技術と知識と秩序の話──トランプ政権によるハーバード攻撃の奥にあるもの 《その1》
- Seo Seungchul

- 7月10日
- 読了時間: 10分

シリーズ: 行雲流水
「なんであんな人が支持されるの?」
「どうしてこんなに“正しさ”が通じないの?」
ニュースを見て、そんな違和感を覚えたことはないでしょうか。
トランプ政権がハーバード大学の留学生受け入れ資格を即時剥奪する──というニュースも、一見すると「またトランプのポピュリズムか」と片づけたくなるかもしれません。
でも本当に、それだけでしょうか?
ポピュリストの扇動と“愚かな大衆”という分かりやすい構図の裏で、もっと深く、静かに進行している変化があるように思います。
それは、「知」が信じられなくなりつつあるということ。
今回の富良野とPhronaの仮想対談では、
技術と知識と秩序の話──トランプ政権によるハーバード制裁の奥にあるもの
と題して、ハーバード制裁のニュースを入り口に、反知性主義、ポスト真実、そして現代における「知」の変容について、二人がじっくり語り合います。
──それは、本当に“あの人たち”だけの問題なのか?
ぜひ、一緒に考えてみてください。
富良野: Phronaさん、トランプ政権のハーバード大学への制裁措置のニュース見ました?正直、かなりびっくりしましたよ。
Phrona: ああ、国土安全保障省がハーバードの留学生プログラムへのアクセス取り消すって件ですよね。
富良野: そうそう。事実上、外国人学生の受け入れ停止ですからね。ハーバード側は当然「法と言論の自由の明白な侵害」って猛反発してるし。米連邦地裁が仮差し止め命令出したけど。
Phrona: ホワイトハウスの言い分は「反ユダヤ主義への対応を怠ってる」「入学方針見直せ」ってことでしょ?でも、これって単なる教育政策の話じゃないですよね。
富良野: そうなんですよ。表面的には大学と政権の対立に見えるけど、実はもっと深い問題の象徴だと思うんです。
Phrona: 確かに、単なる行政上の措置というわけではなさそうですね。リベラルな名門大学を狙い撃ちにして、教育機関全体にプレッシャーをかけているように見えます。ハーバードは学生の4分の1が外国人なので、移民規制へのアピールという意味合いもあるでしょう。政治的で象徴的な意図がかなり強いと思います。
富良野: 「反エリート」という旗印を掲げて、「特権的な大学が庶民の価値観を無視している」という感情をうまく煽っているんでしょうね。
Phrona: まさにその通りで、典型的な反知性主義の事例ですよね。
富良野: その「反知性主義」という言葉、最近よく耳にするようになりましたけど、必ずしも現代特有の現象というわけではないですよね?
Phrona: ええ、そうですね。歴史学者のリチャード・ホフスタッターは、アメリカにおける反知性主義の伝統を研究しています。彼によれば、ピューリタン的な伝統やフロンティア精神に由来する「信仰」と「実践」を重視する価値観に加えて、実用性を優先する教育制度や感情に訴える大衆迎合的な政治が融合した結果、専門的な知識が軽視され、知識人や専門家が敵視される傾向が生まれたということです。
富良野: でも、それってアメリカの話だけに限定してしまっていませんか?もっと世界的な現象だと思うんですけど。
Phrona: ええ、確かにそうですね。今の日本にも同じような傾向がありますし、歴史を振り返れば世界中で広く見られる現象です。
富良野: 中国の文化大革命では知識人を「臭老九」と呼んで農村に送りましたよね。ポル・ポト政権に至っては、眼鏡をかけているだけで知識人認定して殺害したぐらいですから。
Phrona: それらは、いわゆる「反知性主義」とは似て非なるものじゃないかと思います。我々が話している現代の反知性主義は、専門的な知識や権威を持った知識人に対する一般大衆の感情的な反発や懐疑的な態度が社会に広がる現象を指しますが、文化大革命やポル・ポト政権のような例は、全体主義的な支配のために、政権にとって邪魔な知識人を排除するトップダウン型の抑圧です。
富良野: トランプ政権がハーバードを標的にしたのは、その二つが重なったケースと言えるんじゃないでしょうか?政権側の政治的意図と、大衆の反エリート感情が見事に噛み合っている訳でしょう。
Phrona: そうですね。いずれのケースでも共通しているのは、「知」が政治やイデオロギーと切り離せない状態になっていて、「どの知識が正しいのか」「誰がその正しさを決めるのか」という問いが、政治的対立の核心になっているという点です。
富良野: でも、そう考えると…反知性主義って単純に「悪」として片付けていいんでしょうか?むしろ、専門家の言うことを無批判に信じてしまう方が危険な場面だってある。
Phrona: それは重要な指摘ですね。専門家だって間違えるし、しばしば利害の当事者でもありますから。
富良野: でしょ?たとえばワクチンを疑う人たちにしても、必ずしも科学的情報を知らないわけじゃなくて、製薬会社の利益構造とか、国家が過去にやってきたこととか、そういう背景を踏まえて「自分なりに合理的に」考えているケースもある。
Phrona: なるほど。つまり反知性主義って、制度化された知の合理性と、生活経験や信念に根ざした「もう一つの合理性」との衝突なんですね。
富良野: まさにそこなんですよ。問題は、「どの合理性が“正しい知識”として承認されるか」という、知の承認をめぐる政治なんだと思う。
Phrona: だとしたら、反知性主義を単に「非合理だ」と断じてしまうのは、かなり乱暴ですよね。むしろ、情報環境がここまで激変した現代では、それは起こるべくして起きている、ごく自然な反応とさえ言えるのかもしれません。
富良野:確かにインターネットが登場して、「知」のあり方自体が変わってしまいましたよね。
Phrona:そうですよね。単に情報量が増えたり、検索やAIで便利になったという話ではなくて、もっと深いところで「何が正しいのか」とか、「誰の言うことを信じるべきか」という社会の前提そのものが揺らいでいる感じですよね。
富良野:それって実は、情報技術に大きなイノベーションが起きるたびに、社会における「知」や「真実」の作られ方も変化してきたという、もっと長い歴史の中にある大きなパターンだと思うんですよ。
Phrona:どういう意味ですか?
富良野:まず一番古い時代として、「口承と神話の時代」がありましたよね。その頃の真実っていうのは、共同体の中で語り継がれる物語や儀式にあって、疑う対象じゃなくて信じる対象だったわけです。
Phrona:そうですね。長老が語る言葉や、神話として伝えられる話がそのまま真実だった。文字もないから、記憶と儀礼が「知」を支えていましたよね。
富良野:でも、そこに「記録文字」が登場して大規模な文明が成立する。四大文明の時代になると、文字は税の記録や神託の保存、王命の伝達といった「支配と管理の道具」として使われ始めましたよね。それに加えて算術の体系化も進んで、土地の測量や人口管理、税制度など「定量的な統治」が可能になりました。
Phrona:なるほどですね。文字と数字が揃うことで、統治は一時的な命令ではなく、継続的で広域的な制度として安定することができたということですね。
富良野:そうです。これは一種の「抽象的秩序の誕生」と言えると思います。記憶ではなく記録に、関係性ではなく制度に、秩序の根拠が移っていった。それを可能にしたのが文字と数字という「情報技術」のイノベーションだったんです。
Phrona:でも、その時代はまだ一部の支配層だけのものだったんですよね。文字が読める人も限られていたし、知の正統性が「神が言った」とか「王が記した」という形で固定されていたわけですからね。
富良野:はい。で、次の大きな転換期は、紀元前8世紀から紀元前2世紀くらいの間に起きました。中国では諸子百家、インドでは仏教、ギリシャでは哲学が花開きましたよね。それぞれが独立していて、お互いほとんど影響を受けていないのに、同じ時期に一気に思想が発展したんです。
Phrona:ああ、それって哲学者のカール・ヤスパースが言う「枢軸時代」ですね。600年くらいの期間だから、私たちの感覚からすると結構長いですけど、人類史全体で見れば一瞬ですよね。それまで何千年も神話や呪術の世界だったのに、急に倫理とか論理、内省のような普遍的なことを追求し始めたんですから、不思議ですよね。ヤスパース自身も「なぜ世界のあちこちでほぼ同時にこうした動きが始まったのか謎だ」と言ってますけど、富良野さんはどう思います?
富良野:私は、文字体系の標準化と普及が非常に大きな要素だったんじゃないかと思うんですよ。例えば、フェニキア文字からアラム文字への発展、ギリシャ文字での母音の導入、中国での文字の統一などですね。この時期に文字が単なる記録の道具から、思考や内省を深めるためのツールへと変わっていったんじゃないでしょうか。
Phrona:でも、それってちょっと技術決定論すぎませんか?思想的な革命を文字だけで説明するのは難しいんじゃないかなと思うんですが。
富良野:確かにそうですね。もちろん文字だけで全部説明できるわけではありません。当時の社会が複雑化して都市が発展し、異なる価値観や利害がぶつかり合う中で、「何をどう考えるか」を整理し、言葉で構造的に表現する必要が生まれたという背景があります。そこに文字が標準化され、普及していった。安定した文字体系が整備され、多くの人に共有されるようになったことで、個々の発言や記録が再読や比較、批判の対象になっていったんです。その結果、文字は単なる記録手段から、深い思考を助ける道具へと進化したんだと思います。
Phrona:ああ、なるほどですね。自分の考えを文字にして「読み返す」という行為が、思考そのものを深化させて、抽象的な思考や歴史意識を生み出したわけですね。文字が思考を支える「OS」みたいな役割を果たして、それがヤスパースが言った「内からの突破」につながったってことですね。
富良野:そうなんです。しかもこの変化は、統治のあり方にも影響を与えましたよね。それ以前は神話や「王の血統」によって支配の正統性が担保されていたけど、枢軸時代以降は「統治者は倫理的にふるまうべきだ」とか、「法は理性に従うべきだ」といった考えが現れました。つまり、徳や法、理念に基づいた統治の思想が出てきたんです。この変化は、アショカ王による仏教の保護や後のローマ帝国によるキリスト教国教化にもつながっているのかもしれません。
Phrona:中国では儒教の「徳治主義」、ギリシャでは法と市民の議論を中心に運営されるポリスもそうですね。この時期に支配や統治が単なる力によるものではなくなり、その正統性そのものが社会的に議論され、問われるようになった。
富良野:まさしく。重要なのは、この変化が社会的に認められる「知」や「真実」の基準そのものも変えたことです。それまでは特定の権威者の言葉を無条件に受け入れることが当たり前だったのに対して、この時代以降は真実や知識を議論や批判的な検証を通じて公共的に形成していくプロセスが生まれました。これが、民主主義的な政治形態や哲学的、科学的な探求の基盤にもつながっていったと思います。
Phrona:確かに。知識や真実を公共的な議論で形成するには、異なる意見を調整して、より妥当で合理的な結論を導き出す方法が必要になりますよね。それが哲学や科学の方法論を発展させる土壌となったということですよね。
富良野:そうですね。こうした公共的な議論が社会に根付くことで、知識は常に批判的に検証され、更新されるようになりました。その結果、論理的・批判的思考が普及し、科学的探求を推進する文化が形成されたわけです。この転換が、その後の社会や学問の発展に大きな影響を与えました。
Phrona:つまり枢軸時代は、「神話的権威」に基づく知と真実から、「理性と論理で探究される普遍的な知と真実」への大きな転換点だったんですね。この変化が今日の科学、哲学、そして民主主義など、私たちの現代社会の基盤になっていると考えると、本当に重要な時代だったと言えますよね。

