人間の本性と新自由主義の神話――進化心理学が明かす協力と競争の真実
- Seo Seungchul

- 1月21日
- 読了時間: 15分

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事:Paul Deutchman, "The selfish myth driving modern economics" (Institute of Art and Ideas, 2025年12月10日)
概要:人間は進化の過程で競争だけでなく協力によっても生き延びてきた。しかし新自由主義は人間の利己的側面のみを強調し、社会を純粋に合理的で利己的な主体という虚構の上に再設計してきた。この誤解が不平等、民主主義の衰退、共通善の喪失を招いている。進化心理学の知見から、協力本能を取り戻し、人間本性の両側面を活かす政治経済を再構築する必要性を論じる。
現代社会を支配する新自由主義経済の前提には、人間は本質的に利己的で合理的な存在だという仮定があります。しかし、進化心理学の研究は、私たちの先祖が生き延びてきたのは競争だけでなく、協力によってでもあったことを明らかにしています。ペンシルベニア大学のポール・ドイチュマン准教授は、人間の本性についての誤解が、どのように不平等の拡大や民主主義の衰退、共通善の感覚の希薄化につながっているかを論じています。
富良野とPhronaの対話を通じて、私たちの心に刻まれた協力的本能と、それを活かす政治経済の可能性について考えていきます。
人間の矛盾する本性
富良野:この記事、人間って本質的に利己的なのか、それとも利他的なのかっていう古くからの問いに、進化生物学の視点から答えようとしているんです。
Phrona:ええ。私たちって、虐殺も慈愛も両方できちゃう存在なんですよね。その矛盾をどう理解するかって、ただの学問的な問いじゃなくて、社会制度をどう設計するかにも直結する。
富良野:そうなんだよ。著者のドイチュマンは、人間が遺伝子レベルでは利己的なのに、なぜ協力が進化してきたのかを説明している。遺伝子の唯一の目的は自己複製だから、基本的には利己的なんだけどね。
Phrona:でも私たち、家族や友人のために自己犠牲的なことをしますよね。それって遺伝子の利己性とどう折り合いがつくんでしょう。
富良野:そこが進化生物学の面白いところで、非ゼロサムの相互作用っていう概念が鍵になる。つまり、双方が利益を得られる関係性においては、他者を助けることが自分の遺伝的適応度も高めるんだ。
Phrona:親族選択とか相互利他主義みたいな仕組みですね。でも、それだけで人間の複雑な道徳性や協力行動を説明できるのかな。
集団行動問題と進化
富良野:ここからが重要なんだけど、記事では集団行動問題というものに注目している。これは個人の利益と集団の利益が対立する状況のことだね。
Phrona:グループ課題で何もせずにAをもらう学生の例が出てましたね。全員が協力すればみんな得するのに、個人としては労力を払わずに利益だけ得るのが一番得っていう。
富良野:そう。僕らの祖先は、共同狩猟とか資源管理とか、集団間の紛争とか、こういう集団行動問題に何十万年も直面してきた。この問題を解決できた個人や集団が生き残って、より協力的な特性が選択されていったわけだ。
Phrona:つまり、自然選択が私たちに道徳感覚や共感能力、公平性への関心を与えたってことですか。
富良野:うん、それに社会規範を学習する能力もね。こうした心理的適応があったからこそ、人間は複雑な集団での協力行動が可能になった。
Phrona:でも、それって結局、遺伝子レベルでの利己性が形を変えただけとも言えませんか。本当の利他性とは違うような。
富良野:哲学的にはそうかもしれないけど、心理的には本物の利他心として経験されるんだよ。僕たちは他人の幸福を本気で気にかけるし、不公平に対して怒りを感じる。その感情は本物だし、社会を機能させる上で重要な役割を果たしている。
新自由主義の人間観
Phrona:それで、この記事の本題は新自由主義がこの人間本性の理解を歪めてきたってことですよね。
富良野:そうだね。新自由主義は1970年代から80年代にかけて、ハイエクやフリードマンのような経済学者の影響で、サッチャーやレーガンの政策を通じて主流になった。自由市場、民営化、規制緩和、緊縮財政、個人の責任を重視する思想だ。
Phrona:アダム・スミスの見えざる手っていう考え方が根底にあるんですよね。個人の利己心が市場を通じて集団の利益になるっていう。
富良野:そこまではいいんだ。実際、新自由主義は経済成長を促進して、生活水準を向上させて、消費財のコストを下げた。国際的にも、経済の相互依存が戦争のリスクを減らしたという側面もある。資本主義平和論って呼ばれる考え方だね。
Phrona:でも問題もあるわけですよね。
富良野:そう。新自由主義の中核にある合理的選択理論っていうのが、人間を純粋に利己的で合理的な存在として扱っている。でもそれは人間本性の半分しか見ていないんだ。
Phrona:行動経済学の研究が、その限界を明らかにしてきたんでしたっけ。
独裁者ゲームが示すもの
富良野:ドイチュマンが引用している独裁者ゲームっていう実験が面白い。一人のプレイヤーが10ドルをもらって、もう一人とどう分けるか決める。相手は提案を受け入れるしかない。
Phrona:合理的経済人なら全額自分のものにするはずですよね。
富良野:でも実際には、人々は平均して4分の1以上を相手に渡すんだ。これは合理的選択理論とは完全に矛盾する。
Phrona:私たち、公平性とか他者の幸福を本当に気にかけてるんですね。それが新自由主義の前提とは合わないわけか。
富良野:そう。新自由主義は人間の利己心を活用するという点では有効だけど、説明理論としては不正確なんだ。そして、この不正確な理論に基づいて社会を設計すると、問題が起きる。
Phrona:公平性や相互性、集団の幸福への関心といった、私たちが進化の中で獲得してきた動機と衝突しちゃうんですね。
規範的理論としての新自由主義
富良野:新自由主義がただの記述理論じゃなくて、規範的理論でもあるってところが厄介なんだよ。つまり、人間はこう振る舞うべきだっていう主張にもなってる。
Phrona:最近の研究で、新自由主義が格差への寛容度を高めているって指摘がありましたよね。
富良野:1980年代の強欲の10年以降、新自由主義的な考え方が文化や社会規範に浸透していった。市場の論理が教育や医療、市民参加みたいな本来は非経済的な領域にまで広がっていったんだ。
Phrona:学生が知識を求める学習者じゃなくて、投資収益率を最大化する消費者として扱われるようになったり。
富良野:人々の価値が、生産性やスキル、市場価値で判断されるようになって、人間の尊厳や公共への貢献といった視点が弱まった。これを全部新自由主義のせいにするのは単純すぎるかもしれないけど、少なくとも影響は受けている。
Phrona:でも、純粋に利己的で計算高い経済人って、実際の友人としては最悪ですよね。むしろ反社会的なサイコパスみたいに見えちゃう。
富良野:そこなんだよ。僕たちが本当に望む人間像じゃないんだ。罪悪感も後悔も他者への配慮もない存在なんて。
制度設計への示唆
Phrona:じゃあ、私たちの協力的な本性に合った制度ってどういうものなんでしょう。
富良野:ドイチュマンは二つの提案をしている。一つ目は、労働者が自分の仕事の成功に利害関係を持てるようにすること。利己心は重要な推進力だけど、それを公共の利益のために活用する必要がある。
Phrona:労働者協同組合とか信用組合、相互扶助組織、コミュニティ土地信託みたいなモデルですね。
富良野:そう。こういう仕組みは、人間の利己心と、協力や相互性や公平性への動機をうまくバランスさせている。利己心と他者への貢献が一致すればするほど、社会も民主的制度も強くなる。
Phrona:二つ目の提案は何でしたっけ。
富良野:公平性や正義や相互性といった価値を、政府や制度に反映させること。富の抽出が創造より報われて、投資家階級に富が集中して労働者や集団の幸福が犠牲になる社会では、民主主義を維持できない。
Phrona:新自由主義的な考え方が、金ぴか時代以来の富の不平等をもたらしたんですよね。
富良野:この不平等が制度への信頼を弱め、民主的価値を損なっている。権威主義的ポピュリズムが台頭している今だからこそ、公平性と協力を反映した政治経済システムが必要なんだ。
北欧モデルの示唆
Phrona:記事では北欧の社会民主主義国が成功例として挙げられてましたね。
富良野:ノルウェーやスウェーデン、デンマークみたいな国は、利己心と利他心のバランスをうまく取っている。強固な社会的セーフティネット、普遍的な公共サービス、累進課税を組み合わせることで、市場システムが生み出す富をより公平に配分している。
Phrona:でも、小さくて同質性の高い国だからできることで、アメリカみたいな大きくて多様な社会では難しいんじゃないですか。
富良野:完全に再現するのは無理かもしれないけど、学べることはあるはずだよ。労働者に成功の利害関係を与えること、団体交渉と労働組合を強化すること、累進課税を実施すること。こういう政策は規模に関わらず意味がある。
Phrona:集団行動と公共の利益を、国家政策や公共圏で優先し直すってことですね。民間セクターに任せておけないから。
富良野:ただし、これは利己心を完全に否定するってことじゃないんだ。資本主義を中心に据えるべきだってドイチュマンも言っている。自己利益という動機を活用して、非ゼロサムの利益を社会全体で生み出せるから。
共産主義が機能しなかった理由
Phrona:だから集団主義的な経済システム、たとえば共産主義は歴史的に非効率だったわけですね。
富良野:そう。自己利益や私有財産、選択の自由といった、人間行動における重要な要素を捉えられなかったから。もちろん、他にも複雑な理由はあるけどね。
Phrona:結局、極端に走らないことが大事なんですね。純粋な利己主義も純粋な利他主義も、どちらも人間の全体像じゃないから。
富良野:僕らの本性は、利己的でもあり利他的でもある。その両方を認めて、それに合わせて制度を設計することが重要なんだ。
Phrona:無制限の資本主義の最悪の部分を抑制しつつ、自己利益という動機は活用する。そのバランスですね。
進化心理学が教えること
富良野:この記事の核心は、進化がどのように僕らの協力心理を形作ったかを理解することが、人間本性に逆らうのではなく、それに沿った経済的・政治的システムを構築する鍵だってことだね。
Phrona:新自由主義は人間の利己的側面を正確に捉えた部分もあるけれど、それだけを強調しすぎたわけですね。
富良野:人間は複雑なんだよ。競争もするし協力もする。公平性を気にするし、自分の利益も追求する。その複雑さを受け入れた制度設計が必要なんだ。
Phrona:でも、今の時代、すべてを市場価値で測ろうとする風潮が強いですよね。教育も医療も、人間関係さえも。
富良野:それが問題なんだ。市場の論理が有効な領域もあるけど、すべてに適用すべきじゃない。人間の尊厳や共同体の価値、公共の利益といったものは、市場では測れないし、測るべきでもない。
Phrona:進化心理学の知見が教えてくれるのは、私たちには協力する能力と意志があるってことですよね。それを育む制度を作れば、もっと公平で持続可能な社会が可能になるかもしれない。
富良野:だからといって、ユートピアを夢見るわけじゃないけどね。人間の利己性も現実だから、それも認めた上でバランスを取る。完璧な解決策はないけど、より良い方向に進むことはできるはずだよ。
ポイント整理
人間本性の二面性
人間は遺伝子レベルでは利己的だが、進化の過程で協力的な心理的適応も獲得してきた。この矛盾は、非ゼロサムの相互作用と集団行動問題への適応によって説明できる。
集団行動問題と進化的適応
共同狩猟や資源管理といった集団行動問題に直面し続けた結果、人間は道徳感覚、共感能力、公平性への関心、社会規範の学習能力などを進化させた。
新自由主義の基本思想
1970-80年代にハイエク、フリードマン、サッチャー、レーガンらによって主流化した政治経済思想で、自由市場、民営化、規制緩和、個人責任を重視する。
合理的選択理論の限界
新自由主義の中核にある合理的選択理論は、人間を純粋に利己的で合理的な存在として扱うが、行動経済学の研究により、この前提が人間行動を正確に説明できないことが明らかになっている。
独裁者ゲームの示唆
実験経済学の独裁者ゲームにおいて、合理的経済人なら全額を自分のものにするはずだが、実際には平均して4分の1以上を相手に渡す。これは人間が公平性や他者の幸福を本質的に気にかける証拠である。
新自由主義の功罪
新自由主義は経済成長と生活水準向上に貢献した一方で、人間の協力的本性を軽視することで、不平等の拡大、疎外感、二極化を招き、民主的制度を弱体化させた。
市場論理の侵食
新自由主義のヘゲモニー以降、市場論理が教育、医療、市民参加など非経済的領域にまで浸透し、人間の尊厳や公共への貢献よりも生産性や市場価値で人々が判断される傾向が強まった。
規範的理論としての問題
新自由主義は記述理論であるだけでなく規範的理論でもあり、純粋に利己的で計算高い経済人というモデルを理想として提示するが、これは反社会的なサイコパスに近く、多くの人が望む人間像ではない。
制度設計への示唆
労働者が仕事の成功に利害関係を持てる仕組み(労働者協同組合、信用組合、相互扶助組織など)を通じて、自己利益と公共の利益を一致させることが重要。
公平性の制度化
富の抽出より創造を重視し、累進課税や普遍的公共サービス、強固な社会的セーフティネットを通じて、市場システムが生み出す富をより公平に配分する必要がある。
北欧モデルの教訓
ノルウェー、スウェーデン、デンマークなどの北欧諸国は、利己心と利他心のバランスを取り、個人のインセンティブと集団の福祉を調和させることに成功している。完全な再現は難しくても、学ぶべき要素は多い。
資本主義の維持
自己利益は経済的・技術的発展の重要な推進力であり、資本主義そのものは維持すべきである。共産主義のような集団主義的システムが歴史的に非効率だったのは、自己利益、私有財産、選択の自由を軽視したため。
バランスの重要性
人間本性の利己的側面と利他的側面の両方を認め、無制限の資本主義の弊害を抑制しつつ、自己利益という動機を活用する制度設計が求められる。
進化心理学の政策的意義
人間がどのように進化によって協力心理を獲得したかを理解することは、人間本性に逆らうのではなく、それに沿った経済的・政治的システムを構築するための基礎となる。
キーワード解説
【新自由主義(neoliberalism)】
1970-80年代に主流化した政治経済イデオロギーで、自由市場、民営化、規制緩解、緊縮財政、個人責任を重視する。ハイエク、フリードマンらが理論的基礎を提供し、サッチャー、レーガンらが政策として実施した。
【合理的選択理論(rational choice theory)】
新自由主義経済学の中核をなす理論的前提で、個人や企業が利用可能な情報と選好に基づいて効用を最大化する最適な意思決定を行うと仮定する。経済主体を純粋に利己的、熟考的、論理的な存在として扱う。
【行動経済学(behavioral economics)】
経済学と心理学の交差領域で、合理的選択理論が人間行動を正確に捉えられないことを実証的に示してきた。人間が感情的衝動に駆られ、即座の満足を遅らせることに苦労し、判断をバイアスする認知的ショートカットに依存することを明らかにした。
【独裁者ゲーム(dictator game)】
実験経済学で用いられるゲームで、個人の向社会的選好を測定する。一方のプレイヤー(独裁者)が一定額を受け取り、もう一方との分配を決定する。相手は提案を受け入れるしかない。合理的経済人なら全額を自分のものにするはずだが、実際には平均して4分の1以上を相手に渡す。
【非ゼロサム相互作用(non-zero-sum interactions)】
すべての当事者が利益を得られる可能性のある関係性。協力によって相互利益が生まれる。他者を助けることが協力者自身の遺伝的適応度も高める場合、協力が進化する。
【親族選択(kin selection)】
個体が遺伝的に近い親族に利益を与えることで、間接的に自分の遺伝子のコピーを次世代に伝える進化的メカニズム。血縁者への利他行動を説明する理論。
【相互利他主義(reciprocal altruism)】
種内または種間での長期的な互恵関係。花と送粉者の相利共生や人間の友情など、互いに利益を交換することで協力が維持される。
【集団行動問題(collective action problems)】
個人にとって最善のことと集団にとって最善のことが対立する状況。全員が協力すればみんなが利益を得るが、個人としてはフリーライド(他者の協力努力の恩恵だけを受けて自分は貢献しない)が最善の結果となる。
【向社会性(prosociality)】
他者の幸福を促進する行動や態度。協力、共有、助け合い、共感など、社会的に肯定的な行動を指す。
【労働者協同組合(worker-owned cooperatives)】
労働者が所有し民主的に運営する企業形態。食品協同組合や信用組合など。労働者が企業の成功に直接的な利害関係を持つ。
【相互扶助組織(mutual aid societies)】
メンバーが互いに支援し合う自発的な組織。経済的困難、病気、その他の課題に対して相互にサポートを提供する。
【コミュニティ土地信託(community land trusts)】
土地を集団で所有・管理するモデル。手頃な価格の住宅を維持し、投機的な価格上昇を防ぐことを目的とする。
【資本主義平和論(capitalist peace theory)】
経済的相互依存が国家間の武力紛争のリスクを低減するという理論。グローバル市場が各国経済を統合し、相互依存を創出することで、戦争のコストが高まり平和が促進される。
【累進課税(progressive taxation)】
所得や富が増えるほど税率が上昇する課税システム。所得再分配を通じて経済的不平等を緩和する政策手段。
【団体交渉(collective bargaining)】
労働者が労働組合を通じて雇用者と賃金、労働条件、福利厚生などを集団で交渉するプロセス。個々の労働者より強い交渉力を持つ。
【普遍的公共サービス(universal public services)】
すべての市民が経済状況に関わらずアクセスできる公的に提供されるサービス。医療、教育、社会保障など。
【金ぴか時代(Gilded Age)】
19世紀後半から20世紀初頭のアメリカで、急速な経済成長と極端な富の不平等が特徴だった時代。現代の不平等レベルがこの時代以来最高に達しているとの比較でしばしば言及される。
【権威主義的ポピュリズム(authoritarian populism)】
強力な指導者のもとで、エリートや既存制度に対する大衆の不満を利用する政治運動。民主的規範や制度を弱体化させる傾向がある。
【北欧社会民主主義(Nordic social democracies)】
ノルウェー、スウェーデン、デンマークなどの北欧諸国が採用する政治経済モデル。市場経済と強固な福祉国家を組み合わせ、高い生活水準と低い不平等を達成している。