命を救うデザインのつくり方──医療機器と「最適性の翻訳」
- Seo Seungchul

- 11月8日
- 読了時間: 15分

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事:Rebecca Kirby et al. "How Durable Design Can Save Lives" (Kellogg Insight, 2025年9月1日)
概要:ノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院のKara Palamountain教授とRebecca Kirby教授が主導した研究プロジェクト。低・中所得国向けの新生児医療機器の設計指針として15種類の「目標製品プロファイル(Target Product Profiles: TPPs)」を開発。100名以上の臨床医、製造業者、NGO、技術機関などのステークホルダーと協働し、668項目の性能特性について97%の合意を形成。2020年に公開されて以来、7,000回以上閲覧され、38種類の医療機器開発に活用されている。
命を守る技術は、どこでも同じように機能するわけではありません。たとえばアフリカの病院に、最新の医療機器をそのまま持ち込んでも、停電が頻発する環境や砂埃の多い気候の中では、すぐに使い物にならなくなることがあります。では、どうすれば本当に「その場所で機能するデザイン」が生まれるのでしょうか。
ノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院の研究チームが取り組んだのは、新生児医療機器の設計指針を、製造者と医療現場の双方と対話しながらつくりあげるプロジェクトでした。彼らがまとめた15種類の「目標製品プロファイル」は、いまや多くの企業やNGOが参照し、実際に数千台の機器がアフリカ各地の病院に導入されています。
このプロセスは、単なる技術の移転ではありません。供給側と需要側の「言語の違い」を橋渡しし、それぞれが本当に必要としているものを共有可能な形へと翻訳していく営みです。富良野とPhronaの対話を通じて、この「翻訳のデザイン」が何を意味するのか、考えていきましょう。
「つくる側」と「使う側」の間にあるもの
富良野: この記事を読んで最初に思ったのは、医療機器ってただ高性能であればいいわけじゃないんだなってことなんですよね。
Phrona: ああ、そうですね。たとえば酸素濃縮器がどれだけ精密にできていても、砂埃にまみれて故障したら意味がない。その土地の環境や使い方に合わせないと、結局誰も救えないっていう。
富良野: そう、まさに。で、この研究チームがやったのは、ただ機器をつくるんじゃなくて、製造者と医療現場の双方が「これが必要だ」って合意できる共通言語をつくることだったんです。それが「目標製品プロファイル」と呼ばれる設計指針で。
Phrona: つまり、スペック表みたいなもの?
富良野: うん、でもそれ以上のものかな。たとえば「新生児用の体温計」ひとつとっても、どういう機能が必須で、どういう条件下で動かなきゃいけないか、価格はいくらまでなら現実的か、そういうことを細かく定義してる。しかもそれを100人以上の関係者と話し合って、668項目のうち97%について合意にこぎつけたって言うんだから。
Phrona: 97%……すごい数字ですね。でも、残りの3%は合意できなかったってことですよね。それって何だったんだろう。
富良野: たぶん価格とか、その辺りじゃないかな。記事の中でも触れられてたけど、地域によって許容できる価格帯が違うから、そこは一致させにくかったらしい。
Phrona: ああ、なるほど。お金の話は、どうしても立場によって見え方が変わりますもんね。
価格という「翻訳不可能性」
富良野: そう。それでいて、価格って単に製造コストだけじゃなくて、どこまでの機能を盛り込むかっていうトレードオフと直結してるんですよ。
Phrona: トレードオフというと?
富良野: 停電が多い地域で使う機器に、バッテリーを内蔵させるかどうか。内蔵すれば便利だけど、コストは跳ね上がる。一方で、病院側が予備電源を整備すれば、機器はシンプルで安価なものでいい。どっちを選ぶかは、その国や地域の事情によるわけです。
Phrona: つまり、どこにお金をかけるかは、その場所の文脈次第なんですね。それって結局、医療の問題じゃなくてインフラや資源配分の問題にもつながってる。
富良野: まさにそう。だから、製造者側が「この価格で十分だろう」って思っても、使う側の現実と合わなければ意味がない。逆に現場が「こういうのが欲しい」と言っても、それが製造者にとって採算が取れなければ誰もつくらない。
Phrona: 需要と供給が噛み合わないままだと、結局誰も救われないってことか。
富良野: そうなんですよ。だからこそ、この研究チームは「翻訳者」としての役割を果たしたんだと思う。
翻訳としてのデザイン
Phrona: 翻訳者、ですか。
富良野: うん。製造者には製造者の言語があって、医療現場には医療現場の言語がある。その二つは簡単には通じ合わないんです。技術的な専門用語も違えば、何を優先するかという価値観も違う。
Phrona: たしかに。お医者さんが「もっと正確に測れるものを」って言っても、エンジニアからすれば「そのためにはコストが倍になる」とか、そういうズレが生まれますよね。
富良野: そう。で、この研究者たちは、両方の言語を理解して、それを共通の形に落とし込んだ。それが「目標製品プロファイル」なんです。しかも一方的に押し付けるんじゃなくて、関係者全員で議論して合意をつくっていった。
Phrona: ああ、だからこそ、実際にそのプロファイルを参照して機器がつくられて、導入されてるわけですね。
富良野: そうそう。記事によれば、38種類もの医療機器がこれを使って開発されてる。つまり、翻訳がうまくいったから、実際に「使える」ものが生まれた。
Phrona: でも、翻訳って、どこか情報が削ぎ落とされるものでもありますよね。現場の細かいニュアンスとか、製造者側の技術的な可能性とか、完全には伝わらない部分もあったんじゃないかな。
富良野: それはあると思う。というか、97%の合意っていうのは、逆に言えば完璧な一致じゃないってことでもある。でも、それでも「ほぼ合意できる共通基盤」があるだけで、ものすごく前に進むんですよ。
「最適性」は誰のものか
Phrona: そう考えると、デザインの「最適性」って、誰にとっての最適なのかって話になりますよね。
富良野: ああ、それは深い問いだな。
Phrona: だって、この研究が対象にしているのは新生児医療ですよね。つまり最終的に守られるべきは生まれたばかりの赤ちゃんなわけです。でも、赤ちゃん本人はもちろん何も言えない。
富良野: うん。
Phrona: そうすると、医療機器の「最適性」って、実際には医療従事者にとっての使いやすさとか、病院にとってのコスト効率とか、そういう「大人の都合」で決まっていく部分もあるんじゃないでしょうか。
富良野: 鋭いですね。ただ、それは必ずしも悪いことじゃないとも思うんですよ。なぜなら、医療従事者が使いやすい機器じゃないと、結局赤ちゃんを守ることもできないから。
Phrona: ああ、たしかに。たとえば体温計が複雑すぎて看護師さんが使いこなせなかったら、本末転倒ですもんね。
富良野: そうなんです。だから、「最適性」っていうのは、いろんな立場の人たちの利害を調整した結果として浮かび上がってくるものなんじゃないかな。赤ちゃんを守るっていう目的は共通してても、そこに至る道筋は、それぞれの現実の制約の中で探っていくしかない。
Phrona: うーん、でもそれって、ある意味で妥協の産物でもありますよね。理想を言えば、もっと高性能で、もっと安価で、もっと使いやすいものがあればいいわけで。
富良野: もちろん。でも、妥協っていう言葉よりは、「現実との対話」って言った方がいいかもしれない。理想だけ語ってても何もつくれないし、現実に引きずられすぎても前に進まない。その間のどこかで、「今できる最善」を見つけるっていう。
聞くことの難しさ
Phrona: 記事の最後で、研究者の一人がこう言ってましたよね。「バカみたいな質問をする勇気が必要だ」って。
富良野: ああ、その部分、すごく印象的だった。専門家同士で話すときって、つい分かったふりをしちゃうことってあるじゃないですか。でも、それだと本当の理解には至らない。
Phrona: 分からないことを分からないって言える関係性って、実は結構難しいんですよね。特に、立場が違う人同士だと。
富良野: そうなんですよ。たとえば医療現場の人が製造者に向かって「この機能、もっと簡単にできないの?」って聞くのは簡単だけど、「なぜそんなに複雑なんですか?」って根本から問い直すのは勇気がいる。逆もしかりで。
Phrona: でも、そういう問いを投げかけないと、お互いの前提が見えてこない。前提が見えないまま話し合っても、結局噛み合わないですもんね。
富良野: まさに。この研究者たちが「翻訳者」として機能できたのは、たぶん彼らが素直に聞けたからだと思うんですよ。自分が全部分かってるとは思わずに、相手の言葉の奥にある文脈を理解しようとした。
Phrona: 謙虚さと好奇心、ですね。それってデザインにも、もっと広く言えば、何かをつくるすべての営みに必要なことなのかもしれない。
富良野: そうですね。僕もそう思います。
機器が届いた「その先」
Phrona: この話、もうひとつ気になることがあって。機器がちゃんと設計されて、現場に届いたとしますよね。でも、それがちゃんと使われ続けるかどうかって、また別の問題じゃないですか。
富良野: ああ、それも記事に書いてありましたね。研究チームは機器が導入された後も追跡調査を続けて、ちゃんと修理やメンテナンスができる体制があるか確認してるって。
Phrona: そうなんです。つまり、デザインの仕事は「つくって終わり」じゃないってことですよね。使い続けられる環境を整えるところまで含めて、初めて「機能する」デザインになる。
富良野: そこがまた難しいところで。機器そのもののデザインは完璧でも、それを使う人が訓練を受けてなかったり、壊れたときに修理できる技術者がいなかったりしたら、結局使い物にならなくなる。
Phrona: システムとしての持続可能性、ですね。
富良野: そう。記事の中でも、研究者が「真の医療システムアプローチが必要だ」って言ってたけど、つまりは機器だけじゃなくて、それを支えるインフラとか人材とか、全体をセットで考えないとダメだってことなんですよ。
Phrona: じゃあ、この「目標製品プロファイル」も、本当の意味で成功するかどうかは、まだ途中なのかもしれないですね。
富良野: たぶんそうです。研究者たちも、最終的な成功の指標は「新生児死亡率がちゃんと下がるかどうか」だって言ってたし。それが分かるには、もう少し時間がかかるんでしょうね。
Phrona: でも、それでも、こうやって「つくる」と「使う」をつなぐ仕組みができたこと自体が、ひとつの大きな前進なんだろうなって思います。
富良野: 同感です。
他の領域への応用可能性
Phrona: この話、医療だけじゃなくて、他の分野にも応用できそうですよね。
富良野: ああ、それも記事の最後で触れられてた。医療機器以外の市場でも、このプロセスを使えるんじゃないかって。
Phrona: たとえばどんな分野でしょう?
富良野: うーん、たとえば教育とか。途上国で使える教材をつくるとき、現地の教師と教材メーカーが一緒に「理想的な教材とは何か」を定義していくとか。
Phrona: ああ、いいですね。あるいは農業機械とか、日用品とか、いろんなものに使えそう。
富良野: そう。要するに、供給側と需要側の間にギャップがある市場なら、どこでもこのやり方が有効なんじゃないかと思うんです。特に、途上国向けの製品とか、ニッチな市場とか、そういうところ。
Phrona: でも逆に言うと、こういうプロセスが必要ってことは、市場が自然にはうまく機能してないってことでもありますよね。
富良野: そうですね。普通の商品なら、消費者の声がフィードバックされて、メーカーが改良していく、みたいな循環が自然に起きるけど、この手の市場ではそれが起きにくい。情報の非対称性があったり、取引コストが高かったり。
Phrona: だからこそ、誰かが間に入って橋渡しをする必要がある。
富良野: まさに。そして、その橋渡し役になれる人っていうのは、両方の言語を理解できる人なんです。記事でも、MBAホルダーみたいな人が調整役として貴重だって言ってたけど、それはつまり、ビジネスと現場の両方が分かる人ってことなんでしょうね。
Phrona: 技術も分かって、経済も分かって、現場の文脈も理解できる。そういう人が、これからますます必要になってくるのかもしれないですね。
富良野: そう思います。世界が複雑になればなるほど、翻訳者の役割は大きくなる。
翻訳者としての責任
Phrona: でも、翻訳者って、ある種の権力を持つことにもなりますよね。何をどう翻訳するかって、翻訳者が決めるわけじゃないですか。たとえば、現場の声を聞くとき、どの声を拾ってどの声を落とすか。そこには必ず選択が入る。
富良野: ああ、たしかに。
Phrona: この研究でも、100人以上の関係者と話したって言ってましたけど、でもアフリカ全体の医療現場を代表できる100人なんて、本当はいないわけで。どうしても、声の大きい人とか、アクセスしやすい人とか、そういう偏りが出る可能性はある。
富良野: それは避けられないジレンマですね。完璧な代表性なんて、現実には不可能だから。
Phrona: うん。だからこそ、翻訳者には自覚が求められるんだと思います。自分が何を拾って何を落としているのか。自分の翻訳が、誰かの声を消してしまっていないか。
富良野: それを常に意識しながら、それでもベストを尽くすしかない、と。
Phrona: そうですね。完璧じゃないけど、何もしないよりは遥かにマシ。そう思うしかない。
富良野: この研究も、たぶんそういう姿勢で進められたんでしょうね。すべての声を完璧に拾えるわけじゃないけど、少しでも多くの人が納得できる形を目指して。
Phrona: そうやって、少しずつ前に進んでいくしかないんですよね、きっと。
ポイント整理
低・中所得国における新生児死亡の現状
年間240万人の新生児が亡くなっており、そのうち多くは適切な病院医療があれば予防可能。しかし、シリンジポンプや光線療法装置などの基本的な医療機器が、価格面や環境適応性の問題でアクセス困難な状態にある。
目標製品プロファイル(TPP)の開発プロセス
ノースウェスタン大学の研究チームは、WHO指針をもとに15種類の新生児医療機器カテゴリーを特定。臨床医、NGO、製造業者、研究者など100名以上のステークホルダーとフィールド調査・対話を重ね、各機器の最小限・最適な性能特性を定義した。
合意形成の成果
668項目の性能特性について97%の合意を達成。これには機器の重要機能、技術要件、価格設定などが含まれる。残る3%は主に地域による価格受容性の違いなど、完全な一致が困難な要素だった。
環境・人的要因への配慮
高温、砂埃、頻繁な停電といった環境条件だけでなく、看護師の人数不足など人的リソースの制約も設計に反映。たとえば新生児用体温計には、継続的な体温モニタリングと視覚的アラート機能を組み込むなど、現場の文脈に即した設計を追求した。
価格設定をめぐるトレードオフ
バッテリー内蔵機器 vs 病院の予備電源整備など、機能とコストのバランスは各国・地域の事情により異なる。製造・輸送・メンテナンスコストに加え、こうした選択が価格に大きく影響するため、地域間での合意形成が特に困難だった。
実装と影響
2020年にUNICEFウェブサイトで公開されて以来、7,000回以上閲覧され、13の製品カテゴリーで38種類の新生児医療機器(新規・改良含む)の開発に活用された。実際に数千台の機器がアフリカ各地の病院に導入されている。
持続可能性への取り組み
研究チームは機器の導入後も追跡調査を継続。機器の寿命評価、病院技術者やバイオエンジニアへの適切な訓練・修理体制の確認など、「つくって終わり」ではない長期的な視点を重視している。
真の成功指標
最終的な成功は新生児死亡率の実際の低減によって測られる。ただし、それには機器だけでなく、インフラ整備や人材育成など医療システム全体のアプローチが不可欠であり、NEST360や各国政府との協働が鍵となる。
市場ギャップへの介入
低・中所得国の医療機器市場は収益性が低く、需要と供給が自然には結びつきにくい。TPPのようなプロセスは、製造者に「何が必要か、どの価格帯で」を明示することで、情報ギャップや取引コストの高さを解消し、市場を機能させる役割を果たす。
他分野への応用可能性
このアプローチは医療以外の市場(教育、農業、日用品など)にも展開可能。供給側と需要側の専門家を集め、共通の製品仕様を策定するプロセスは、市場が自然に機能しにくいあらゆる領域で有効である。
翻訳者の役割と資質
研究者たちは「良い聞き手であること」「愚かに見える質問をする勇気」「異なる専門領域を横断して調整できる能力」の重要性を強調。MBAのような学際的なバックグラウンドを持つ人材が、こうした橋渡し役として不可欠である。
翻訳に伴う権力と責任
誰の声を拾い、どう解釈するかという選択には必ず偏りが生じる。完璧な代表性は不可能だが、自覚的に最善を尽くす姿勢が求められる。この研究も、すべての声を完全には拾えないという限界を認識しつつ、可能な限り多くの関係者が納得できる形を目指した。
キーワード解説
【新生児死亡率】
生後28日以内に亡くなる乳児の割合。国連は2030年までに出生1,000人あたり12人未満という目標を掲げている
【目標製品プロファイル(Target Product Profiles: TPPs)】
製品開発における理想的な仕様、性能要件、コスト条件などを詳細に記述した設計指針
【低・中所得国(Low- and Middle-Income Countries)】
世界銀行の分類による、一定の国民総所得水準以下の国々を指す経済区分
【NEST360】
サハラ以南アフリカにおける予防可能な新生児死亡の削減に取り組む国際的アライアンス
【ステークホルダー】
製品やプロジェクトに利害関係を持つすべての当事者(臨床医、製造業者、NGO、技術機関など)
【情報の非対称性】
取引の当事者間で持っている情報に格差があり、それが市場の効率的な機能を妨げる状態
【取引コスト】
市場での取引を成立させるために必要な情報収集、交渉、契約、監視などにかかるコスト
【フィールド調査】
実際の現場(この場合は病院や医療施設)で観察・聞き取りを行い、生の情報を収集する研究手法
【バイオエンジニア】
医療機器の保守・修理・管理を専門とする技術者。医療現場で機器を持続的に使用可能な状態に保つ役割を担う
【インフラ】
医療システムを支える基盤(電力供給、通信網、輸送、人材育成体制など)
【トレードオフ】
ある要素を改善すると別の要素が悪化する、二律背反の関係。機能向上とコスト増加など
【合意形成】
多様な立場の人々が議論を通じて共通の理解や決定に至るプロセス
【持続可能性】
短期的な導入だけでなく、長期的に機能し続けられるかという視点
【市場の失敗】
自由な市場メカニズムだけでは効率的な資源配分が実現しない状態。この事例では、需要と供給が自然には結びつかない状況を指す