜呑みにするな、というのが彼の戒めである。ここまでが、記事が用意した見取り図だ。以下では、この楽観と懐疑の対立を上から包む問いへと進みたい。
楽観論の死角
「最終的には新しい仕事が生まれる」という楽観は、長い目で見れば、歴史に裏づけられている。だが、この問い方には錯覚が潜んでいる。長期の均衡だけを見て、そこに至る移行を勘定に入れていないのだ。経済史が描くのは終着点だが、人が生きるのは道の途中である。二〇年後に生まれる産業は、いま職を失う個人にとっても、疲弊する地域にとっても、それ自体では答えにならない。
しかも、失われる仕事と新しく生まれる仕事は、同じ場所に、同じ賃金で、同じ社会的な承認とともに現れるとは限らない。高賃金の専門職が減り、不安定な低賃金のサービス労働に置き換わるなら、雇用の数が釣り合っても、その中身は釣り合っていない。数えられるものだけを数えて安心する態度は、この不一致を見落とす。
ブルスエラスの母が救われたのは、医療という受け皿が、ちょうどそこにあったからだ。だが受け皿は、いつも都合よく用意されているわけではない。加えて、AIには過去の自動化とは異なる特徴がある。影響が特定の産業にとどまらず、文章の作成から法務、会計、調査、顧客対応まで、これまで自動化しにくいとされた知的業務に同時に広がっていく。ある産業から別の産業へと労働者が移る、という従来の調整そのものが難しくなりかねない。
交渉力という土台
問題の核心は失業率そのものではなく、労働者が「経済を止める力」を失うことにある。
近代の労働者が持っていた力は、道徳的に認められていたから存在したのではない。労働者がいなければ、工場は止まり、物流は滞り、病院も行政も回らない、というむき出しの事実に支えられていた。ポラニー(Karl Polanyi)が『大転換』で論じたように、労働はもともと商品ではないものを、あたかも商品のように扱うことで市場に組み込まれた。その無理を押し返す力が、労働者の側にはあった。生産に不可欠であるという事実こそが、賃金交渉にも、労働組合にも、福祉国家にも実質を与えてきたのである。
AIがこの不可欠性を掘り崩すとき、失われるのは雇用の数だけではない。押し返す力そのものが、静かに抜けていく。仕事は別の場所へ移せるかもしれない。だが、いったん「いなくても回る」と見なされた人が、交渉のテーブルに戻るのは難しい。
ここから、ひとつの語り口が立ち上がる。生産に要らなくなった人々、という語り口だ。必要とされないのだから、力を持てないのも当然だ、と。だが、この言い方には罠がある。無用という言葉は、欠陥を人の側に貼りつけてしまう。あの人たちは要らない、という話にすり替わるのだ。本稿はそこで踏みとどまりたい。要らなくなったのは、人ではない。人と経済とを結んでいた回路の側が、切れかけている。問題は、無用になった人間ではなく、切れた媒介である。この置き換えは、言葉のあやではない。話の終わり方そのものを、根本から変える。
労働者から市民へ
この「止める力」は、じつは三つの位置に枝分かれしている。労働者は、経済のなかで三つの場所を同時に占めてきた。生産に不可欠な存在としての位置、賃金を通じて需要を支える消費者としての位置、そして経済的自立に裏づけられた市民としての位置である。
三つは別々の機能ではなく、たがいに支え合ってきた。企業が賃金を払い、働く人がそれを使い、その需要がまた企業を潤す。この循環が大衆消費社会の心臓だった。AIによって利益が賃金を経由せずに膨らめば、循環は細る。儲けは出るのに、その儲けが人の手を通らない。そしてもう一方の端では、生活の土台があって初めて、人は社会に対して声を持てるという事実がある。三つの位置が同時に後退するとき、人は「経済に関係のない存在」に近い場所へ追いやられる。
だからこそ、主語は「労働者」から「市民」へと広がらざるを得ない。マーシャル(T. H. Marshall)が論じたように、近代の市民権は、法的権利から政治的権利へ、さらに社会的権利へと積み重ねられてきた。そしてその社会的な層、一定の生活保障を得て社会の一員でありうるという条件は、多くの場合、雇用を通じて充たされてきた。ヴェーバー(Max Weber)の言う支配の正統性が、統治される側の自発的な承認を要するのなら、その承認は、人々が自分もこの社会の一部だと感じられることに支えられている。近代の民主主義は、一人一票の制度だけで立っていたのではない。働き、稼ぎ、納税し、地域や職場でつながるという、分厚い労働社会がその裏にあった。労働という回路が細るとき、危ういのは所得だけではない。承認の基盤そのものが揺らぐ。民主主義は、形を残したまま中身が抜けていく。
富の集中と意味の集中
ここまでは、なお分配の不平等の話である。富が資本の側へ偏るのなら、税と再分配で押し戻す道が見える。だがAIの時代には、もう一段やっかいな事態が重なる。経済力が政治力へ転化する経路に、新しい抜け道が加わるのだ。
献金やロビー活動を通じて富が政治に影響する道は、以前から存在した。AIが異なるのは、人が何を知り、何を重要と考え、どのような言葉で世界を捉えるか、その手前の部分に関わってくることである。検索も、SNSの流れも、ニュースの並びも、やがて行政や教育の中身も、AIが下支えするようになる。ルークス(Steven Lukes)は権力の第三の次元として、人々の選好や、何を問題と見なすかという枠組みそのものを形づくる力を挙げた。AIの基盤を握る者は、まさにこの次元に触れる。富の集中は、意味が形づくられる環境の集中でもある。この二つが同じ手に握られるとき、不平等は分配の問題を超えて、認識の問題になる。
その一方で、暮らしが不安定な人ほど、政治に割ける時間も資金も、つながる仲間も持ちにくい。声を上げる余力が乏しい。こうして経済の格差は、そのまま政治の格差へと移し替えられていく。形式のうえでは一人一票が保たれていても、実質的な影響力は大きく偏る。ここにおいて、AIの問題はもはや経済政策の枠に収まらない。それは、民主主義がその土台をどこに置くのか、という問いに変わる。
媒介機能の引き直し
ここで、さきほど保留した反転が効いてくる。もし人が本当に無用なのだとしたら、行き着く先は二つしかない。静かな諦めか、持てる者の善意によって配られるわずかな施しか。どちらも、要らなくなった人間をどう遇するか、という問いの内側にとどまっている。だが、切れかけているのが人ではなく回路の側だとすれば、答えの向きが変わる。人は取り替えられないが、回路はつなぎ直せる。だからこの先の話は、施しの設計ではなく、つなぎ直しの設計になる。
では、かつての労働中心の社会へ戻ればよいのか。そうではない。アーレント(Hannah Arendt)が労働と仕事と活動を区別したように、人間の生は賃労働に尽きるものではない。労働中心社会は、人の価値を職業で測り、無償のケアを軽んじ、職を持たない者を一段低く扱ってきた。あの社会への回帰は答えにならない。
守るべきなのは、労働そのものではなく、労働がたまたま担ってきた媒介の機能である。生産への参加、所得、社会的な承認、他者とのつながり、そして政治的な発言。これらを雇用という一本の回路だけに背負わせてきたことこそ、いま問い直されている。回路が細るのなら、別の回路を引き直すしかない。
その方向は、少なくとも三つある。
分配の回路
増えた生産力を、賃金という一本の管だけに頼らず、人々の購買力へ変える回路をつくる。給付付き税額控除や負の所得税で、働くことと所得の結びつきを少し緩めること。AIがあげた利益に課税し、その一部を社会に配当のように還すこと。医療や教育や住宅といった生活の基盤を、現金給付だけでなく現物のサービスとして厚くすること。どれも既存の制度の延長線上にあり、部品としては明日にでも試せる。
所有の回路
AIの果実が資本の側に偏るのは、そもそもモデルやデータや計算資源を一部の企業が握っているからだ。ならば、その所有そのものに市民を噛ませればよい。公共の基金がAI企業の持ち分を保有し、その配当を国民に配る北欧の政府系ファンドのような仕組み。人々が生み出したデータの価値を、使った企業から利用者へ還すデータ配当という発想。地域や職能の協同組合が共同でAIを持ち、その恩恵を組合員で分け合うかたち。国が資金を出した基礎研究の成果を、特定企業の独占にせず社会へ戻す設計。いずれも、生産への関与を雇用以外のかたちで取り戻す試みである。
参加の回路
経済力がそのまま政治力へ化けないよう、両者のあいだに絶縁体を挟む。選挙資金の規制やロビー活動の透明化は、その古典的な部品だ。AIの時代には、もう一歩要る。無作為に選ばれた市民が専門家の助けを借りて熟議し、政策に助言する市民会議のような場を、制度の中に組み込むこと。そして、政治に関わる重みだけは、金で買えるものにしないという一線を引くこと。政治的な発言力を、市場で取引される財の外側に置く。この原則こそが、AI資本の集中が政治の集中へ直結するのを食い止める、最後の防波堤になる。
これら三つは、別々の政策メニューではない。貫く原理はひとつだ。AIが増やした生産力を、資本の内側に閉じ込めず、市民の生活する力・持つ力・声を上げる力へと変換し直すこと。分配は生産力を購買力へ、所有は資産と配当へ、参加は政治的な発言力へと、それぞれ翻訳する。どれか一つでは足りない。分配だけなら人は消費者にとどまり、所有と参加まで届いて初めて、市民は経済と政治の主体に戻る。
むろん、これらは完成された処方ではない。制度の細部も、国ごとの事情も、これから詰めるほかない。それでも、問いを立てたまま手を止める段階は、もう過ぎている。問いは、こう組み替えられる。AIは仕事を奪うのか、ではない。労働を媒介にしない生産力の時代に、市民はいかにして経済的・社会的・政治的な力を持ち続けるのか。統計のうえでは、その社会は繁栄して見えるだろう。企業の利益は高く、株価は上がり、技術は進み続ける。しかし成長のグラフが伸びていく、そのすぐ内側で、人が一人ずつ抜け落ちていくとしたら、それは誰の繁栄なのか。AI時代の最大の危機は、仕事がなくなることではない。成長の中から市民が消えていくことである。そして、その流れを押しとどめられるかどうかは、いま挙げたような部品を、私たちがどう組み上げるかにかかっている。
ポイント整理
GDPは危機を測るために生まれた
クズネッツが大恐慌のさなかに作った指標であり、生産の量を測るもので、暮らしの質を測るものではない。生みの親自身がその限界を早くから警告していた。
従来の不況は、統計と実感が同じ方向に沈んだ
利益・GDP・雇用・家計が同時に悪化するのが不況の顔だった。だから一本の物差しで足りた。AI時代には、この連動が切れる可能性がある。
問題は失業率ではなく、交渉力の喪失
労働者の力は、生産に不可欠だという事実に支えられていた。不可欠でなくなれば、賃金交渉も労働組合も福祉国家も、その土台を失う。
労働者は三つの位置を同時に失いうる
生産者・消費者・市民という三つの位置は、たがいに支え合ってきた。同時に後退すると、人は生産からも消費からも政治からも押し出される。
富の集中は、意味の集中でもある
AIの基盤を握る者は、人々が世界を捉える枠組みにも影響を持つ。経済の格差が政治の格差へ、さらに認識の偏りへと転化していく。
守るべきは労働ではなく、その媒介機能
労働中心社会への回帰ではなく、生産参加・所得・承認・政治参加を担い直すこと。分配・所有・参加という三つの引き直しが要る。
キーワード解説
【労働分配率】
生み出された付加価値のうち、賃金として労働側に分配される割合。二〇世紀を通じておよそ安定してきたため経済モデルの前提とされてきたが、歴史的な条件の産物であり、生産の構造が変われば崩れうる。
【スタグフレーション】
景気の停滞と物価の上昇が同時に進む状態。従来の理論では説明しにくく、一九七〇年代の経験を経て概念として定着した。新しい経済状態には名前が後から与えられる、という例として本文で参照した。
【大衆消費社会】
賃金を得た多数の人々の消費が、経済全体の需要を支える社会のかたち。企業の支払う賃金がコストであると同時に、需要の源泉でもあるという循環に立脚する。
【権力の第三次元】
ルークスが提示した権力の捉え方。争点の勝敗や議題設定にとどまらず、人々の選好や「何を問題と見なすか」という認識の枠組みそのものを形づくる作用を指す。
【市民権の社会的層】
マーシャルが整理した市民権の発展段階の一つ。法的権利・政治的権利に続き、一定の経済的保障を得て社会の一員でありうる権利を指す。多くの社会で、この層は雇用を通じて充たされてきた。