脳内の「民主主義」── 15万個のミニ脳が生み出す統一的な知覚
- Seo Seungchul

- 7月16日
- 読了時間: 12分
更新日:7月31日

シリーズ: 書架逍遥
◆今回の書籍:Jeff Hawkins 『A Thousand Brains: A New Theory of Intelligence』 (2020年)
概要:神経科学者でありコンピュータエンジニアのジェフ・ホーキンスが、脳の新皮質にある約15万個のコルテックス・カラムが独立した「ミニ脳」として機能し、民主的な投票システムによって統一的な知覚を生み出すという革新的理論を提唱。AI開発への応用から人類の未来まで幅広く論じる。
私たちの脳の中で、毎秒15万個の小さな「議会」が開かれているとしたら、どうでしょうか。それぞれが独自の世界観を持ち、互いに議論し、投票によって「これがコーヒーカップだ」という結論に至る。SF映画のような話に聞こえるかもしれませんが、これこそがジェフ・ホーキンスが提唱する画期的な脳理論の核心です。
Palm Pilotの生みの親として知られるホーキンスは、テクノロジー業界で成功を収めた後、長年の夢だった脳科学研究に転身しました。そして2021年、彼の集大成となる『A Thousand Brains』で、人間の知能の仕組みについて従来の常識を覆す理論を発表したのです。
今回は、この本が提示する驚くべき洞察について、富良野とPhronaが語り合います。脳科学の最新知見から、人工知能の未来、そして人類が直面する実存的リスクまで、幅広い視点から掘り下げていきましょう。
脳内で起きている15万の並行宇宙
富良野:僕たちの脳の中で15万個もの独立した「世界モデル」が同時に動いているという発想に驚きました。まるで脳内に15万の並行宇宙があるみたいですよね。
Phrona:ええ、私も最初は戸惑いました。でも考えてみると、私たちが何気なくコーヒーカップを手に取るとき、視覚、触覚、温度感覚、それぞれが独自にカップを認識しているはずなんです。それが瞬時に統合されて「これはカップだ」という確信に変わる。その過程が実は民主的な投票だったなんて。
富良野:コルテックス・カラムっていう円柱状の構造が、それぞれ2400から4000個のニューロンを持っていて、独立して完全な物体モデルを学習できるっていうのも驚きでした。直径が200から600マイクロメートルって、髪の毛の太さくらいですよね。
Phrona:そう、その小ささがむしろ重要なんじゃないかしら。小さいからこそ大量に並列処理できる。でも富良野さん、これって単なる効率化の話じゃないと思うんです。むしろ、知能というものの本質に関わる話かもしれない。
富良野:というと?
Phrona:つまり、知能って中央集権的な処理じゃなくて、分散的で民主的なプロセスから生まれるっていうことです。一つの絶対的な認識があるんじゃなくて、たくさんの視点が協調して現実を構築していく。なんだか、社会の縮図みたいじゃないですか。
富良野:確かに。ホーキンスは水道局の比喩を使ってましたよね。中央の巨大な浄水場じゃなくて、各家庭が独自の浄水能力を持つシステム。これ、レジリエンスの観点からも興味深いです。一部が故障しても全体は機能し続ける。
Phrona:私、その部分を読んで、なぜ脳損傷を受けても機能が回復することがあるのか、少し理解できた気がしました。15万の議員のうち、何人かが欠けても、残りで十分に機能を維持できるんですね。
参照フレームという魔法の地図
富良野:本書のもう一つの核心的な概念が「参照フレーム」ですよね。物体中心の座標系で世界を理解するという。
Phrona:ああ、これは本当に美しい発想だと思いました。私たちがコーヒーカップの取っ手の位置を覚えるとき、部屋の中での絶対的な位置じゃなくて、カップに対する相対的な位置として記憶する。だからカップがどこにあっても、取っ手を見つけられる。
富良野:グリッド細胞の話も面白かったです。もともと海馬で発見された六角形格子状の発火パターンを示す細胞が、実は新皮質全体にも存在するかもしれないって。
Phrona:六角形って、ハチの巣と同じ形ですよね。自然界で最も効率的な空間充填の形。脳もその形を選んだということは、何か深い理由があるはずです。
富良野:僕が特に興味深かったのは、この空間的な仕組みが抽象概念の理解にも使われているという点です。数学の証明を方程式空間の移動として理解したり、民主主義を概念的参照フレームとして把握したり。
Phrona:そうそう、記憶術の「場所法」もその例として挙げられていましたね。古代ギリシャから使われている技法が、実は脳の根本的な仕組みを利用していたなんて。人類は無意識のうちに、自分たちの脳の秘密を活用していたんですね。
富良野:アインシュタインの相対性理論も、ある意味で参照フレームの重要性を物理学で証明したようなものですよね。観測者によって時間や空間の見え方が変わるという。
Phrona:私、そこで思ったんです。もしかしたら、真実というものも絶対的じゃなくて、常に何かの参照フレームに対して相対的なのかもしれないって。でも、それは真実が存在しないということじゃなくて、むしろ多様な視点から見ることで、より豊かな理解に近づけるということかもしれません。
AIへの応用と深層学習との決別
富良野:ホーキンスのNumentaという会社が、2024年11月にMontyシステムを発表したんですよね。サウザンド・ブレインズ理論の初の実装として。
Phrona:名前がかわいいですよね、Monty。でも中身は革命的。従来の深層学習とは根本的に違うアプローチだって聞きました。
富良野:ええ、一番の違いは感覚運動学習です。深層学習が静的なデータセットで学習するのに対して、Montyは環境との能動的な相互作用を通じて学習する。まるで赤ちゃんが物を触ったり舐めたりしながら世界を理解していくように。
Phrona:それって、身体性の問題にも関わりますよね。知能は脳だけじゃなくて、身体と環境との相互作用から生まれるという。
富良野:エネルギー効率の話も衝撃的でした。GPT-3の学習に460万ドルかかったのに対して、人間の脳は約10ワットで動作する。電球一個分のエネルギーで、これだけ複雑な処理をしているんです。
Phrona:でも富良野さん、私が気になったのは、この効率性の裏にある哲学的な問題です。深層学習は力技で問題を解いているけど、それは本当の理解なのかしら。Montyのアプローチは、むしろ理解のプロセスそのものを模倣しようとしている。
富良野:確かに、現在のAIは「中国語の部屋」問題を抱えていますよね。記号を操作できても、意味を理解しているわけじゃない。でもサウザンド・ブレインズ理論なら、物体の完全なモデルを持つことで、本当の意味での理解に近づけるかもしれない。
Phrona:ただ、私はちょっと不安もあるんです。もしAIが本当に理解するようになったら、それは意識を持つということなのかしら。ホーキンスは意識も物理的プロセスから生まれると考えているようですが。
誤った信念という人類の宿命
富良野:本書の後半で、ホーキンスは人間が誤った信念を持ちやすい理由を、旧脳と新脳の相互作用から説明していますね。
Phrona:ええ、これは重い話題でした。私たちの脳は世界の不完全なモデルしか構築できない。しかも、抽象概念の参照フレームは物理的現実に固定される必要がないから、内部的に一貫性があれば、現実と乖離していても存続してしまう。
富良野:陰謀論とか、過激な政治イデオロギーとか、まさにその例ですよね。一度その参照フレームに入ってしまうと、すべての情報がその枠組みで解釈されてしまう。
Phrona:でも、これって人間の創造性の源でもあるんじゃないかしら。現実に縛られない思考ができるからこそ、芸術や科学の革新が生まれる。問題は、その能力が時に有害な方向に働いてしまうことです。
富良野:ホーキンスは現実、事実、真実の崩壊を警告していました。特に現代のソーシャルメディア環境では、誤った信念が急速に広まりやすい。
Phrona:私、そこで思うんですけど、脳内の民主主義という発想が、解決のヒントになるかもしれません。多様な視点、つまり異なるコルテックス・カラムからの入力を大切にすること。一つの視点に固執せず、常に他の可能性を検討すること。
富良野:なるほど、それは重要な指摘ですね。ただ、旧脳の影響力は強力です。生存、繁殖、資源獲得といった原始的衝動が、理性的な判断を覆してしまうことがある。
Phrona:気候変動問題がまさにその例ですよね。新皮質は危険性を理解しているのに、旧脳の消費衝動がそれを上回ってしまう。でも富良野さん、これは絶望的な話じゃないと思うんです。
社会に欠けている「統合メカニズム」
富良野:Phronaさん、ここまで話してきて気づいたんですが、脳内の民主主義って、人間社会の集合知についても重要な示唆がありますよね。
Phrona:ええ、私もずっとそのことを考えていました。15万個のカラムが独立して判断し、投票で合意形成する。これって理想的な民主主義のモデルかもしれません。
富良野:ただ、決定的な違いがあると思うんです。脳には第2/3層の長距離側方結合による高速な情報共有システムがある。100から200ミリ秒で統一的な知覚に到達できる。でも社会には、そんな効率的な統合メカニズムがないんですよ。
Phrona:ああ、それは本当に核心的な問題ですね。選挙は数年に一度だし、日常的な合意形成のプロセスは遅くて不確実。しかも誤情報やノイズを除去する仕組みもない。
富良野:脳では各カラムが同じ物体を見ているという前提があるけど、社会では人々が見ている現実自体が異なることもある。メディアやSNSのアルゴリズムが、むしろ分断を促進してしまうこともありますし。
Phrona:そうなんです。脳には側方抑制という仕組みがあって、競合する解釈が自動的に調整される。でも社会では、対立する意見がエコーチェンバーの中で先鋭化していく。統合どころか、ますます分裂していく。
富良野:もし社会に皮質メッセージングプロトコルのようなものがあったら、どうなるでしょうね。情報の質を保証し、多様な視点を高速で統合する仕組み。
Phrona:でも富良野さん、それを誰が設計するんでしょう。権力者が都合のいいプロトコルを作ってしまう危険性もありますよね。脳の場合は進化が長い時間をかけて最適化してきたけど。
富良野:確かにその通りです。でも、もしかしたら完璧なプロトコルを求めること自体が間違いなのかもしれません。GitHubみたいに、フォークして改良できる、進化的なプロトコルというのはどうでしょう。
Phrona:ああ、それは面白い視点ですね。誰かが作った完成品じゃなくて、常に修正され続けるシステム。
富良野:そう、権力による歪曲は完全には避けられない。でも、だからこそ透明性と修正可能性を最初から組み込んでおく。不完全だけど、ないよりはマシ。そして使いながら改良していく。
Phrona:なんだか、人間らしいシステムですね。脳の完璧な統合とは違うけど、むしろそれが私たちに合っているのかも。完璧を求めて何もしないより、不完全でも一歩踏み出す勇気。
富良野:メタモダンっていうんですかね、この感覚。近代の進歩への希望と、ポストモダンの懐疑を同時に抱えながら、それでも前に進む。振り子のように行ったり来たりしながら。
Phrona:私、それすごく共感します。知っているけど信じる、みたいな。プロトコルの限界を知りながら、でも真摯にそれを作り、使い、改良していく。
知識という新しい進化の形
富良野:そう考えると、ホーキンスが最終章で提示した知識による進化という概念が、より重要に思えてきます。
Phrona:知識の進化は遺伝子の複製とは違って、方向性と目的を持てるという主張でしたね。でも、その方向性を誰がどう決めるのかという問題が残ります。
富良野:オープンソースやWikipediaのような仕組みは、ある意味で分散的な知識の統合を実現していますよね。完璧じゃないけど、中央集権的なシステムよりは脳の仕組みに近いかもしれない。
Phrona:確かに。でも、それでも脳の統合速度には遠く及ばない。私たち人類は、15万個のカラムを持ちながら、それらを効果的に統合する仕組みを持たない、不完全な超知能みたいなものかもしれませんね。
富良野:だからこそ、AIの開発が重要になってくるのかもしれません。人間社会が持てなかった統合メカニズムを、技術的に実現する可能性がある。
Phrona:でも、それは諸刃の剣ですよね。統合メカニズムを持つAIが、分裂した人間社会を超えてしまう可能性もある。
富良野:ホーキンスは楽観的でしたけどね。知能と動機は分離可能だから、純粋な新皮質様システムは破壊的な動機を持たないって。
Phrona:私は、むしろ問題は人間の側にあると思います。統合メカニズムを持たない私たちが、統合メカニズムを持つAIをどう制御するのか。それこそが本当の課題かもしれません。
富良野:結局、私たちに必要なのは、技術的な解決策だけじゃなくて、社会的な統合メカニズムの構築なんでしょうね。それがどんな形になるのか、まだ誰にも分からないけど。
Phrona:でも、少なくともこの本が教えてくれたことがあります。多様な視点の重要性と、それらを統合することの価値。完璧じゃなくても、その方向に向かって努力し続けることが大切なんでしょうね。
ポイント整理
15万個のコルテックス・カラムという発見
人間の新皮質には約15万個の独立した情報処理単位があり、それぞれが完全な世界モデルを構築できる。これらが民主的な投票システムを通じて協調することで、統一的な知覚と理解が生まれる。
参照フレームによる空間的理解
脳は物体中心の座標系を使って世界を理解し、この仕組みは物理的空間だけでなく、抽象的概念の理解にも応用される。グリッド細胞と場所細胞の協調により、環境内での自己位置と物体の関係を把握している。
感覚運動学習という新しいAIパラダイム
静的なデータセットで学習する深層学習と異なり、環境との能動的相互作用を通じて学習する新しいアプローチ。Montyシステムとして実装され、少ない例から迅速に学習し、エネルギー効率も格段に高い。
旧脳と新脳の葛藤
生存本能を司る旧脳と理性的思考を行う新皮質の対立が、人類の多くの問題の根源。気候変動問題など、長期的思考が必要な課題で特に顕著に現れる。
誤った信念の形成メカニズム
抽象概念の参照フレームは物理的現実に縛られないため、内部的一貫性があれば現実と乖離した信念も存続可能。これが陰謀論や過激思想の温床となる。
知識による進化という新しい概念
生物学的進化から文化的進化へのシフト。人類の本質は遺伝子ではなく知識にあり、それを保存・拡散することが人類の真の不死につながる。
キーワード解説
【コルテックス・カラム】
新皮質の基本的な機能単位となる円柱状構造
【サウザンド・ブレインズ理論】
多数の独立した脳が協調して知能を生み出すという理論
【参照フレーム】
物体や概念を理解するための座標系
【グリッド細胞】
六角形格子状の発火パターンを示す空間認識細胞
【感覚運動学習】
環境との相互作用を通じた能動的学習
【旧脳・新脳】
進化的に古い脳領域と新しい新皮質の区別
【Montyシステム】
Numentaが開発したサウザンド・ブレインズ理論の実装
【知識の宇宙船】
人類の知識を保存し宇宙に広める概念