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人間の本質は善良?──『Humankind』が投げかける希望と現実のジレンマ

 シリーズ: 書架逍遥


◆今回の書籍:Rutger Bregman 『Humankind: A Hopeful History』 (2020年)

  • 概要: 人間の本質は善良であるという主張を、多分野の研究を通じて論証。トマス・ホッブズ的な性悪説に対し、ルソー的な性善説を科学的証拠で裏付けながら、協力と共感こそが人類進化の原動力だったことを示す。



「人間の本質は悪である」――この前提は、私たちの社会システムの多くに組み込まれています。監視カメラ、厳罰主義、競争原理。でも、もしこの前提そのものが間違っていたとしたら?


オランダの歴史家ルトガー・ブレグマンは『Humankind: A Hopeful History』で、まさにこの問いを投げかけます。考古学、心理学、歴史学を横断しながら、人類は協力と共感を基盤として進化してきたという「希望の歴史」を描き出すのです。


しかし、現代社会の巨大化と効率化は、この人間的なつながりを難しくしているのも事実。顔の見えない関係が増え、分断が深まる中で、私たちはどう生きていけばいいのでしょうか。


今回は、富良野とPhronaが、この本が示す希望と現実のギャップについて語り合います。人間の善良さを信じることは、単なる理想論なのか、それとも新しいリアリズムなのか。二人の対話から、現代を生きる私たちへのヒントが見えてくるかもしれません。




急進的なアイデアとしての性善説


富良野:ブレグマンの『Humankind』は、「ほとんどの人は根本的に善良である」っていう主張から始まるんですけど、これを彼は「急進的なアイデア」って呼んでるんですよね。


Phrona:面白いのは、性善説そのものは別に新しくないのに、それが今「急進的」に聞こえるってことですよね。私たちがいかに性悪説に慣れ親しんでるか、っていう。


富良野:そうなんですよ。僕たちの社会システムって、基本的に「人は信用できない」前提で設計されてますもんね。監視カメラとか、複雑な契約書とか、懲罰的な刑罰とか。


Phrona:それって本当に人間の本質を反映してるんでしょうか。ブレグマンは災害時の人々の行動を例に出してましたよね。タイタニック号とか9.11とか。


富良野:ああ、あれは印象的でした。メディアは必ずパニックと略奪を報道するけど、実際の研究では700件のケーススタディで大規模なパニックの証拠は見つからなかったって。


Phrona:むしろ人々は自発的に助け合うんですよね。それも、警察とか消防とかの「権威」じゃなくて、普通の市民が。なんか、人間への信頼を取り戻すような感じがして。


実話としての協力と信頼


富良野:そういえば、実際の「蠅の王」の話、あれ衝撃的でしたね。


Phrona:1965年のトンガの少年たちの話ですよね!小説では子供たちが野蛮化して殺し合うけど、実際は15ヶ月も協力して生き延びた。


富良野:火を1年間も絶やさなかったとか、すごいですよ。しかも議論が起きたら「タイムアウト」制度を作って、必ず謝罪と和解をしたって。子供たちが自分たちでそういうルールを作るんですから。


Phrona:骨折した仲間を見捨てずに、みんなで支えたっていうのも。小説だったら真っ先に見捨てられそうなのに。私、この話読んで、ゴールディングの世界観って実は大人の投影なんじゃないかって思ったんです。


富良野:ああ、なるほど。子供は残酷だっていう大人の思い込みというか。


Phrona:そう。でも実際の子供たちは、困難な状況でこそ協力的になる。これって、人間の本質的な部分を示してる気がするんです。


ホモ・パピーという進化論


富良野:ブレグマンは人類を「ホモ・パピー」って呼んでましたね。子犬人間。最初は冗談かと思ったけど、けっこう真面目な進化論的な主張なんですよね。


Phrona:ベリャーエフの銀ギツネの実験が面白かったです。友好的な個体を選んで繁殖させていったら、見た目まで変わっちゃった。垂れ耳になったり、斑点が出たり。


富良野:人類も同じような「自己家畜化」を経験したっていう仮説ですよね。最も攻撃的な個体じゃなくて、最も協力的な個体が生き残った。


Phrona:「最も友好的な者の生存」。ダーウィンの適者生存を違う角度から見るとこうなるんだ、って。


富良野:でも、これって現代社会とちょっと矛盾しません?競争社会では攻撃的な人が成功するイメージがあるけど。


Phrona:あー、それは文明の影響かもしれませんね。ブレグマンも指摘してたけど、狩猟採集社会では協力が生存に直結してた。でも農業が始まって私有財産ができてから、話が変わってきたって。


文明化のパラドックス


富良野:第5章の「文明の呪い」、あれはけっこう衝撃的でした。文明こそが戦争と不平等の源だって。


Phrona:1万年前まで戦争の考古学的証拠がないっていうのは驚きですよね。何百万年も戦争なしで来たのに、定住してから急に始まった。


富良野:私有財産ができて、それを守る必要が生まれて、権力者が現れて...という流れですよね。でも、じゃあ文明を捨てろっていうわけにもいかないし。


Phrona:そこなんですよね。私たち、もう狩猟採集には戻れない。でも文明がもたらした問題は残ってる。


富良野:イースター島の話も興味深かったです。環境破壊で自滅したって言われてたけど、実際は違った。


Phrona:ヨーロッパ人がもたらした病気と奴隷化が原因だったんですよね。人間の愚かさの象徴じゃなくて、植民地主義の犠牲だった。私たち、都合のいい物語を作りがちなんだなって。


実験の虚構と人間の現実


富良野:スタンフォード監獄実験とかミルグラムの実験についての章、あれも目から鱗でした。


Phrona:有名な心理学実験が実はかなり問題があったって話ですよね。参加者の多くは電気ショックが偽物だって気づいてたとか。


富良野:しかも、命令に従った人たちも「科学の進歩のため」って信じてたから従ったんですよね。つまり、悪意じゃなくて善意から。


Phrona:そう考えると怖いですよね。人は残酷になれるんじゃなくて、善意から恐ろしいことをしてしまう。


富良野:共感の話もそうでしたね。共感は内集団には強く働くけど、それが外集団への敵意につながる。


Phrona:愛と憎しみが表裏一体っていうか。家族を守るために他者を傷つけるみたいな。


現代社会のスケール問題


富良野:でも、ここで大きな問題があると思うんです。ブレグマンは直接的な接触が偏見を減らすって言うけど、現代社会は巨大すぎて、そんな接触が難しい。


Phrona:そうなんですよね。効率化すればするほど、人と人との直接的な関わりは減っていく。


富良野:ダンバー数っていうのがあって、人間が安定的な関係を維持できるのは150人程度らしいんです。でも東京なんて1000万人以上いる。


Phrona:じゃあ、社会が大きくなればなるほど、分断と無関心は避けられないってこと?


富良野:いや、でも完全に宿命論になる必要もないと思うんです。例えば、中間団体の役割とか。


Phrona:ああ、アソシエーションですね。労働組合とか、協同組合とか、NPOとか。


富良野:そう。これらが個人と巨大な社会をつなぐ橋になる。150人規模のコミュニティをたくさん作って、それをネットワーク化する。


スモールワールドと信頼の連鎖


Phrona:スモールワールドネットワークの話も関係しそうですね。6次の隔たりとか。


富良野:まさに。全員と直接会えなくても、信頼できる人を介してつながることはできる。AさんがBさんを信頼して、BさんがCさんを信頼すれば、AさんとCさんの間にもある程度の信頼が生まれる。


Phrona:信頼の連鎖、っていうことですか。それが社会全体の信頼資本を高めていく。


富良野:現代的な例だと、オンラインコミュニティとかコワーキングスペースとか。デジタル時代なりの中間団体も生まれてますよね。


Phrona:Meetupみたいに、オンラインで組織してオフラインで会うとか。テクノロジーを人間的なつながりのために使う。


富良野:ブレグマンも言ってましたけど、すべてを効率化する必要はない。意図的に「非効率」を残すことも大事かもしれません。


希望としての新しいリアリズム


Phrona:結局、ブレグマンが言う「新しいリアリズム」って、人間の善良さを前提にした社会設計ってことですよね。


富良野:今までのリアリズムは「人は信用できない」が前提だったけど、それこそが非現実的だって。


Phrona:でも、これって鶏と卵の問題もありますよね。信頼されないから信頼できない行動を取る、みたいな。


富良野:自己成就的予言ですね。だからこそ、どこかで循環を断ち切る必要がある。


Phrona:ブレグマンの「生きるための10の規則」、あれ実践的で良かったです。特に「疑いがある時は、最善を想定せよ」って。


富良野:簡単そうで難しいですけどね。でも、少なくとも試してみる価値はある。


Phrona:私、この本読んで思ったんです。完璧な社会なんて作れないけど、人間の本質を信じることで、少しずつ良くしていくことはできるんじゃないかって。


富良野:僕も同感です。理想論じゃなくて、これこそが本当のリアリズムなのかもしれませんね。




ポイント整理


  • 人間の本質は協力的で利他的である

    • 災害時の行動研究や実際の遭難事例が示すように、極限状況でこそ人間の善良さが発揮される

  • 文明化がもたらしたパラドックス

    • 私有財産と定住が戦争と不平等を生んだが、もはや前近代には戻れない

  • 有名な心理学実験の問題点

    • スタンフォード監獄実験やミルグラム実験は、人間の残酷性ではなく、善意から生まれる危険性を示している

  • 共感の二面性

    • 内集団への強い共感が、外集団への敵意を生む可能性がある

  • 現代社会のスケール問題

    • ダンバー数(150人)を超える社会では、直接的な信頼関係の構築が困難

  • 中間団体とネットワークの重要性

    • アソシエーションとスモールワールドネットワークが、個人と巨大社会をつなぐ鍵となる

  • 新しいリアリズムの可能性

    • 人間の善良さを前提とした社会設計こそが、より現実的で持続可能

  • 生きるための10の規則

    • ブレグマンが本書の最後に提示する、人間の本質的な善良さを前提とした実践的な生き方の指針。単なる理想論ではなく、科学的証拠に基づいた「新しい現実主義」を日常生活で実践するための具体的なガイドライン。

      • 1. 疑いがある時は、最善を想定せよ:他者の動機が不明な時は最も善意的な解釈を選ぶ。自己成就的予言として良い関係を生み出す

      • 2. 他者について考える時、Win-Winを考えよ:復讐や処罰ではなく、すべての関係者に有益な解決策を探す

      • 3. より多く尋ね、より少なく判断せよ:性急な判断の前に「なぜ?」と問い、好奇心を持って相手の人間性を理解する

      • 4. 共感を和らげ、思いやりを拡大せよ:特定集団への共感ではなく、普遍的な思いやり(compassion)を育てる

      • 5. 理解できなくても理解しようと努めよ:異なる価値観の人々を理解する努力自体が、分断を超える第一歩

      • 6. 他者を愛せよ、自分が愛されたいように:他者も自分と同じように大切なものを持っていることを認識する

      • 7. ニュースを避けよ:24時間ニュースサイクルは世界観を歪める。書籍や直接体験を重視する

      • 8. 画面を捨てて人々と会おう:オンラインより対面での人間関係を優先し、弱い立場の人を攻撃しない

      • 9. 恥じることなく善を行え:シニシズムが支配的な文化で、公然と親切であることは勇気ある行為

      • 10. 現実主義者になれ:人間の本質的な善良さを認識することこそが、真の現実主義



キーワード解説


【ホモ・パピー(Homo Puppy)】

人類の自己家畜化を表す概念


【ダンバー数】

約150人という、人間が維持できる安定的な社会関係の認知的限界


【自己成就的予言】

信念や期待が現実を作り出す現象


【接触仮説】

異なる集団間の直接的な接触が偏見を減らすという理論


【スモールワールドネットワーク】

少数の経路で全体がつながる効率的なネットワーク構造


【アソシエーション(中間団体)】

個人と国家・市場の間を媒介する自発的結社



本稿は近日中にnoteにも掲載予定です。
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