技術と知識と秩序の話──トランプ政権によるハーバード攻撃の奥にあるもの 《その5》
- Seo Seungchul

- 7月10日
- 読了時間: 16分

シリーズ: 行雲流水
技術と知識と秩序の話──トランプ政権によるハーバード攻撃の奥にあるもの
と題し、トランプ政権の言動を通じて浮かび上がった「反知性主義」というテーマをめぐって、富良野とPhronaが展開してきた仮想対話。
前回は、「反知性主義」が「反知性」の主義主張というより、特定の知識を特権化するような「知性主義」への異議申し立てとして理解されるべきであることを確認しました。また、その議論から、アリストテレスの唱えたフロネーシス(実践知)の重要性に話が及びました。
最終回となる今回は、そのフロネーシスを軸に、これからの時代に求められる新たな知識秩序の可能性をさらに深めていきます。
Phrona:新しい、より豊かな知のあり方を考える上でフロネーシスが重要なヒントになりそう、ということでしたけど、もう少し具体的なイメージがないと前に進めませんよね。単に「実践知が大事です」と言うだけじゃ、結局は現状維持になってしまう気がするんです。
富良野:確かにそうですね。私のイメージでは、近代以降の知識秩序というのはピラミッド型だったと思うんですよ。頂点にエピステーメー、つまり理論的知識があり、その下にテクネー、つまり技術的知識が位置している。そしてフロネーシスは……まあ、正直どこかに追いやられてしまったという印象がありますね。
Phrona:それは私も感じます。でも最近、ちょっと違う印象も持つようになったんですよ。
富良野:ほう?それはどういうことでしょう?
Phrona:実感としては、20世紀後半以降、むしろテクネーのほうがエピステーメーを支配しているように感じるんです。
富良野:なるほど、それは面白い視点ですね。
Phrona:例えば、大学の研究を見ても、「すぐに実用化できるか」「特許取得につながるか」「企業との共同研究が可能か」といった基準で評価されることが多くなっていますよね。純粋な真理探究よりも、技術的成果や経済的利益に直結するものが求められる傾向が強まっているように感じるんです。
富良野:確かにその通りですね。最近は基礎研究への予算が削られて、「イノベーション」や「社会実装」ばかりが強調されている気がします。
Phrona:その背後には資本の論理が働いているんじゃないでしょうか。つまり、テクネーが本来の「技術」そのものというより、「利益を生むための技術」へと変質してしまったのかもしれない。
富良野:ああ、なるほど。そして変質したテクネーがフロネーシスだけでなくエピテーメーも従属させてしまったという印象でしょうか。
Phrona:まさにそんな感じです。ただ、これはあくまで私の個人的な印象に過ぎないのですが…。
富良野:いやいや、それは鋭い指摘ですよ。私自身も見過ごしていました。そのようなピラミッド型の支配と従属の関係を超えて目指すべき新しい知の体系というのは、もっと円環的なイメージなのだと思います。
Phrona:円環的なイメージですか?もう少し詳しく教えてもらえますか?
富良野:つまり、中心にフロネーシスが位置して、その周りをエピステーメーとテクネーが取り囲む構図です。「この具体的な状況において何が善いか」という実践的な判断を軸として、それを支えるために理論的知識や技術的知識を柔軟に動員する――そういうイメージですね。
Phrona:上下関係じゃなくて、本来の相互補完的な関係として捉えるわけですね。でも富良野さん、現実問題として、今の社会でそんな転換が可能なんでしょうか?
富良野:たしかに、一朝一夕には難しいでしょうね。ただ、好むと好まざるとにかかわらず、近い将来この転換を迫られるような状況になると感じています。今の知識秩序は、明らかに限界が見えてきているように思えるんです。
Phrona:「限界」ですか……。例えば、「反知性主義」の台頭もその兆候の一つでしょうか。環境問題や経済格差、民主主義の危機などもそうですけど、こういった問題って、理論的な答えや技術的な対応だけではもう十分に対処できない気はしますね。
富良野:そうなんです。現在進行中の複雑な社会問題、そして今後さらに深刻化するであろう状況に向き合うためには、従来のエピステーメーやテクネーを中心に据えた知識秩序では切り捨てられてきたものを、どうしてももう一度取り戻す必要が出てくるはずです。
Phrona:それは、さっきも話に出ましたけど、身体的な感覚だとか、その場その時の固有の文脈、あるいは人間同士の関係性といったもののことですね。
富良野:はい、その通りです。近代科学は「普遍的な法則性」を追い求めるあまり、特定の場所や特定の時間、特定の身体を持った人間、さらにその関係性といったものを、すべて「ノイズ」として排除してきたわけです。
Phrona:そういったものを含めて、改めて「知」として捉え直すというのは、ある意味、多元的な真理観への回帰ですよね。ただ、そこで一つ気になるのは、そうすることで相対主義に陥ってしまうんじゃないかという心配なんです。そのあたり、富良野さんはどう考えていますか?
富良野:ああ、それは非常に重要な問いですね。たしかに多元的な真理観を認めると、「何でもあり」の相対主義に流れてしまう可能性がありますよね。ただ、私が考える新しい知のあり方というのは、単にあらゆる立場を等価に扱うことではなく、具体的な状況で「何が善いのか」を常に問い続け、状況に応じた実践的な判断を重視するということなんです。
Phrona:なるほど…。相対主義との大きな違いは、「善い」という判断基準を明確に持つことにあるわけですね。
富良野:そうですね。さらに言えば、その判断の基準は短期的な効率や一面的な利益だけにとどまらず、もっとホリスティックで多元的な視点を持つ必要があります。さまざまな要素を総合的に考慮して、長期的な影響や持続可能性を踏まえながら包括的に判断する姿勢が求められるでしょう。
Phrona:つまり、フロネーシスを中心に据えた知識秩序では、多元的でありながら、同時に一貫した倫理的な視点を持つということが重要になるわけですね。
富良野:そしてそのためには、これまで分断されてきた倫理的な側面を知識ともう一度結びつけることが大切なんだと思います。
Phrona:ただ、正直言って、「倫理と知識の再統合」と聞くと少し抵抗感もあります。説教臭いというか、特定の価値観を押しつけられることを警戒する人も多いと思うんですよね。
富良野:ああ、その警戒感はもっともです。ここで言う「倫理」とは、特定の道徳観や価値観を一方的に押しつけるようなものではありません。むしろ「これは誰にとって、何にとって善いことなのか」という問いを、オープンに問い続ける姿勢のことなんですよ。固定的な正解を与えるのではなく、常に問いを立て、異なる視点から柔軟に議論し、必要に応じて判断を修正していく知のあり方を目指すわけです。
Phrona:分かりました。倫理というと「特定の答えを示すこと」だと思いがちですが、そうではなくて、「倫理的な問いを継続的に立てる姿勢」自体が大事なんですね。
富良野:その通りです。考えてみてほしいんですが、これまで近代科学やテクノロジーは「価値中立」という立場を標榜しつつも、実際には効率性や生産性といった特定の価値観に支配されてきた面があると思いませんか?
Phrona:確かにそうですね。中立を装いながら、実は資本主義的な価値観に強く偏っていた、ということですね。
富良野:はい、だからこそ倫理的な側面を明示的に組み込んで、「何のための知識か」「誰のための判断か」を常に問い続けるほうが、むしろずっと誠実だと思うんですよ。
Phrona:反知性主義の人たちって、もしかしたらそうした欺瞞のようなものを、理屈ではなく肌感覚で察知しているのかもしれませんね。
富良野:欺瞞というと、具体的にはどういうことでしょう?
Phrona:何と言うか、中立的なはずの知の体系が彼らの日常の感覚や倫理観とは遠く離れた価値観に支配されていることを知っていて、それが暮らしの息苦しさにつながっているという実感があるんです。ただ、それを適切に説明する言葉や手段がなかなか見つからない。
富良野:なるほど。それで、目に見えやすい「エリート」、特に知識人への怒りや不満として表面化してしまうわけですね。
Phrona:だと思います。本当は資本主義の論理やテクノロジー企業の支配のような、より構造的で大きな問題が背景にあるのかもしれませんが、それは抽象的で見えづらく、抵抗もしにくい。
富良野:だからこそ、資本主義的な成功を収めた人物のような、目に見えて分かりやすい強者に憧れを抱き、一方で、自分たちには理解しづらい言葉を使う知識人に不満や怒りをぶつけてしまう傾向が生まれるのかもしれませんね。
Phrona:そう考えると、トランプ政権を後押ししている反知性主義も、歪んだ形での異議申し立てとして捉え直せそうです。
富良野:同感です。ただもちろん、トランプ政権のやり方には全く賛同できませんけど。
Phrona:重要なのは、それを支持する人たちが抱える疎外感や不満を理解することだと思います。
富良野:自分とは異なる経験や考え方を持つ人々を理解するのは、いつの時代も人間にとって根源的に難しい課題ですが、特に現代の情報環境やコミュニケーション技術が、その難しさを一層際立たせているように感じます。
Phrona: そうですね。最近の社会の混乱を見ると、従来のイデオロギー的な左右対立よりも、「デマや感情的ポピュリズムに動かされる層」と「事実や理性的な議論を重視する層」という新しい軸での分断が深刻になっている、という見方もあります。
富良野:その新しい対立軸は現代の特徴をよく表していると思います。ただ、そのような二分法自体が新たな分断を招いてしまう可能性もあるので、注意が必要ですね。
Phrona: ええ。「合理的に考えられない人間だ」とレッテルを貼って誰かを排除するだけでは、根本的な問題は何も解決しません。彼らがなぜそうした情報に惹かれるのか、その背景にある社会への不満や疎外感にこそ目を向けないと、対話の糸口さえ見つからないように思います。
富良野:おっしゃる通りです。デマやポピュリズムに惹かれる人々の多くは、社会に対する根深い不満や疎外感を抱いています。その根本的な原因にきちんと対処する必要があります。本当に重要なのは、本来困難な「相互理解」にどう向き合うかという姿勢であり、それこそが私たちが議論してきた「新たな知のあり方」の核心と深く結びついているのだと思います。
Phrona: 同感ですが、私としては、その理想を具体的に社会でどう機能させていくかが気になります。巨大な資本や既存の権力構造が支配するSNSやAI中心の世界で、文脈性や身体性、倫理性を大切にするフロネーシス的な知が、本当に現在の知の秩序を変えることができるのでしょうか?
富良野:確かに理想論だけを語っていても仕方ありませんね。ただ私は、最近の生成AIに伴う社会的リスクや気候変動に対する世界的な危機感が、一つの突破口になるのではないかと考えています。こうした問題への危機感が、根本的な「知のあり方」を問い直す動きにつながる可能性があります。
Phrona: 歴史を振り返れば、知の秩序の大きな変革は、情報技術の革新や既存秩序の行き詰まりから生じてきましたよね。
富良野: はい。実際、すでに小さいながらも重要な変化の兆しが見られます。最近議論され始めているAI規制に関する取り組みなどは、その良い例かもしれません。
Phrona: AIの規制、ですか? それはまた興味深い視点ですね…。
富良野:最近のAI開発の現場では、「説明可能性」や「透明性」といった言葉をよく耳にするようになりました。つまり、AIがどんな理由でその結論に至ったのか、どのようなデータに基づいて判断を行ったのかを、できるだけ明確に示そうという動きが広がっているんです。
Phrona: ええ、その動き自体はよく分かります。ただ、まだそれが単なる技術的説明や倫理的配慮のアリバイ作りにとどまっている印象もあります。状況に応じて「何が善いか」を深く文脈的に判断する、フロネーシス的なレベルまでは踏み込めていないような気がします。
富良野:その懸念はもっともです。ただ、最近のEUのAI規制案などを見ると、技術的透明性だけではなく、「社会的文脈への配慮」や「人権への影響評価」といった、より深い要求も出てきています。例えば、AIを医療診断に使う場合、その地域の文化的背景や患者さんの具体的な生活環境まで考慮すべきという議論もあります。普遍的なアルゴリズムに基づく一律の判断から脱却し、具体的な状況に応じて判断を調整するというフロネーシス的な視点を、制度として導入しようという試みと言えるかもしれません。
Phrona: なるほど。ただ、規制がうまく機能すれば変化のきっかけにはなり得ますが、巨大テック企業の商業的論理や国家間競争といった強力な力が存在する以上、トップダウンの規制だけで根本的な変革は難しいのではないでしょうか。
富良野: 確かに、規制だけでは限界がありますね。ただ一方で、ボトムアップの動きも見逃せません。オープンソースや市民科学といった取り組みは、専門知識だけでなく、参加者それぞれの経験や文脈を尊重し、長期的な視点や倫理的な配慮を自然に取り入れています。こうした活動は、フロネーシス的な知の実践モデルの一つだと考えられます。
Phrona: ただ、今の変化のスピードって、かつての時代とは桁違いに速すぎると思いませんか?活版印刷が社会の変革につながるまで数十年、数百年といった長い時間が必要だったのに対し、AIの進化は数年、時には数ヶ月という短期間で社会の状況を一変させてしまいます。そうした速度の変化に対して、私たちの社会が十分に対処できるのか、どうしても不安が拭えないのですが…。
富良野:その不安はとてもよく分かります。生物学者のE.O.ウィルソンは、「人類は旧石器時代の感情、中世の制度、そして神のような技術を持っている」という言葉で、現代社会が抱える本質的な危険性を鋭く指摘しています。
Phrona: 確かに、私たちの感情をすぐに変えることは難しく、一方でテクノロジーだけが制御不能な速度で進化している現状を考えると、まず優先的にアップデートすべきなのは社会の制度や仕組みということになるのでしょうか。
富良野: そうですね。この対話で見てきたように、情報技術のイノベーションは社会における知のあり方を変え、それがやがて社会の統治システムにも変化をもたらすという、歴史上繰り返し見られた大きな流れがあります。基本的に中世の制度の延長線上で来てしまっている社会制度そのもの、特に民主主義の仕組みを、新しい情報環境やフロネーシス的な知のあり方に適合するようにアップデートしていかざるを得ないでしょう。
Phrona:現在の民主主義の制度は、急速に進化している技術についていけず、多くの課題に直面していますね。情報が溢れかえり、感情的な対立や社会的な分断が深刻になっています。ただ、より本質的な問題は、私たちの社会が長期的で複雑な課題に対して、適切に協力して集合的な意思決定を行うことが難しくなっているということだと思います。経済格差や環境問題など、根本的な問題に対処できないことが、対立や分断の症状として現れているのではないでしょうか。
富良野:その意味でも「熟議民主主義」の重要性が改めて注目されています。市民が理性的にじっくりと議論を交わすことで、短期的な感情や煽動的な情報に振り回されることなく、長期的な視点に基づいた集合的意思決定が可能になると期待されます。
Phrona: 熟議民主主義の意義は確かに大きいですが、現実には理性だけで解決できない感情的な対立や価値観の根深い衝突も避けられませんよね。
富良野:その通りです。そこでもう一つ大事なのが、シャンタル・ムフが提唱する「闘技民主主義」です。これは、意見が異なる人々を「不倶戴天の敵」ではなく、同じ社会に共存する「呉越同舟」「共戴一天」の相手として認める考え方です。社会の対立や感情的な衝突を否定するのではなく、むしろ民主主義の健全なプロセスとして積極的に取り込むことで、より強靭な民主主義を実現できる可能性があります。
Phrona: つまり、熟議を通じた理性的な対話も重要ですが、それだけではカバーしきれない感情的対立や権力のぶつかり合いを民主主義の仕組みの中で表現できる方法も必要だということですね。「熟議」と「闘技」、この両者がうまく結びついて初めて、フロネーシス的な民主主義が成立するのかもしれません。理性も感情も、どちらも人間にとって不可欠ですから。
富良野:そうした制度のアップデートには、情報技術の力を取り入れることが必須でしょう。ただ単に技術で可能なことを表層的に取り入れるだけでは不十分です。既存の制度の問題点を深く掘り下げた上で、本当に求められる制度をゼロベースで構想し直し、技術を主体的かつ戦略的に活用しながら、新しい制度を構築していく必要があります。
Phrona: 反知性主義というテーマから始まった対話ですが、いつの間にか民主主義制度そのもののアップデートという、ずいぶん壮大な話に発展しましたね。
富良野:正直、この対話を始めた時は、ここまで話が広がるとは思っていませんでした。ただ振り返ると、それも意外ではない気がします。「知」というテーマがそれほど深遠で、私たちの社会の根幹に関わっていることなのでしょう。
Phrona:最後に、今さらですが、そもそも「知」って何なんでしょう?これまで私たちは「知識秩序」や「知のあり方」といった言葉を当然のように使ってきましたが、それらが具体的に何を意味するのか、しっかり確認していなかった気がします。
富良野:私が考えるに、「知」とは情報やデータとは異なり、経験や推論、学習といった複雑なプロセスを経て獲得され、人の内面に内在化された認識です。重要なのは、それが人の行動や判断に役立つ形にまで高められて初めて、社会的に「知」と見なされるということです。
Phrona: つまり、人の生活に実際に役立つと期待されるものだけが、「知」として認定されるということですね。
富良野: はい。その「役立つかどうか」という基準自体も、社会や時代ごとに異なります。私たちが対話の中で「知識秩序」や「知のあり方」という言葉で表現してきたのは、「何を知識とするのか」「誰が知識を生み出し、その価値を評価し広める権限を持つのか」「多様な知識がどのように位置づけられ、序列化されるか」を決める社会的なインフラやルール、価値観の総体です。
Phrona: そして、「知識秩序」は決して価値中立的ではなく、時代ごとの権力構造や統治の仕方とも深く結びついていて、その時々の価値観や文化、力関係によって影響され社会的に構築されているということですね。
富良野: はい、だからこそ私たちが当然のように慣れ親しんでいる現在の知識秩序も、実際には特定の価値観や歴史的状況の産物であることに気づく必要があります。
Phrona: そもそもこの対話は現代社会に見られる「反知性主義」の雰囲気に対する違和感から始まりましたが、対話を進める中で、その背景には現在の知識秩序が特定の人々を排除したり、そのニーズや感情を十分に汲み取れていない問題があるのではないかということに気づきました。結局、「知」の問題は単なる情報のやり取りにとどまらず、社会における人々のつながり方や承認、アイデンティティにも深く関係しているということを改めて考えさせられました。
富良野:その通りです。だからこそ私たちは知識のあり方を問い直す際に、単なる知的な正しさや論理性だけではなく、人々が社会の中でどうすれば「居場所」を感じられるか、どうすれば自分が尊重されていると感じられるか、という視点を持つ必要があります。フロネーシス的な社会とは、知性だけでなく感情や経験、社会的文脈までを含めて総合的に判断し理解する社会だと思います。
(完)

