技術と知識と秩序の話──トランプ政権によるハーバード攻撃の奥にあるもの 《その3》
- Seo Seungchul

- 7月10日
- 読了時間: 10分

シリーズ: 行雲流水
技術と知識と秩序の話──トランプ政権によるハーバード攻撃の奥にあるもの
と題し、トランプ政権の言動を通じて浮かび上がった「反知性主義」というテーマをめぐって、富良野とPhronaが展開してきた仮想対話。
前回は、電信技術が社会に「情報完璧主義」をもたらし、帝国主義時代の中央集権的統治を可能にしたという話になりました。今回は、近代マスメディアの誕生と、それが社会統治に与えた影響について話し合います。
富良野:先ほどPhronaさんがロイター通信について触れましたが、近代的なマスメディアの誕生は電信技術と切り離せない関係にありますよね。電信技術以前にも新聞はありましたけど、全国各地の新聞社が同じニュースをほぼ同時に受け取って、それを掲載・印刷できるようになったのは、電信技術のおかげです。
Phrona:そうですね。「不特定多数の人々に大量の情報を同時に発信する」ことがマスメディアの本質ですから、本格的なマスメディアの登場は電信技術以降だと言えますね。
富良野:それまでは各地方の新聞がそれぞれ独自のニュースを扱っていたわけですが、電信の普及で「全国共通のニュース」が登場しました。その結果、通信社という新しいビジネスモデルが生まれたんですよね。AP通信、ロイター通信、AFP通信などが、情報の中央集権化を進めました。
Phrona:ただ情報が特定の通信社に集中すると、その通信社の視点や判断が全国に広がるというリスクも出てきますよね。偏向報道や情報操作といった問題も避けられません。
富良野:まさにその通りです。実は、事実だけを伝える「客観報道」という理念がこの時期に形成されたのも、そういった問題への対応策だったと思うんですよ。
Phrona:ということは、それ以前の新聞には客観報道という概念はなかったんでしょうか?
富良野:当時は「中立性」や「客観性」という考え方自体が希薄で、新聞は特定の政治的主張を広める手段でした。19世紀前半のアメリカには、フェデラリスト系やジェファーソン共和党系といった「党派新聞」が多くありました。でも、電信技術の普及で通信社が全国的に情報を配信するようになると、特定の党派色が強い情報は受け入れられにくくなったんですね。そこで、「誰にでも受け入れられやすい客観的報道」というスタイルが生まれました。
Phrona:なるほど。そう考えると、現代のメディア状況は、電信技術以前の状況に戻ってきているような気もしますね。ただ、「客観的事実」というものは、本当に存在するのでしょうか?誰かが情報を選び、書いている以上、完全な中立というのはあり得ない気がします。
富良野:おっしゃる通りです。完全に客観的な報道は現実には難しく、ある種の理念やフィクションだと言えます。ただ、このフィクションが近代社会にとって非常に重要だったんですよ。
Phrona:それはどういう意味ですか?
富良野:マスメディアによって全国に同時に同じ情報が伝わり、多くの人々がそれを「客観的な事実」として共有できるようになりました。これにより全国規模で共通の話題が生まれ、「国民」という共通認識や「国民的世論」が形成される基盤となったのです。こうした現象は、不完全でも「客観報道」という理念があったからこそ成立したとも言えるでしょう。
Phrona:そこでは、19世紀初頭にフンボルトが大学理念を提唱した後、「知識の生成」を担う専門機関として発展した大学制度も重要な役割を果たしましたよね。
富良野:ええ、それは大事なポイントです。フンボルトが掲げた「研究と教育の統一」や「学問の自由」といった大学モデルは、専門的知識を体系化し、社会的に信頼される「専門家」という存在を生み出したんですよね。
Phrona:その結果、査読や学位制度で品質保証された専門知識が、大学を「真実」を認定する権威的な機関にしたわけ。
富良野:はい、さらに大学が「知識の生成」を担当し、マスメディアがそれを一般社会に広げるという役割分担が定着しました。これは20世紀の知識秩序を形成する上で極めて重要でした。
Phrona:つまり、それまで宗教や国家が握っていた知識の社会的権威が再編成され、大学やマスメディアが新しい権威として登場したということでしょうか?
富良野:はい、ただ大学とメディアが新たな権威となったといっても、完全に国家から独立していたわけではありません。むしろ国家と大学、メディアは緊張関係を保ちながら共存してきました。
Phrona:国家は大学やメディアを支援しつつも統制しようとし、逆に大学やメディアは国家の権力に対する批判的なチェック機能を果たす。その微妙なバランスの中で、20世紀の知識秩序や統治の正統性が形作られていったわけですね。
富良野:その通りです。マスメディアの時代になって、「民意」が統治の正統性の主役に躍り出て、政治家は「説得」や「アピール」といったコミュニケーション手法を駆使するようになりました。しかし一方で、プロパガンダの道具として利用されるリスクも生まれました。
Phrona:ヒトラーのラジオ演説やルーズベルトの炉辺談話など、メディアを使った大衆政治の手法が20世紀を通じて広まったのもその一例ですよね。
富良野:はい。同一の情報が多数に同時に伝わる「真実の標準化」は、統治を効率化しましたが、多様な意見を排除する側面も持っていました。統治側にとっては非常に便利ですが、民主的な議論や多様な価値観の尊重という観点から見ると、大きな課題を抱えていたのも確かです。
Phrona:近代社会の知識秩序は、大学、メディア、国家の三者が常に緊張しつつ共存することで成り立っていた。そう考えると、私たちが現在目撃している社会的な混乱も、この秩序が揺らいでいる一つの兆候なのかもしれませんね。
富良野:「ポスト真実」とか「反知性主義」って今騒がれているのは、まさにその近代社会の知識秩序が揺らいでいるからですよね。そのトリガーになった情報技術のイノベーションは、もちろんインターネットなわけですが...
Phrona:ただ、インターネットだけが原因というわけではない気もします。実際には、もっと前から既存のマスメディア自体が徐々に商業化し、「客観的報道」という理念から徐々に離れていったことも大きな要因ではないでしょうか。
富良野:それは重要なポイントですね。マスメディアが視聴率や発行部数、広告収入などの商業的成功を追求するあまり、センセーショナルな報道や偏った報道が増えました。そうした積み重ねが、人々のメディアや専門家への根本的な不信感をじわじわと育てたのかもしれません。
Phrona:そして、その蓄積された不信感が、Web2.0のSNSという新しいメディア環境の登場で一気に表面化しました。SNSでは誰でも発信者になれますし、多様な意見や「真実」が可視化されるようになったわけです。
富良野:確かに、SNSが登場した当初、ここまで社会に混乱や分断をもたらすとは予想されていませんでしたよね。具体的には、どのようなメカニズムで深刻な影響を及ぼしたと考えますか?
Phrona:近代的な知識秩序は「正しい情報を正しい方法で処理すれば正しい知識が得られて、その先には唯一の普遍的な真理がある」という前提に基づいていますが、SNSはその前提を根底から揺るがしました。SNSのアルゴリズムが個人の感情や関心に合わせて情報を提示することで、主観的で感情的な情報が客観的な真理と並列に扱われるようになったのが大きいですね。
富良野:とは言え、そうした普遍的真理観が啓蒙主義や科学革命を通じて社会を前進させる重要な基盤だったことも否定できないでしょう。デカルトなどの哲学者や科学者が主観を排除して再現可能な客観的知識を追求したからこそ、科学や技術の進歩が可能になったのですし。
Phrona:ええ、その通りだと思います。ただ、その追究の過程で、日常生活の中で実際に感じたり体験したりする身体感覚や情動、具体的な経験が知識から切り離されてしまい、結果として「知識」が単なる「情報」に矮小化されてしまった側面が大きいのではないでしょうか。そうなると、知識や真実が人々の実際の暮らしや感覚から遠い抽象的なものに感じられてしまい、それが反発や不信感を強める原因になったように思います。
富良野:分かります。例えば近代以前の共同体では、知識や真実は物語や儀礼、宗教的な実践を通じて、実際の生活や情動、身体的感覚と密接に結びついて共有されていましたからね。中世の宗教的な知識体系も、単なる抽象的な理論としてではなく、人々の日常生活や感情、社会的関係や文脈に深く根ざしたものでした。
Phrona:そうなんです。近代に入ってからは、それらが切り離され、知識が抽象的で実感を伴わない「情報」として扱われるようになった結果、単なる記号的操作の対象になってしまったわけです。
富良野:ただ、一方で、その変化が全て否定的な結果だったと決めつけるのも早計でしょう。情報化された知識によって、効率的な意思決定や広範な知識の普及が可能になったという利点も無視できませんよね。
Phrona:確かに効率性や普及性は向上しましたが、それは主に資本主義的な生産性や利便性と相性が良かったために重宝されたという側面が強いのではないでしょうか。効率化や標準化に偏ると、多様な知識のあり方や、それぞれの知識が本来持つ文脈や背景が軽視され、知識自体が単なる消費対象になってしまう危険性もあると思います。
富良野:それは鋭い指摘ですね。ただ、実際問題としてある程度の標準化や効率化がないと、社会全体を円滑に運営・調整していくのは困難だという側面もあります。これは資本主義経済に限らず、近代社会全般がこうした普遍的で標準化された知識体系を基盤として機能している面もありますよね。
Phrona:その通りです。ただ一方で、真理というものは社会や文化の中で形成され、視点や文脈によって異なり得るという認識は、人間にとってむしろ自然であり、古代から多くの哲学や宗教において語り継がれてきました。
富良野:そうですね。人間社会というのは、歴史を振り返ると常に、多様な文脈に根ざした多元的な真理観と、もう一方の、一神教的な世界観や科学革命などを通じて強調されるようになった普遍的な真理観、その二つの間で揺れ動いてきたように思います。ただ、近代の知識秩序の中では後者が圧倒的に主流となり、それがさらに資本主義のインセンティブ構造と結びつくことで、より強固なものになった、と言えるでしょう。
Phrona:ええ。ただ、そうは言っても、その多元的な真理観が決して消え去ったわけではなく、表面的には抑圧される形にはなっても、常に一種のカウンターナラティブとして存続してきたように思うんです。そう考えると、現在のポスト真実をめぐる混乱という現象も、このある意味で古くから存在する多元的な真理観が、現代の特異な情報環境の中で再び強く表面化した結果と見ることもできるのではないでしょうか。
富良野:たしかに、近年インターネットやSNSが発展したことで、多様な考え方や価値観がかつてないほど広範囲かつ急速に表面化してきています。ただ、そうした動きが過度に進むと、社会的な合意形成や共通基盤の構築が難しくなり、結果として社会の分断や対立を招くリスクがありますよね。
Phrona:まさにそこが問題ですよね。プラットフォーム経済では、ユーザーを長く引き留めるためにアルゴリズムを最適化するので、ユーザーの好みや既存の考えに沿った情報ばかりが提示されるフィルターバブルやエコーチェンバーが起きます。さらに、客観的な情報よりも刺激的で感情に訴える情報や未検証の過激な意見が目立つようになり、結果として社会の分断や対立が深まっています。
富良野:その通りですね。アルゴリズムが偏見や感情を増幅させ、極端な意見や陰謀論を広めてしまいます。本来、多様な価値観や意見は、異なる立場の人々が対話し相互に検証することで、より豊かな「知」へと発展するはずです。しかし、現在のSNS環境では、対立や意見の先鋭化ばかりが目立ち、健全な知的交流が難しくなっています。
Phrona:加えて、SNSでは従来の知識や権威に対する根深い不信感が増幅されやすく、反権威的・反知性的な言動が共感を集めやすくなっていますね。
富良野:専門家がSNS上で激しく批判されやすいのは、彼らが示す専門知識が、多くの人々にとって抽象的で、自分たちの生活実感や感情的な経験から遠いものと感じられるからかもしれません。この溝をどう埋めて、専門知と人々の日常的な感覚を再び結びつけていくかが、大きな課題だと思います。

