自由主義の約束が届かなかった場所で――アフリカが模索する新しい政治思想
- Seo Seungchul

- 1月21日
- 読了時間: 21分
更新日:1月21日

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事:Gabriel Asuquo, "The empty ideology" (Aeon, 2025年12月9日)
概要:20世紀半ばにアフリカ諸国が独立した際、民主主義・人権・自由市場といった自由主義の理念が約束されたが、実際には選挙不正、経済的格差、外部依存が続いている。この失敗は制度の未熟さだけでなく、西洋の個人主義的価値観とアフリカの共同体的伝統との根本的な不一致に起因する。著者は、自由主義を批判的に検証しながら、ウブントゥ哲学やアフリカ社会主義、合意型民主主義といったアフリカ独自の政治思想の可能性を探る。
独立から数十年が経過したアフリカ諸国では、いまも民主主義と経済発展の約束が十分に果たされていない。選挙は行われるものの結果は密室で決まり、市場の自由化は格差を拡大させ、主権は国際機関の条件付き融資によって制約される。問題は指導者の質や制度の弱さだけではない。もっと深い層での不一致がある――ヨーロッパの啓蒙主義から生まれた自由主義という政治哲学が、アフリカの共同体的伝統や関係性を重視する倫理観とうまく噛み合っていないのだ。
富良野とPhronaは、アフリカ思想の研究者ガブリエル・アスクオの論考をもとに、輸入された思想の限界と、アフリカ独自の土壌から生まれる代替案の可能性について語り合います。そこには、私たちが普遍的だと思い込んできた価値観を問い直すヒントが潜んでいます。
自由主義が約束したものと、届いたもの
富良野:アフリカの独立から半世紀以上が過ぎてるわけだけど、この論考を読んで改めて思うのは、自由主義ってアフリカではほとんど機能してないってことなんだよね。選挙はやってる、人権も憲法に書いてある、市場経済も導入してる。でも、実態としては何も変わってない。
Phrona:そう、形だけは整ってるのに中身がないっていう。著者が言う通り、選挙があっても結果は密室で決まるし、権利は紙の上にしかない。ナイジェリアの選挙の例がすごく象徴的よね。人々は炎天下で列に並んで投票するのに、実際の結果はホテルの一室で決まってるって。
富良野:うん、それって民主主義の儀式だけをやってるってことだよね。特に2019年と2023年のナイジェリア大統領選では、民族的なアイデンティティが投票行動を決定づけてしまって、国としてのビジョンをどう選ぶかって話にならなかった。カノやラゴスでは宗教と地域が投票を分断したし、リバーズ州やアクワ・イボム州では不正の疑いが消えなかった。
Phrona:それって、形式としての民主主義と、実質的な人々の声が反映される民主主義との間に、すごく深い溝があるってことよね。富良野さんが言うように、国民的ビジョンじゃなくて、自分の民族や宗教が生き残れるかどうかを選ぶ選挙になってる。
富良野:そうそう、それに経済の話もひどい。IMFや世界銀行が推進した構造調整プログラムって、理屈としては公共部門をスリムにして市場の効率性を上げるはずだったんだけど、実際には大量の失業と物価上昇を生んだだけ。ナイジェリアの1986年の構造調整プログラムとか、典型例だよね。
Phrona:ザンビアの民営化もそう。地元産業が弱体化して、結局海外の投資家か国内のエリートだけが利益を得る構造になってしまった。自由市場って言うけれど、自由に競争できる条件がそもそもないまま市場だけ開かれても、弱い立場の人はもっと弱くなるだけ。
富良野:そのへんが、自由主義の約束と現実のギャップだよね。僕が注目したのは、著者が指摘してる主権の問題。形式上は独立国なのに、政策の実権は外国の金融機関やNGOが握ってる。条件つきの融資を受けるために、国内の政策を変えざるを得ない。それって主権国家なのかって話だよね。
Phrona:フランツ・ファノンがすでに1961年に言ってたことよね、独立が見せかけだけのものになる危険性。形は独立してても、実際には資源やお金の流れをコントロールできてなかったら、それは真の自由じゃないって。この論考で著者が言う通り、自由主義はアフリカに空っぽの制度だけを残していった。
個人か、共同体か――人間観の違いがもたらすもの
富良野:著者がもう一つ強調してるのは、自由主義の根本的な人間観がアフリカの伝統と合わないってことなんだよね。自由主義って、人間を自律的で理性的な個人として捉えるでしょ。で、社会はその個人の集まりで、法によって権利が守られればいいっていう発想。
Phrona:そう、ジョン・スチュアート・ミルの「自由論」が典型的よね。個人が自分で選んで自分で失敗する自由があればいいって考え方。でもアフリカの伝統って、人間をそういうふうに見ないのよ。
富良野:そうなんだよね。ケニア出身の哲学者ジョン・ムビティが言った言葉がすごく印象的で、私がいるから私たちがいる、ではなくて、私たちがいるから私がいる、なんだって。つまり人間の存在そのものが関係性の中にあるっていう。
Phrona:ウブントゥの哲学ね。人は他者との関係の中で初めて人になるっていう考え方。それって単なる倫理じゃなくて存在論の話で、人間とは何かっていう根本的な理解が違うのよね。自由主義は人を個体として見るけど、アフリカの伝統では人は関係性そのものなの。
富良野:面白いのは、この関係性の中での人格っていうのが、自動的に与えられるものじゃなくて、獲得されていくものだってこと。たとえばイグボの伝統では、新生児はまだ完全な人間とは見なされなくて、命名の儀式や道徳的な育ちを経て初めてムマドゥ――完全な人――になるんだって。
Phrona:アカンの伝統でも同じで、徳を積んで年長者を敬って共同体に貢献する人がオニパ、つまり真の人になるの。逆に言えば、どれだけお金持ちで頭が良くても、そういう道徳的な生き方をしてなかったら、オンニェ・オニパ――人ではない――って言われてしまう。
富良野:ヨルバもそうだね。イワ・ペレ、つまり良い性格が中心にあって、それがなければ本当の人間とは見なされない。これって単なる文化の違いってより、人間がどうやって人間になるのかっていう根本的な世界観の違いなんだよね。
Phrona:そう、だから自由主義的な権利の話って、アフリカの文脈では不完全に響くのよ。権利を持つ個人がいて、その権利が守られればOKっていう話じゃなくて、その個人がどういう関係性の中にいて、どういう責任を負ってるかっていうことが、まず大事なわけだから。
富良野:土地の話も典型的だよね。自由主義の法律では土地は私的財産で、売ったり買ったりできる商品。でもアフリカの多くの共同体では、土地は先祖から受け継いだもので、未来の世代に引き渡すべき共有の信託財産なんだって。それを商品化するってことは、アイデンティティと所属感を破壊することになる。
Phrona:それってすごく深い話よね。土地が単なる資源じゃなくて、自分たちが誰であるかっていう物語の一部なんだから。そういう世界観に自由主義の財産法を押し付けたら、土地を失うだけじゃなくて、存在の根っこを失うことになる。
輸入された思想と、生まれるべき思想
富良野:だからこそ著者が言う政治思想の脱植民地化ってのが重要になってくるんだよね。これって単に西洋の思想を全部拒否するって話じゃなくて、どの思想が自分たちにとって意味があるのかを問い直すってこと。
Phrona:ンギギ・ワ・ティオンゴが「精神の脱植民地化」で言ってたことよね。植民地主義は軍隊や経済だけじゃなくて、文化や知性そのものを支配するって。自由主義を無批判に受け入れることは、ある種の文化的植民地主義になってしまうっていう。
富良野:著者が提案してる三つのステップがいいと思うんだよね。批判と回復と再想像。まず自由主義がどう不平等や依存を維持してるのかを暴く。次に、アフリカ独自の統治や倫理や人間観の伝統を取り戻す。そして最後に、グローバルな思想も選択的に借りつつ、でもアフリカの文脈に根ざしたハイブリッドなモデルを作り出す。
Phrona:アチレ・ムベンベが言ってるみたいに、アフリカが自分たちの政治的未来を想像するには、借り物の概念じゃなくて、自分たちの生きた現実を反映した概念が必要なのよね。脱植民地化って、過去への郷愁じゃなくて、革新なのよ。
富良野:で、面白いのは、すでにいくつか具体的な代替案が試みられてきたってこと。たとえばウブントゥ哲学を政治に活かした例として、南アフリカの真実和解委員会がある。あれは復讐じゃなくて癒しを重視して、コミュニティの再生を目指した。
Phrona:タンザニアのジュリウス・ニエレレやガーナのクワメ・ンクルマが提唱したアフリカ社会主義もそうよね。マルクス主義の正統派じゃなくて、アフリカの共同体的価値観に根ざした社会主義を作ろうとした。ニエレレのウジャマー村は集団所有と自立を目指したもので、実施はうまくいかなかった部分もあるけど、新自由主義への強力な批判になってる。
富良野:それから、クワシ・ワイルドゥが提案してた合意型民主主義。これはアカンの伝統から引いてきたアイデアで、対立的な政党政治じゃなくて、合意に至るまで話し合いを続けるっていうモデル。
Phrona:それって興味深いわね。多数決で勝った負けたじゃなくて、全員が納得するまで議論を重ねる。そこに拒否権を持つ個人はいなくて、長老の仲介や共同体の価値への訴えを通じて、対立じゃなくて調和を優先する。
富良野:自由主義の前提って、政治は必然的に競争的で分裂的だっていう考え方だけど、そうじゃない形の民主主義もありえるんだよね。もちろん、これらの代替案が完璧ってわけじゃないけど、一つの輸入思想に縛られる必要はないってことを示してる。
Phrona:ファノンやトマ・サンカラやアミルカル・カブラルもそうだったわよね。真の解放には経済的依存を断ち切ることと文化的誇りを主張することが不可欠だって。サンカラなんて、在任中に自給自足と土地改革とジェンダー平等を進めて、自由主義的な開発モデルに正面から挑戦した。
普遍性という名の特殊性
富良野:ただね、ここで注意しなきゃいけないのは、自由主義って自分のことを普遍的だって主張してるけど、実はめちゃくちゃ特殊な歴史から生まれてるってことなんだよね。
Phrona:そうそう、17世紀と18世紀のヨーロッパという、すごく限定された文脈で形成された思想なのよ。宗教戦争、絶対王政、資本主義経済の勃興、っていう非常に特殊な条件の産物。
富良野:ジョン・ロックの自然権、アダム・スミスの自由市場の道徳的基礎、ルソーの社会契約。これらは啓蒙主義時代の産物で、理性と科学と個人の自律が進歩と人間の繁栄の証だっていう価値観が背景にある。でも、それがどこでも通用するわけじゃない。
Phrona:面白いのは、ミルが「自由論」の中で、自由主義は非年齢の――つまり未成熟な――国には適さないって明言してたこと。そこには、文化的発展に階層があるっていう疑わしい前提が含まれてるわよね。
富良野:そう、だから著者が言うように、植民地支配が終わった時に自由主義がアフリカに丸ごと輸出されたんだけど、それが共同体的な土地所有や多様な民族構造や長い搾取の歴史を持つ社会に合うかどうかなんて、ほとんど考慮されなかったんだよ。
Phrona:ンクルマが「ネオ・コロニアリズム」で警告してたのもそこよね。自由主義の秩序がアフリカに輸出されたのは解放のためじゃなくて、西洋の支配を続けるためだって。民主主義と自由市場のレトリックの下に、経済的依存と政治的操作と文化的浸透のネットワークがあるって。
富良野:IMFや世界銀行が財政政策を決めて、多国籍企業が経済を動かして、援助の条件として統治モデルが押し付けられる。そうやって、自由主義国家って形をとりながら、実際には帝国権力が別の形で保たれてるっていう。
Phrona:だから、形式だけの自由の裏に何か植民地的なものが残ってるのよね。憲法も選挙も権利憲章も紙の上には存在してるけど、それが人々の生活を変える力は限られてる。富良野さんが言ってた通り、制度はあっても実質がない状態。
選択的な統合と、未来への問い
富良野:じゃあアフリカはどうすればいいのかって話なんだけど、著者の提案で重要なのは、全部捨てろとか全部受け入れろとかじゃなくて、選択的に統合するっていう発想だよね。
Phrona:そうね、自由主義の説明責任とか権利の概念みたいな部分は、アフリカの共同体的倫理の枠組みの中に組み込むこともできるわけよ。文化的連続性を保ちながら、文脈に合った形で。
富良野:たとえば、権利を語るにしても、それを義務と結びつけて語るとか。自由は共同体の中でこそ意味を持つっていう枠組みで理解するとか。個人の自律を認めつつも、それが孤立した個人じゃなくて関係性の中にある個人だってことを前提にする。
Phrona:それって、民主主義の形も変わってくるってことよね。多数決で勝った方がすべてを取るんじゃなくて、合意と包摂を重視する民主主義。経済も、個人のイニシアティブと共同体の連帯のバランスを取る。
富良野:それから主権の問題。グローバルな経験と批判的に関わりながらも、支配には抵抗する。つまり、孤立主義でもないし無批判な受容でもない、第三の道。
Phrona:でも、それを実現するのは簡単じゃないわよね。知的な勇気も政策のイノベーションも草の根の参加も必要。大学ではアフリカ哲学を西洋の正典と並べて教えなきゃいけないし、リーダーは援助供与者の処方箋を超えて考えなきゃいけないし、市民は自分たちの社会を形作る主体性を取り戻さなきゃいけない。
富良野:ワイルドゥが言ってたみたいに、西洋を模倣するんじゃなくて、アフリカ独自のリソースから批判的に考えるってことだよね。そうすれば民主主義が本当のエンパワーメントになるし、自由が尊厳になるし、哲学が依存じゃなくて解放の道具になる。
Phrona:論考の最後にあった問い、アフリカに自由主義の代替案はあるのか、っていうのは、哲学者だけの問題じゃないのよね。これは実践的な呼びかけで、主体性を取り戻して、アフリカの人々に最初に奉仕する未来を想像しようっていう。
富良野:そう、アフリカはもはや外国のイデオロギーの受動的な消費者ではなくて、グローバルな政治思想のイノベーターになるべきなんだって。連帯と共同体と正義のモデルを提供する、それは世界が切実に必要としてるものかもしれない。
Phrona:うん、そうね。それに、これってアフリカだけの問題じゃないと思うのよ。自由主義が限界を見せてるのは、別にアフリカだけじゃなくて、世界中のいろんな場所で起きてることだから。
富良野:そうだね。だから、アフリカでの試行錯誤は、実は普遍的な価値を持つかもしれない。私たちが当たり前だと思ってる政治の形、人間の在り方、社会の作り方、そういうものを根本から問い直すヒントになるんじゃないかな。
Phrona:そのためにも、政治思想の脱植民地化って、アフリカだけの課題じゃなくて、グローバルな思考の多様化っていう意味で、私たち全員に関わることなのかもしれないわね。
ポイント整理
自由主義の約束と現実のギャップ
20世紀半ばにアフリカ諸国が独立した際、自由主義は民主主義、人権、自由市場を通じた急速な近代化を約束したが、実際には選挙不正、経済格差の拡大、外部依存の深化がもたらされた。ナイジェリアの2019年と2023年の選挙では、民族的アイデンティティが投票行動を決定し、国家的ビジョンに基づく選択が困難になった。
制度はあるが実質がない状態
憲法、選挙、権利憲章といった民主主義の形式は存在するが、それらが実際に人々の生活を変える力は限定的。選挙は行われるが結果は密室で決まり、権利は紙の上にあるが正義は実現されない。市場は自由化されたが、発展ではなく困難がもたらされた。
構造調整プログラムの失敗
IMFと世界銀行が推進した構造調整プログラム(民営化、補助金削減、市場開放)は、効率性と成長をもたらすはずだったが、実際には公共サービスの縮小、失業の増加、貧困の深化を招いた。ナイジェリアの1986年プログラムやザンビアの民営化は典型例である。
主権の制約
形式的には独立国でありながら、条件付き融資によってIMF、世界銀行、国際NGOが国内政策を実質的に決定している。ファノンが警告した通り、資源と運命への真の支配がなければ、独立は見せかけに過ぎない。
人間観の根本的相違v自由主義は人間を自律的・理性的・自己利益追求的な個人として捉え、社会を権利で保護された自由主体の集合体と見なす。対してアフリカ思想は関係性における人格を重視し、ムビティの「私たちがいるから私がいる」やウブントゥ哲学が示すように、相互依存、連帯、共同体責任を中心に据える。
獲得される人格
アフリカの多くの伝統では、人格は生まれながらに与えられるのではなく、社会生活への参加を通じて実現される。イグボのムマドゥ、アカンのオニパ、ヨルバのイワ・ペレはいずれも、道徳的成熟と共同体的貢献を通じて得られる社会的に認められた道徳的地位である。
土地の意味の違い
自由主義体制では土地は譲渡可能な資産として商品化されるが、アフリカの多くの社会では土地は神聖なものであり、生者を先祖と未来の世代に結びつける。土地を商品化することはアイデンティティと所属感を破壊することを意味する。
自由主義の特殊な起源
自由主義は普遍的と主張されるが、実際には17-18世紀のヨーロッパという特殊な文脈(宗教戦争、絶対王政、資本主義経済の勃興)で形成された。ロック、スミス、ルソーらの思想は、産業資本主義、比較的同質的な国民国家、王権と教会権力をめぐる長年の闘争という特定の歴史的条件で発展した。
ネオ・コロニアリズムとしての自由主義
ンクルマは「ネオ・コロニアリズム」で、アフリカに輸出された自由主義秩序が解放の道具ではなく西洋支配継続のメカニズムとして機能していると警告した。民主主義と自由市場のレトリックの下に、経済依存、政治操作、文化浸透のネットワークが維持されている。
ウブントゥ哲学の政治的応用
ウブントゥ(人間性)は、思いやり、連帯、相互依存を強調し、政治的には参加型意思決定、修復的正義、競争よりも共同体を優先することを支持する。南アフリカの1996年真実和解委員会は、復讐ではなく癒しを重視するウブントゥ価値観に基づいていた。
アフリカ社会主義の試み
ニエレレとンクルマは、マルクス主義正統派ではなくアフリカの共同体的価値観に根ざした社会主義を構築しようとした。ニエレレのウジャマー村は集団所有と自立を促進することを目指したもので、実施は不均等だったが、新自由主義資本主義への強力な批判として残っている。
合意型民主主義
ワイルドゥはアカンの伝統から、対立的な政党政治に代わる合意型民主主義を提案した。合意に達するまでの熟議を主張し、包摂性を確保しゼロサムの競争を回避する。個人が拒否権を持つのではなく、長老の仲介、共同体価値への訴え、平和を勝利より優先することで膠着状態を防ぎ統治における社会的結束を保つ。
パン・アフリカニズムと反帝国主義
ファノン、サンカラ、カブラルは、真の解放には経済的依存を断ち切り文化的誇りを主張することが必要だと強調した。サンカラは在任中、自給自足、土地改革、ジェンダー平等の政策を追求し、自由主義的開発モデルに直接挑戦した。
政治思想の脱植民地化
脱植民地化とは西洋の思想を全て拒否することではなく、その妥当性を問い直し、アフリカの必要に応える形で再構成すること。ンギギの「精神の脱植民地化」が示す通り、植民地主義は軍隊や経済だけでなく文化的・知的支配を通じて作用する。自由主義を無批判に採用することは文化的植民地主義の一形態となる。
三つのステップ
脱植民地化には三つの動きが必要――(1)批判:自由主義が外見とは裏腹に不平等と依存を維持する仕組みを暴露する、(2)回復:統治、倫理、人格に関する土着の伝統を取り戻す、(3)再想像:グローバルな思想から選択的に借用しつつアフリカの文脈に根ざしたハイブリッドモデルを創造する。
選択的統合の可能性
脱植民地化された政治思想は、自由主義の全面的拒否でも前植民地時代への郷愁でもなく創造的統合である。説明責任や権利といった自由主義的価値を、アフリカの共同体的倫理の枠組み内に選択的に統合し、文化的連続性を保ちながら文脈的妥当性を確保する。
具体的な未来像
脱植民地化されたアフリカ政治思想は、狭い多数決支配よりも合意と包摂を重視する民主主義、個人のイニシアティブと共同体連帯のバランスをとる経済、自由を義務に結びつける権利の枠組み、支配に抵抗しつつグローバルな経験と批判的に関わる主権の政治を含むだろう。
知的勇気と草の根参加の必要性
この未来を実現するには、大学での西洋正典と並ぶアフリカ哲学の教育、援助供与者の処方箋を超えた指導者の思考、社会形成における市民の主体性回復が求められる。ワイルドゥの言葉通り、課題は西洋を模倣することではなくアフリカ独自の資源から批判的に考えることである。
グローバルな意義
アフリカでの自由主義の失敗は腐敗した指導者や脆弱な国家だけの問題ではなく、輸入思想と生きられた現実との深い不適合の症状である。政治思想の脱植民地化は、アフリカだけでなくグローバルな思考の多様化という意味で普遍的価値を持つ可能性がある。アフリカは外国イデオロギーの受動的消費者ではなく、世界が必要とする連帯、共同体、正義のモデルを提供するグローバル政治思想のイノベーターになるべきである。
キーワード解説
【自由主義(Liberalism)】
17-18世紀の西洋啓蒙主義から生まれた政治哲学。個人の自由、民主主義、人権、自由市場を中心的価値とし、理性的・自律的な個人を社会の基本単位と見なす。ヨーロッパの特定の歴史的文脈(宗教戦争、絶対王政、資本主義経済の勃興)から形成されたが、しばしば普遍的な政治原理として提示される。
【構造調整プログラム(Structural Adjustment Programmes)】
IMFと世界銀行が1980-90年代にアフリカ諸国に課した経済改革パッケージ。財政・金融改革、貿易自由化、規制緩和、公共部門改革を含む。効率性と成長を約束したが、実際には公共サービス縮小、失業増加、貧困深化をもたらした。ナイジェリアの1986年プログラムが典型例。
【ネオ・コロニアリズム(Neo-Colonialism)】
ンクルマが「ネオ・コロニアリズム:帝国主義の最終段階」(1965)で概念化した、形式的独立後も西洋が経済依存、政治操作、文化浸透を通じてアフリカを支配し続ける仕組み。IMF、世界銀行、多国籍企業を通じた財政政策の規定、援助を条件とした統治モデルの押し付けなどが含まれる。
【ウブントゥ(Ubuntu)】
ズールー語などで「人間性」を意味する概念で、アフリカ南部の倫理哲学。思いやり、連帯、相互依存を強調し、一人の人間性は他者との関係を通じてのみ実現されるという世界観を表す。政治的には参加型意思決定、修復的正義、共同体優先を支持。南アフリカの真実和解委員会の基盤となった。
【関係性における人格(Relational Personhood)】
アフリカ思想の中心的概念で、人間の存在を孤立した個人としてではなく関係性の網の目の中に位置づける。ムビティの「私たちがいるから私がいる」という定式が象徴的。人格は生得的ではなく社会参加と道徳的成熟を通じて獲得される。イグボのムマドゥ、アカンのオニパなどがその具体例。
【合意型民主主義(Consensus Democracy)】
ワイルドゥがアカンの伝統から提案した民主主義モデル。多数決による勝者総取りではなく、合意に達するまでの熟議を重視。長老の仲介、共同体価値への訴え、平和優先により包摂性を確保し、対立的・分裂的な政党政治に代わる統治形態を目指す。
【アフリカ社会主義(African Socialism)】
ニエレレやンクルマが提唱した、マルクス主義正統派ではなくアフリカの共同体的価値観に根ざした社会主義。ニエレレのウジャマー(スワヒリ語で「友愛」)村は集団所有と自立を促進し、新自由主義資本主義への代替案を提示した。
【政治思想の脱植民地化(Decolonising Political Thought)】
西洋思想を全面拒否するのではなく、その妥当性を批判的に検証し、アフリカの文脈で意味を持つ形に再構成するプロセス。批判(自由主義が不平等と依存を維持する仕組みの暴露)、回復(土着の統治・倫理伝統の再評価)、再想像(グローバル思想を選択的に借用したハイブリッドモデルの創造)の三段階を含む。
【ムマドゥ(Mmadu)】
イグボ(ナイジェリア)の伝統における「完全な人」。新生児は自動的にムマドゥではなく、命名儀式、道徳的育成、共同体からの承認を経て初めて完全な人格を獲得する。人格が社会的に獲得される道徳的地位であることを示す概念。
【オニパ(Onipa)】
アカン(ガーナ)の伝統における「真の人」。徳を積み、年長者を敬い、共同体に貢献することで達成される人格。富や知性があっても道徳的生活を送らなければ「オンニェ・オニパ(人ではない)」と見なされる。人格が関係性と道徳性の中で実現されることを示す。
【イワ・ペレ(Ìwà pẹ̀lẹ́)】
ヨルバ(ナイジェリア)の伝統における「良い性格」。真の人間性の中心にあるとされ、富や知性よりも道徳的品性が人間を定義する。イワ・ペレを欠く者は、社会的地位に関わらず真に人間とは見なされない。
【脱植民地化(Decolonisation)】
政治的独立を超えて、文化的・知的・経済的支配からの解放を目指す運動。ンギギ・ワ・ティオンゴは「精神の脱植民地化」で、植民地主義が軍隊や経済だけでなく思考様式や想像力そのものを支配すると指摘。自由主義の無批判な採用も文化的植民地主義の一形態となりうる。
【パン・アフリカニズム(Pan-Africanism)】
アフリカの統一と解放を目指す思想運動。ファノン、サンカラ、カブラルらは、真の解放には経済的依存の断絶と文化的誇りの主張が不可欠だと強調。単なる政治的独立ではなく、資源と運命の真の支配を求める。
【ウジャマー(Ujamaa)】
スワヒリ語で「家族性」「友愛」を意味し、タンザニアのニエレレが提唱したアフリカ社会主義の核心概念。集団所有と自立を促進するウジャマー村政策は、西洋資本主義でもソ連型社会主義でもない、アフリカの伝統に根ざした発展モデルを目指した。
【説明責任(Accountability)】
統治者や指導者が自らの行動について説明し責任を負うこと。自由主義の重要な価値だが、アフリカ文脈では共同体的枠組みの中で再解釈される可能性がある。単なる個人の権利保護ではなく、関係性と相互責任の中での説明責任。
【修復的正義(Restorative Justice)】
犯罪や紛争に対して処罰ではなく関係の修復と共同体の癒しを重視する正義の形態。ウブントゥ哲学に基づく南アフリカの真実和解委員会が典型例で、復讐ではなく真実の告白、謝罪、赦し、和解を通じた社会再建を目指した。
【多数決民主主義(Majoritarian Democracy)】
多数派が決定権を持ち、少数派が従う民主主義の形態。自由主義の標準的モデルだが、アフリカの合意型民主主義とは対照的。後者は多数決ではなく熟議を通じた合意形成を重視し、勝者総取りではなく包摂的決定を目指す。
【文化的植民地主義(Cultural Colonialism)】
政治的・経済的支配とは別に、文化・言語・教育・価値観を通じて行われる支配。植民地主義が終わった後も、西洋的な知識体系や思考様式が普遍的で優れたものとして内面化され、土着の知恵や伝統が周縁化される状態を指す。